第76話 向けられた刃

 本宮で天祥は、河南軍が華煌京へ侵攻したという知らせを受けて、慌てて蒼東の宮へ戻った。だが宮へ戻る途中で、宮の警護をしている筈の部下たちが、ほうほうの体で逃げてくるのに行き会った。

「持ち場を離れて、何をしているっ」

 天祥に一喝されて、部下達は口々に宮が燃えていて手の付けようがないのだと訴えた。


 見れば、宮の方で禍々しい黒煙が立ち上っている。天祥は不吉な予感に鼓動が早まるのを感じる。動揺を押し隠し、部下に次々に指示を出す。

「馬鹿か、火を消さずに、逃げてどうする。さっさと水を持って来い。それと隊長に伝令っ。割けるだけの人員を割いてもらう様に。それから、星見の宮から、水系の術師を掻き集めて連れて来い」

 そう言い捨てると、天祥は蒼東の宮へ走った。煙はすでに宮のかなり手前にまで広がっていた。その煙を掻き分けて進んだ天祥は、しかしすぐに炎に行く手を阻まれた。


……麗妃様は……

 水を入れた桶を手にした部下たちが次々に戻ってきて、水を掛け始めた。


……天祥殿、これは、とても大切な任務なのですよ……


 華梨に言われた言葉が頭を掠めた。劉飛と麗妃の子は、帝国の後継者になるはずの子供なのだ。この帝国の未来を託された子供。それを自分は……取り返しのない事をしてしまったのかも知れない。


……宮から火が出るなんて…どうしてこんな事が……


 目の前の現実に打ちのめされ、自分の不甲斐なさに打ちのめされながら、天祥は懸命に炎に水を掛け続けた。

 程なく隊長の元に送った伝令が、増援の兵と共に戻って来た。その伝令から、隊長が天祥に状況報告を求めていると言われ、天祥は兵に指示をしなおすと、重い足取りで皇帝の間へと向かった。




 皇帝の間では、度重なる良くない知らせを受けた優慶が、心配そうな面持ちで、玉座に座っていた。

  いつも側にいる宰相の天海は、南大路門が河南軍に破られたとの第一報を聞くや、皇宮警備の兵を引き連れて、飛び出して行った。今ここにいるのは、八卦師だという棋鶯子と、僅かな近衛の兵たちだけだ。戦況報告が入る度に、河南軍が燎宛宮に近づいてくるのが分かり、その場は重苦しい空気に支配されていた。そこに蒼東の宮から出火したとの知らせである。皇帝である自分がしっかりしていなくてはと思うものの、不安は募るばかりだった。


 そんな時、衛兵が太后の来訪を告げた。

 病を得てから、人を遠ざけ自室に籠り切りで、優慶にもその顔を見せなかった太后が皇帝の間に姿を見せた。かつては、この帝国の政を動かしていた人物である。その存在感に、思わず心強さを感じた優慶だったが、玉座の前に歩み出た太后の顔を見た瞬間、その意に反して背筋を冷たいものが走った。その美しさは相変わらずであったが、病でやつれたせいか、顔の陰影が深くなり、そこに何か狂気を秘めた様な禍々しさを感じる。


「皇帝陛下に申し上げます」

 太后がその御前に畏まり、よく通る声で言った。その場にいた者達は、その威圧感に、ただそこに佇んで太后を見据えることしか出来ない。

「陛下におかれましては、たった今、この場でご退位なさいます様、お願い申し上げます」

 その言葉に優慶が眉をひそめた。

「……何を……仰せですか、母上」

「その玉座をお下り下さいと、そう申し上げております」

「それは到底、正気のお言葉とは思えません。翠狐……」

 優慶が、太后の後方に控えていた翠狐を呼んだ。

「母上は、ご病状が思わしくない様だ。部屋へお連れ申し上げよ」

「私は至って、正気にございます」

「翠狐」

 優慶が救いを求める様に、再び翠狐を呼んだ。

「はあ……」

 翠狐がやれやれという風に、太后の側に寄る。が、翠狐が太后に触れようとした刹那、その体が軽く弾かれて、翠狐がよろめいた。その様子に、棋鶯子が眉をひそめる。


 狂気を孕んだ太后の目が優慶を捕らえ、呪縛から解き放たれた様に、その口からは信じられない言葉が溢れだした。

「お前がいなくなれば、この混乱の全ての片が付くのじゃ。早ようそこをどかれよ。李炎が皇帝となれば……李燎牙の正しき末裔であるあの者ならば、この混乱を収められる。この華煌を、何ものにも揺るがない強大な帝国とすることが出来るのじゃ」


