第18章 燎宛宮炎上

第75話 盟約の終わり

 ゆらゆらと緑色の光が揺れている。麗妃は、夢うつつにその陽炎のようなゆらめきを見ていた。

 すぐ傍らには、生まれたばかりの虎翔が穏やかな寝息を立てている。お付きの者たちも今は隣室に下がり、それを見ている者は、麗妃の他にはいなかった。


 光の中に、濃淡が生じ、緑色の濃くなった部分が、次第に人の形を取り始める。やがてそれは、まだあどけなさの残る少女の姿に変じた。


……地の司、緑星王……


 これがその本来の姿なのか。それは、この大地に生まれ出でる全てのものの生命を司る神だ。

 その姿に魅入られている麗妃のその傍らに立ち、緑星王は静かな目で麗妃を見下ろした。

「そなたが望み、そなたが手にした滅びによって、もう間もなく、我らが盟約は途切れることになろう……」

 ずっと以前からよく知っている声が、麗妃に言った。

「交わされた盟約が果たされぬ時は、そなたは、その命によってそのあがないをせねばならぬ。それが、星王と盟約を結ぶという事だ……我が封印がいま少し早く解かれていたなら、この様な事にはならなかった。それだけを、口惜しく思う……」

「緑星王様……」

「わらわは、盟約の途切れるその瞬間まで、きっとそなたを守る。だが、守りきれると、約束は出来ない。許せ……」

 その緑色の瞳が、せつなげな光を帯びて、そこから涙がひとしずく零れ落ちた。

「……そのお姿は見えなくとも、いつも側で見守って下さっていると……そう感じていました。それで、私はこれまで歩いて来る事が出来たのです。もう、これ以上、何も望むことはございません。ただ、あなた様を天へお返しする事が適わなかった事だけが、心残り……」

「……その様な事……そなたが気に病む事ではない……」

 緑星王の手が麗妃の額に触れた。そこから感じる、心地良い気に誘われて、麗妃は眠りに落ちていった。



 緑星王は麗妃の懐から、蒼みを帯びた水晶を取り出した。それを左の掌にのせ、もう一方の手の指を三本揃えてその水晶に触れる。

「目覚めよ、羅刹の王よ」

 緑星王の声に反応して、水晶が輝きを増した。そこから光が立ち登り、そこに羅綺の姿を生じる。

「そなたに、頼みがある。そなたの記憶を、この緑星王に託しては貰えまいか」

 緑星王の申し出に、羅綺は小首を傾げ、確認する様に言う。

「……この私は、冥王の呪縛を受け、その記憶を封じられている。その記憶が戻る時、私の最も大切に思う者の命が失われる。それが、私が冥王から与えられた罰なのだ。それ故に、かつて私は、この身を消し去ってしまおうとした……」


 だが、それは、棋鶯子の術によって、死を望む心を抜き取られしまったせいで、叶わなかった。羅綺は、生きたいという本能のままに体を再生し、また、抜き取られた心に眠る記憶を守る存在として、もう一つの分身を生んだ。そしてそれには、緑星王の力が少なからず関わっていたのだ。


「その記憶をわらわに預けよ。さすれば、そなたが大事に思う者を救う事ができるやも知れぬ……」

 冥王がそこまでして消し去りたいと思っている、羅綺の記憶の中には、彼の犯した罪を明らかにするものが眠っているはずだ。緑星王は、それを手に入れて、その罪を糾弾してやるつもりだったのだ。


 冥府の王として、人の死に関わり、その運命を操る力を持つ者が、理を外れ、天命操作を繰り返す。そこにいかなる理由があろうとも、この地上の生命を司る緑星王には、その行為は許すべからずものだった。おまけに、その行為に異を述べた羅刹の王に罪を問うなど、もっての他の事だった。許す訳にはいかなかった。


 だから、緑星王は、羅綺の再生に力を貸した。だが、その切り札は、緑星王自身が、白星王の封印を受けてしまった事で、役に立てる事ができなかった。その白星王が、恐らく冥王の意を受けた何者かの手によって封印された。そのお陰で、自分はこうして白星王の封印から解放された訳だが、それが単に、自分たちを自由にする為に行われたのでない事は、分かっていた。


 白星王を封印した者が、遠からず、自分の前にも現れる。

 この身を再び封印する為に。そしてそれを退けることは、今の麗妃には難しい事も。


「棋鶯子の手によって、そなたを再生したは、恐らく冥王の目論み……恐らく、そなたが大切に想う者を、そなたの手によって葬り去ろうという悪趣味な趣向なのだろうな……」

 そして、羅綺は再び絶望へと突き落とされる。そうなれば、羅綺は今度こそ生きてはいられまいと考えてのことだろう。

 冥王に反感を抱き、未だ反抗の機会を伺っている羅刹の勢力は、それで完全に沈黙する。

「そういう目論みだ。それならば、我らはあくまでも、その裏目にと出てやろうではないか」

「……それで、救われるというのか?私の大切な者の命が……本当に?」

 羅綺の瞳が、小さな希望に縋る様に揺れる。

「……約束は出来ぬ。だが、希望がない訳ではない。そなたの記憶を、この者の中に封じ込める」

 そう言われて、羅綺はそこに眠っている麗妃の顔を見る。


「間もなく、私とこの者の盟約は切れる」

「……それは」

 その意味するところは、この娘の死という事だ。羅綺は、その真意を掴みあぐねて、緑星王の次の言葉を待った。

「この者は、冥府に堕ちるだろう。だが、羅刹であるそなたの記憶を封じた身であれば、その命は、冥府において羅刹として転生する事になろう。そうして、しばしの時を稼ぐ。天闇星が輝くまでの……」

