第88話 異変

 崔遥さいようが宰相に就任し、燎宛宮では大幅な人事の刷新が行われた。

 官職を整理し、さして重要でないと思われるものは、廃止された。騎兵二軍はしばらく都に駐留し、その復興に駆り出される事になった。


 人が減って閑散とし始めていた華煌京は、その兵たちの衣食住を賄う事で、活況を取り戻しつつあった。悪夢の様な出来事は、少しずつ人々の中から、過去になり始めていた。 燎宛宮も崔遥の存在を得て、落ち着きを取り戻し始めていた。そんな頃である。



 朝議で、各所からの様々な報告がなされていた時の事だった。官吏の一人が、書面を読み上げ終えて、陛下の裁可を仰ぐべく、間を取った。さしたる難しい懸案ではなく、答えはすぐに返される筈だった。 しかし、いつまで待っても返答がない。その異変に気づいた臣下の間に、ざわめきが起こった。その官吏が恐る恐る顔を上げると、心ここにあらずといった感じの雷将帝の姿があった。 物思いをなさっているのかと思った。しかし、その瞳はどこか遠くを見ている風で、焦点を結んでおらず、そこから、涙が止めどなく流れ落ちている。


「陛下……陛下っ」

 隣にいた崔遥に呼びかけられて、雷将帝はようやく我に返った様に正気に戻った。そこで自分が泣いているのに気付いて、慌てて涙を拭った。

 その後の朝議はつつがなく進んだ。 陛下はお疲れなのだろうという事で、その場は取り繕われた。だが、この後、同じ様な事が、次第に頻繁に繰り返される様になった。そして、陛下はご病気なのではないかという噂が、燎宛宮に一気に広まった。


 後継者のいない今、例え病気といえど、雷将帝に倒れられては困るのだ。ましてや、命に係わる様な事にでもなったら……この帝国はどうなるのか。そんな先を憂う声が飛び交い、燎宛宮全体が重苦しい空気に覆われた。


 先の宰相天海は、幼い皇帝が、一日も早く独り立ち出来る様にと、自分はあくまで補佐役に徹し、雷将帝自身が執務を理解し、処理できる様に計らっていた。 天海に相談はするが、全ての決済は、最終的に雷将帝が行っていたのである。崔遥もその方針を引き継いでいたが、ここに来て、その見直しを迫られる事になった。

「例え、皇帝が役立たずであっても、有能な官吏が揃っていれば、まつりごとが滞る事はない。陛下には、しばらくご休養頂くが宜しかろう」

 その言葉の下に、雷将帝の権限は、その大部分が宰相に委譲され、病気療養という理由で、皇帝は朝議にも顔を出さなくなった。


 それは幼い皇帝の負担を軽くするという名目の、いわばやむを得ない改革であったのだが、崔遥が有能であったが為に、以降、宮廷においてその権限は、人々の予想を遙かに超えて、増大していく事になった。 そして、この事がやがて、その専横を招き、皮肉にも、帝国に影を落とす宮廷闘争の火種となっていく事になるのである。





 天家は、その当主をうしなって喪に服していた。天祥も忌中であるから、慣例に倣い、出仕を控えなければならなかった。故人の御霊を弔う為に、半ば、謹慎の様にして屋敷にいなければならない。 それが苦痛でならなかった。確かに、天海には恩義がある。感謝してもしきれない。だが、今はそれよりも、優慶の事が気がかりだった。病であると聞いた。心労が重なったのだろうという事は、容易に想像が付いた。


 少しでも良い皇帝であろうと、優慶はいつも無理をして、背伸びをしていた。 何かに急き立てられる様に、必死に、皆が望む様な皇帝であろうとしていた。

 それは、皇帝であるが故の義務感なのかと思っていた。だが、それが、自分を受け入れてくれない母親に、認めてもらいたいが故のあがきなのだと知って、天祥は優慶の孤独の深さを感じた。そんな孤独を抱えている優慶の心情を、周りの人間は誰も理解していない。優慶に、皇帝として、ただ完璧にその責務をこなす事だけを望む。 皇帝として、そこにいるという事が、優慶にとってどれ程の重圧を伴うものであるのかを、燎宛宮の者たちは分ろうとしないのだ。


 側にいて慰めて差し上げたいのに。

 その心の重荷を少しでも軽くして差し上げたいのに。

 そう思う天祥の願いとは裏腹に、燎宛宮からは、何の沙汰もなかった。

 何故優慶は、自分を召し出してはくれないのか。 来いと言われれば、すぐにでも飛んでいくというのに……


 そんな思いが高じて、天祥は当てもなく街へ彷徨い出ていた。何の目的もなく、ただ、人が行き交う雑踏を物思いしながら歩いていた。

 不意に、誰かと肩がぶつかった。

「済まない……」

 言いかけて顔を上げた天祥は、そこに悪意を秘めた顔を見て言葉を切った。

「これは、先の宰相閣下のご子息様。喪中だというのに、この様な場所で遊び歩いていて宜しいのですか?」

 嘲る様な笑いを帯びた言葉を投げかけられた。知った顔だった。同じ近衛の隊士である。


 天祥よりも、年上で、蒼炎が近衛隊長をしていた頃から近衛にいた古参の隊士だ。天家とはそう変わらない大貴族の子弟で、隊長からの信任も厚い。 その彼を、天祥が追い越す形で副隊長の任に就いてしまったせいで、以来、何かと目の敵にされていた。


「御父君亡き後でも、これまでの様に、大きな態度でいられると思ったら、大間違いですぞ。も少し、身を小さく屈めて歩かれるが良かろう」

 挑発されていると、すぐに分かった。

 天祥に侮蔑を込めた言葉を投げかけている相手は、数人の取り巻きを連れていて、こちらが不利なのは、分かり切っていた。普段なら、上手くやり過ごす事を考えたのだろう。 だが、この時は、挑発されるままに、相手に飛びかかっていった。

 ただ、憂さを晴らしたかった。そういう気分だったのだ。そんな訳で、そこで彼らと乱闘となり、そして、その数の差は結果を裏切る事はなく、天祥はかなり痛めつけられた上、道端に放り出された。


 あちこち殴られた痛みで、しばらくそこを動けなかった。その痛みから逃れようとする様に、時折、意識が遠のいていく。自分の無力さが、無性に悔しかった。 優慶様は病に苦しんでいるというのに、自分には何もすることが出来ない。そんな無念の思いに苛まれながら、朦朧としていた処に、声が聞こえた。


……そなたは、力が欲しいのか……と。

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