 太后の言葉に、その場は静まり返った。優慶は玉座の上で凍りついている。その静寂を破ったのは棋鶯子の声だった。

「逆賊である。この者を捕らえよ」

 その声に、近衛の兵が太后を取り囲む。その様を見て、太后が怒りに満ちた目を向けて立ち上がる。そのすざまじいまでの形相に、兵が竦んで動きを止める。

「何をしている。早く捕えよ」

 棋鶯子の冷静な声に鼓舞されて、兵たちは太后に手を掛けようとした。

「私に、触れるな!」

 太后の叫び声と共に、目に見えぬ波動が部屋に広がった。

 一瞬の出来事だった。


 咄嗟に防御の陣を張った棋鶯子と、彼女に守られた優慶、それに八卦師である翠狐の外は、一人残らず吹き飛ばされて、気を失いそこに横たわっていた。

「……貴様、正気か。星見がこの宮に結界を張っているのだぞ」

 そんな中で術を使えば、術師はその反動をまともに受ける。だが、棋鶯子の言葉は、太后の耳には入っていなかった。その目は獲物を捕らえた猛禽の様に、ただ優慶だけを見据えている。

 たかが防御の陣を張っただけなのに、棋鶯子の体は自由を奪われていた。同じく翠狐も気絶こそしていないものの、体をまともに動かせない様子である。それなのに、この女は何故動けるのか。


……尋常ではない……


 何が彼女を突き動かすのか。棋鶯子の脳裏に、妄執という言葉が浮かぶ。

「さっさと、そこをどくのじゃっ」

 太后の怒号が飛んだ。

「私はっ……」

 その勢いに、優慶は恐ろしさに声を震わせながらも、言葉を続ける。

「……私は星王の神託を受けた皇帝です。即位の時に、この身に代えても国を守るという誓いを立てたのです。だから、ここから動く訳には参りません」

「笑止な言い草じゃ。たかだか四つの子供が、その意味も分からずに立てた誓いなど認められようか。そなたは神託など受けてはおらぬのじゃ。打ち続くこの戦が、その証拠であろう。李炎は、覇王となりし定めの者。この場所に座る資格を持つ者じゃ。さあ、早くせぬか、彼の者にその場所を譲るのじゃ……」

「嫌ですっ。……李炎は、帝国の混乱を収める者などではありません。それどころか、いまや彼こそが、この争乱を引き起こしているのではないのですか。そんな者に、帝位を渡す訳には参りません」

「そなたは……自分がおなごである事をお忘れか。その身を偽って帝位に座ってたのだという事を、お忘れなのか。そなたには、端から皇帝の資格などない。そなたが皇帝では、この華煌は滅びてしまうのじゃ……あくまで退かぬというのなら、この母の言う事が聞けぬというのなら、その命、この手で……」

 太后が側に落ちていた剣を拾い上げた。

 そして、その剣先を優慶に向けた。


「……何故ですか……母上。母上は何故……何故……私を愛して下さらない……」

 優慶の瞳から涙が溢れだした。


……何故?……


 そう問われて太后は、目の前で泣きじゃくる子供を冷めた目で見据える。しかし、手にしている剣を振り上げて振り下ろす。その行為に躊躇いを感じる事はなかった。


……これで運命は、この私に振り向いてくれる……


 そんな思いが頭を過ぎる。だが、抱いた期待は、派手な金属音と共に、脆くも打ち砕かれた。

「ご無事ですか、優慶様っ」

「……天祥」

 優慶の掠れた声がそう言うのを聞いて、太后は口元に皮肉を込めた笑みを浮かべる。

 この言い様のない感情の理由をその瞬間に悟った。

 それは憎しみという名の感情だ。


……愛せるはずなどないのだ。ずっと憎んでいたのだから。自分はこの娘が皇帝となってからずっと…憎んでいたのだから……


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