第77話 太后の最期
李炎を玉座に付けようという計画は、蒼羽が持ち出してきたものだった。自分があれ程に焦がれ、帰りたがっていた河南は、楊桂に蹂躙され、もう帰るべき場所ではなくなっていた。だが、もし李炎が帝位に付けば、この燎宛宮が河南になる。ここが私の帰るべき場所になる。そんな幻想を抱いたのだ。そしてそれは、いずれは叶うはずの夢だった。
ところが、光華帝が思いがけぬ形で
だが、ここで楊桂が皇帝になれば、間違いなく自分達は燎宛宮から遠ざけられる事になり、李炎を帝位を即けるという夢は手の届かぬものになる。だから、ここは優慶を仮初めにでも、皇帝にするしかないのだと、そう押し切られた。その時の本音を言えば、優慶は神託を受けられず、そこで命を落すと思っていた。その身を偽っている者を、神が認めるはずはないのだと。太后はそう確信していたのだ。だが、持って生まれた天極星という強大な星の力によって、優慶はその資格もないのに帝位を手に入れた。
その星の力の強さに、運勢の強さに、言いようのない不条理なものを感じた。天暮という凶星に翻弄された自分の運命に比べ、その恵まれた運命は何なのか……という思いが生じた。
……そう、嫉妬していたのだ。強い星の下に生まれたというだけで、この様に運命を味方に付けているこの娘を……
その幸運の証ともいうべき指極の少年の存在を否定し、消し去ろうとするかの様に、太后は一心に天祥に剣を振り下ろす。だが、その刃はことごとく弾き返され、少年に傷ひとつ付ける事は出来なかった。
もはや正気とは言えない母と、天祥の斬り合いを、優慶は呆然としながら見ていた。これまで、ただ、恐ろしいとばかり思っていた母の姿は、今は妄執に取り付かれた悲しく哀れな女にしか見えない。そして天祥と剣を交えながら、次第に母のその姿が薄らいでいくのに気づく。
「……母上っ……」
優慶の声が届くより先に、天祥の剣が太后を捕らえた――
その声が届いたのかどうかは分からない。最後に母は、笑っていた様に見えた。だが、その真実を確かめる猶予も与えず、太后の体は光に転じて四散した。後には何も残さず、跡形もなく、その身は消滅した。
「……これが、八卦を使い尽くした者の末路か」
隣にいた棋鶯子が、そう呟いたのを、呆然としながら優慶は聞いた。
「……申し訳ございません」
気がつけば、天祥が優慶の前に控えて、頭を垂れていた。
「……謝る事はない。そなたは、自分の役目を果たしたのだから……よく……やってくれた……礼を……」
優慶は溢れ出そうになる涙をこらえ、天を仰いだ。愛など欠片も与えてくれなかった母。それなのに、感じるこの喪失感は何なのだろう……
いつかは分かりあえるかもしれないと、ずっと微かに抱き続けていた希望を、自分は永遠に失ってしまったのだ。娘として、母親に抱きしめてもらいたいという願いは、もう叶わない……その事実に、優慶の心は押しつぶされそうになる。
「陛下……」
気遣うような天祥の声に励まされて、優慶は心に波立つ感情を押し殺した。
「……大丈夫だ。まだ、泣くわけにはいかない……こんなところで……」
まだ何も終わっていないのだから。戦いはまだ続いているのに。優慶は、涙を止めるために、必死にその悲しみを押し殺した。
「蒼東の宮の火災の件は、どうなっている」
優慶に問われて、天祥は答えに詰まった。
「……はい。殊のほか火の回りが早く、麗妃様とそのご子息様の安否は確認出来ず……」
「……そうか」
優慶は沈痛な面持ちで黙り込んだ。
気絶していた近衛の兵たちが意識を取り戻し、皇帝の間には、とりあえずの落ち着きが戻った。だが、時折やって来る伝令のもたらす知らせは、決して芳しいものではなかった。
部屋の隅で周囲の様子を伺いながら、機会を計っていた翠狐は、伝令が途切れたつかの間に、卓上に都の地図を広げて戦略を思案している棋鶯子に近づいた。
「作戦参謀殿……」
