第14章 黒き王との盟約

第56話 冥王の刻印

 体が重かった。理由は分からない。

 天家の屋敷に与えられた私室で、鶯子おうしは、その意思に反して自由の利かなくなっていく体に憤りながら、床に両の手を付いた。そして、自分の呼吸が荒くなるのを感じながら、もうじき意識が遠のいていく前兆を感じる。


 岐水の浮島で光玉を取り戻してから、棋鶯子の体には、時折、こうして体に変調が現れた。自らの意思に反して、何かに体を支配される様な感覚に襲われ、意識を奪われる。

 意識を失った場所とは、別の場所で目を覚ましたこともある。そんな途切れた時間の存在は、棋鶯子の心に不安の影を落としていた。


 それは、大きな力を得た代償なのか、とも思う。ぶんを超えた力を使えば、術者はその身を蝕まれる。それは、修行を始めた時から、嫌と言うほど聞かされた言葉だ。


……術師というのは、因果なものでな。一つ術を会得すると、その上へ。そうしてまた一つ術を会得すれば、更にその上へと、上らずにはいられないのだ。そうして、思いがけず早くやってきた死の際になってようやく、自分が術の虜囚となっていた事に気づく。その命を術の代価として使い果たしてしまった事に気づくのだ……


 かつて、師でもあった父が、修行にのめり込む棋鶯子を戒めて言った言葉が頭に浮かぶ。それでも、持てる力の全てを費やしても、復讐を果たせるのならば構わないと、棋鶯子は思っている。この世に留まるべき楊蘭の命を守り切れなかった自分の命は、その鎮魂の為にこそ使われるべきなのだと、そう思っているのだ。楊蘭の為に、その命を奪った者に償いをさせなければ、そうでなくては、思いを残して果てた楊蘭の、その魂を供養することは出来ない……


「……飛空術……」


 自分の口から、その意思の支配を受けない言葉が零れ落ちた。体に浮遊感を感じて、棋鶯子の意識は完全に途切れた。




 燎宛宮の北に星見ほしみみやと呼称される塔があり、その最上階に、占術せんじゅつと呼ばれる部屋がある。

 そこには、宮に仕える八卦師によって結界が張られている。国政を占う神聖な方位陣の置かれたその場所は、皇帝の許しを得た者しか立ち入りが禁じられているからだ。そこに、八卦師の気配が現れた。

 その波動は、塔を監視している八卦師にも伝わった。星見の宮に侵入者あり、という報はすぐさま皇宮警備隊こうぐうけいびたいへ伝えられた。



 前例のない事例に対する対処を、即決することが出来るか否か……という所で、得てして、その人物の度量を測ることが出来るものであるが、そういう物差しを使うまでもなく、皇宮警備隊の隊長袁杳えんようは、特にそういう突発的な事項に対して、真に不向きな人物であった。


 先ごろ、めずらしく仕事の出来る副官が彼の元に配属されて来た。元々、仕事熱心とは程遠い袁杳ではあったが、彼のお陰で、袁杳は、輪を掛けて楽をする事を覚えてしまった。

 ところが、体が楽をすることを覚えた頃に、その有能な部下は、あっという間に転属して行ってしまったのだ。その後任の人事も決まっておらず、仕事は口にするのも憚られる程滞っており、何事も起こらなければいいと思っていた矢先の、この非常事態であった。


 すでに寝所に入っていびきを立てていた袁杳が、第一報を受け、うろたえながら、まず寝所を出るまでに相当の時間を要し、服を着替え体裁を整え終わるのに、更に相当の時間を費やした。

 袁杳が隊長室に現れて、ようやく部下に指示を出し、兵が動き出すまでに要した時間は、侵入者にとって、充分すぎる程の時間であった。



 星見の宮の最上階にしつらえられた、占術の間は、八卦の術を用いるのに、最適な場所である。そもそも、八卦の力の源である気の流れの集まる場所であったこの場所を選んで、ここに塔が築かれたのだ。少ない力でも、大きな術を発動することが出来る。ここは、そういう場所である。


 その床に描かれた方位陣の中心に立ち、棋鶯子は西の方に向けて両手をかざした。

操星術そうせいじゅつ……西方の守護者、白虎の風の庇護ひごを受ける者、天明てんめいの星に選ばれし者、汝、そう華梨かりん、冥府の王の召喚に応じ、出でませよ……」

 天明の方に小さな空気の渦が生じ、そこに白く輝く星が現れた。

「……冥府の王の命により、汝に刻印を施す。これより、一の年、一の月、一の日の後、その召喚に応じ、冥府へ参られよ……」

 棋鶯子の言葉と共に、白い星に黒い文字が刻み込まれていく。明るく輝いていた光が、少しずつ陰っていく。それを見据えている棋鶯子の前で、星はゆるりと陣の上に堕ち、床に吸い込まれるようにして消えた。


 その有様を見届けて満足げな笑みを浮かべたのは、勿論、棋鶯子ではなく、その内に宿る水司すいしの星王――黒星王である。

「……さて。恋文の返答は、何時頂けるのかな、白星王」

 そう言って、低く笑った黒星王の気配は、そこで消えた。


 意識を取り戻した棋鶯子は、その途端に、部屋が歪んで見えた事を驚く間もなく、激しい頭痛と眩暈に苛まれ、床が抜け落ちる感覚に襲われて、そのまま陣の上で昏倒した。


 その後、しばらくして、そこに駆けつけた皇宮警備の兵は、占術の間で意識を失って倒れている少年を発見し、これを拘束。この少年は兵の呼びかけにも意識を取り戻さず、手順通りに、牢に放り込まれる事になった。




 華梨は、占術盤の上に、数多光る星を描き出し、その動く様を眺めていた。

 右の手を盤の上にかざし、そこに流れる時間を動かし、星の行く末……即ち未来を読み解いていく。八卦の第二奥義、星読せいどく術である。本来、一度に動かす星の数は、腕のいい術師でもせいぜい数個が限度であるのだが、華梨がこれ程に沢山の星を操ることが出来るのは、彼女が星司せいしの白星王より、星見ほしみの力を与えられているからだ。


 果たすべき盟約の見返りとして、華梨は力を得た。力が欲しかった訳ではない。ただ、子供の頃の、自分のささやかな願いを、白星王は叶えてくれると言った。だから、約束を交わした。


……ならば、この私、星司の白星王が、そなたのその願いを叶えよう。その代わりに、そなたは、そなたにしか叶える事の出来ない、私の願いを叶えてくれるか?……


……私にしか叶えられない願い?……


……そうじゃ。叶えてくれるか?……


……うん。私にしか出来ないのなら、私が叶えてあげる……


――そんな約束だった。

 白星王の願いが何なのか。

 それはまだ聞かされていない。


 何しろ、約束を交わしたのは、十歳の時だ。相手が何を望んでいるのかなど、考えなかった。お前にしか出来ないと言われて、自分にしか出来ないのなら……自分になら出来るというのなら、やって上げる。単純に、子供心にそう思っただけだ。何しろ星王との約束というものが、そんなに大それたものだとは思わなかったのだから、それは仕方のない事である。


 しかし、その言動を見る限り、他の星王達の様に、白星王は華梨を覇王にとは考えていない様だ。だから、その願いが何なのかは、未だに分からない。でも、本当にあの時に願った願いが叶うのなら、白星王の願いがどんな願いでも、華梨は構わないと思っていた。だから、その願いについて、あえて問う事はしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る