「天闇星がこの地上にか……」

「それで、赤星王が四天皇帝として立てば、黒星王は冥王を解任され、天界に招聘しょうへいされる。さすれば全ての片が付く」

 そう言われて、羅綺は納得した様に頷いた。


 緑星王は、羅綺の宿る蒼い球を麗妃の胸の上にそっと置いた。その心臓の鼓動に上下する動きに誘われる様にして、羅綺の球は麗妃の中に吸い込まれていく。

「……生きよ、麗妃。そして、いつかまた……」

 囁く様な声と共に、緑色の光が麗妃を守る様に、その身を包みこむ。やがて空気と混じり合う様にその光が収束していく。そして、小さな星王の気配は消えた。




 夜の静寂の中、その場所で唯一闇を退けていた蝋燭の火が、ふと揺らめいた。何か重苦しい気配を感じて、麗妃は身を起こした。


……何かが来る……


 戦の前に感じる緊迫感の様なものを感じた。落ち着かない気分に動かされる様にして立ち上がり、そっと扉を開いた。不意に姿を見せた麗妃に、そこにいた天祥が慌ててその場に畏まる。

「いかがなさいました?」

 聞かれて麗妃が答えるよりも先に、遠くで怒号が聞こえた。その尋常ならぬ様子に、天祥が思わず腰を浮かせた。

「天祥、様子を見て参れ」

「はい」

 麗妃に言われて、天祥が本宮の方へ走っていく。その姿を見送ってから、麗妃は庭先へ目をやった。その闇の中に、不穏な気配を感じる。

「何者か?」

 麗妃が誰何すると、闇が揺れて、そこに宝剣を手にした緋燕が姿を見せた。

「人払いをした所を見ると、私が何をしに来たのかお分かりなのですね」

 緋燕の問いに、麗妃の体が緑の光を帯びる。

「そなたの望み、そう容易く叶うと思うな」

 そう言って、麗妃は懐剣を抜いた。その刹那にもう剣撃が来た。その衝撃を受け止めた麗妃は、しかし咄嗟の事に体勢を崩す。


 剣を持つのは、一体どれだけ久し振りの事だろう……麗妃は自嘲めいた笑みを浮かべる。呆れる程、その体の動きは鈍かった。繰り出される剣を、辛うじてかわすことしか出来ない。緋燕の動きを追いながら、麗妃は一瞬の隙を探す。


……そこか……


 渾身の力を込めて、剣を突き出した。手ごたえはあった。だが同時に、緋燕の剣が自分の身を刺し貫いている事に麗妃は気づいた。麗妃の意識は、周囲が緑の光に包まれた所で途絶えた。


「……この様な事をしていては、そなたの大切なものを取り戻す事は叶わぬぞ。背信の王よ……真実を求めねば、そなたの願いは果たされぬ……」

 麗妃のものではない声が、緋燕に語りかけた。そしてその指が、緋燕の額に触れる。そこに感じる不思議な感覚に身の毛がよだつ。緋燕は思わず剣を抜き去り、身を引いた。


……それに気づかねば、そなたは永遠に羅綺には巡り会えぬ……


 体に残るその感覚の余韻と共に、緑星王の声が緋燕のなかにこだまする。

「それはどういう意味だ……」

 だが、その問いに答えはなかった。


 麗妃の体から、抜き去った剣の先へ、緑色の光が尾を引いて、そこに緑色の光の玉を成した。そしてあっけなく、その光は封神球に吸い込まれる。それを確認してようやく、緋燕は詰めていた息を大きく吐いた。緊張が解けると、剣を持つ腕に、鈍い痛みを覚えた。目をやると、そこに傷を負っていた。


……これがかつての鬼姫であったなら、仕留めることは出来なかったかもしれない……


 すでに息絶えている麗妃を一瞥して、緋燕はそこから去ろうと足を踏みだした。が、後方から思いがけず殺気を含んだ気配を感じて、肩越しに振り返った。そこには赤子が眠っているばかりである。当惑と共に、視線は部屋の中をさ迷った挙句、赤子に止まった。

「……まさか」

 あろうことか、そこから星王の気配を感じた。

「これが天闇星か」

 緋燕は剣を握りなおし、赤子ににじり寄る。自分の心臓の鼓動がやけに耳に付く。ただ眠っているだけの赤子のはずなのに、そこからあふれ出て来る圧倒的な気配に自分は怯えている。

 緋燕は息を止め、剣を振り上げた。赤子の胸を目掛けて、その刃を振り下ろす。


……仕留めた……


 そう思った瞬間、緋燕の体は炎に包まれた。

「なん……」

 反射的に水の膜を纏い、炎から逃れた。思わず後方に飛んだ緋燕は、赤子の体が炎を吹き上げている様を呆然とした顔で見た。

「……これが火の司か」

 天界で最強という。これがその力なのか。


 炎は床を這い、柱を伝い上り、その場を炎獄に変えていく。もはや赤子に近寄る事すら出来ず、その炎の勢いに、緋燕はいつしか後ずさっていた。覚醒もしていないのに、この威圧感は何だ。これは自分の手に負えるものではない。彼の心の中にそんな思いが生まれる。その動揺を見透かした様に、炎が渦を巻いて、緋燕の体を絡め取ろうとする。そこから逃げる事しか考えられなかった。緋燕はすぐに方位陣を敷き、その場から飛び去った。

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