不意に声を掛けられて、不審な表情を浮かべ、棋鶯子が翠狐を見る。
「何か?」
「お聞きしたい事があるのですが……」
翠狐の瞳が、淡い緑の色を帯びて輝いた。その瞳の色を訝しげに見据えた時、棋鶯子の視界が暗転した。
不意に、闇の中から引っ張り出された様に、棋鶯子の意識が覚醒する。
目の前に、見覚えのある情景が鮮烈に浮かんだ。河南の城の楊蘭の私室だ。そこに楊蘭がいた。
そしてその前に、剣を手にした男が一人、立っていた。
……これは……まさか楊蘭様が殺された時の……
棋鶯子の心がざわめく。
男がその剣を楊蘭の胸に突き立てる。
棋鶯子は思わず悲鳴を漏らした。
男がこちらを向いた。その顔には覚えがあった。
「……貴様か……緋燕」
掠れる様な声を漏らした所で、棋鶯子は現実に覚醒した。
緋燕――
自らが呟いた名を、心の中で繰り返す。
それが、自分が探していた者の名か。
棋鶯子は、その男を知っていた。何時からかは分からない。いつの間にか、部下の八卦師たちの中にその男の顔はあった。棋鶯子は、
……奴は……どこに……
自らが決めた兵の配置を反芻しながら、その居場所を思い出そうとする。だが集中しかけた意識が、霞みに覆われ、また混濁していく感覚に襲われる。
……ふざけるな……こんな時に……
また、意識を乗っ取られるのか。そう思った所に、頬に平手を食らった。そのはずみに、黒い霞が四散する。
「しっかりしろ!」
目の前に翠狐の顔があった。遅れて頬に痛みが来る。
「……いつっ……」
棋鶯子は、頬を押さえながら、思わず翠狐を睨む。
「貴様は、どこの無礼者だ。この私の頬を叩くとはな、いい度胸だ」
「冥王の呪縛から解放してやったんだ。文句より感謝が先だろう」
「冥王の……」
翠狐の言葉に、棋鶯子は唖然とする。
「お前、一体……」
棋鶯子が正気を保っているのを見届けて、翠狐が早口でまくし立てる。
「俺は、冥府の羅刹の王、羅綺様の行方を捜している。かつてお前が、西畔で助けた羅刹がいただろう」
……西畔で助けた羅刹……?……
「ああ、あの」
棋鶯子に思い当たる節があると知るや、翠狐は期待に満ちた目をして、その両の肩を掴んだ。
「あの御方は今、いずこにっ?」
その勢いに気圧されて、棋鶯子は問われるままに答える。
「……あれなら、封魔球に封じて、今は劉飛に預けてある……」
「劉飛……劉飛だなっ」
求めていた答えを得るや、翠狐は勢い良く部屋を飛び出していった。その姿を見送りながら、棋鶯子の心は、次第に高揚していく。ようやく見つけた仇の存在は、棋鶯子から平常心を奪っていく。
……緋燕……
その名を心で呟く度に、他の事は何も考えられなくなっていた。
「天祥、ここはお前に任せる。間違いなく、陛下をお守りしろ」
棋鶯子はそう言い捨てて、星見の宮へ足を向けた。この燎宛宮には結界が張られている。自分には覚えのない間に、そういう事になっている。自分ではないものの意思によって……
河南は巫族の力を手にしている。その力がまともに働けば、燎宛宮の制圧も容易い。それを阻む為の結界だと考えられる。理屈は通る。だが、それは同時にこちらの八卦師の力を封じるという事でもある。
……諸刃の策だ。そしてそれを解くのもまた、諸刃……
自分を押さえ込む力の正体を、翠狐は冥王の力だと言った。棋鶯子は唇を噛む。だとしたら、この解放は一時的なものだろう。それ程の力を退ける事は、一介の八卦師である自分には出来ない。また屈辱的にこの体を奪われるだろう。
「その前に決着を付ける」
八卦を使い、緋燕を探し出し、楊蘭様の仇を討つ。その為に、自分は燎宛宮の結界を解く。
……成る程、天暮は滅びを呼び寄せるか……
棋鶯子は自嘲する。結界を解けば、戦況は巫族の力を有する河南軍に有利に傾く。そう思いながらも、しかし、棋鶯子が星見の宮への歩みを止める事はなかった。
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