第55話 一緒に帰ろう

 息も絶え絶えに最上階に辿り着いた杜狩は、呼吸を整えてから社の扉を開いた。


 扉を開いた途端、もうもうと立ち込める香の煙にむせた。煙で霞む室内の奥にぼうっと朧月のような灯りが揺らめいている。その小さな光の輪の中に、白装束を纏った楓弥が座っていた。

 その瞳は空ろな光を帯びて、ただ虚空をのみ見据えている。部屋に誰かが入ってきた気配すらも感じぬ様に、身じろぎひとつせず、まるで人形の様にそこに座っていた。


「楓弥……」

 呼びかけても反応はない。杜狩は躊躇しながらも、その肩に手を掛けて、そっと楓弥の体をゆする。

「楓弥」

 再度その名を呼んでも、応えはなかった。杜狩は両肩に手を置き、今度は少し乱暴にその体をゆする。だが、そこまでしても、楓弥からは何の反応も返って来ない。目は開いているが、そこに楓弥の意識はないのだと思い至る。


……どうする……


 周翼は連れ戻して来いと言ったのだから、杜狩が楓弥をここから連れ出しても構わないということだろう。そう考えて、杜狩は楓弥を抱き上げた。だが、たいした重みでない筈のその体を支えきれずに、杜狩はよろめき、片膝を付いた。

 手足に力が入らない。それはどうやら疲労のせいだけという訳ではなかった。恐らく部屋に焚き込められている煙が、何らかの作用を及ぼしているのだと、遅ればせながら気づく。


……平坦な道にも、石ころの一つや二つは落ちているってとこか……


 そんなものにつまずいて転ぶとは。物凄く間抜けなのではないか。杜狩はため息をついて、意識のない楓弥の顔を見る。楓弥が目を覚ましていたら、何と言うだろう。その声が無性に聞きたかった。その存在は、間違いなく自分に力を与えてくれる。自分には無くてはならないものなのだ。

「必ず連れて帰るから、心配するな」

 楓弥の存在を確かめる様に、その体を抱き締める。杜狩は一呼吸ついて、再度立ち上がろうと試みる。が、その意思に反して、不意に気が遠くなる感覚に襲われた。抗う間もなく、杜狩の意識は物凄い勢いで、闇の中に引きずり込まれていった。



 楓弥は大きな扉の前にいた。

 その内部には、巫族の術を書き記した書物が収められている。

 自分は、その扉を開く鍵を持っている。

 その扉と、手の中の鍵の他は何も見えない。

 全てが闇に閉ざされていた。



……ここが、神の座。大いなる力を持つ者が座する場所。この場所に辿り着いた者が、力の継承者。我が半身となる巫族の王……


 手の中の鍵の感触を確かめながら、楓弥は暗闇の中で、扉を背に座り込んでいた。

 ここに来た者に、この鍵を渡せば、自分の使命は終わる。そうすれば、追われ続ける恐怖から解放される。身を引き裂くような恐怖から解放される。全て終わりに出来る。そこに待つのが、死というものなのかは分からない。ただ今は、重荷をおろして、楽になりたかった。


 頭を扉に押し付けて、ぼんやりと上を見る。目に映るものは、ただ闇ばかりだ。何も映さない瞳から、ふと涙が零れ落ちた。


……どうして……


 悲しい訳ではないのに。心の琴線に、何か引っ掛かったものがある。この感情は……


……嬉しい?……


 何か大切なものを見つけた。そんな感情がそこに生まれる。


……これは何?……


 そう思った刹那、ちらと、目の端を光が掠めた。驚いて巡らした視線の先には、しかし闇があるばかりだ。……と、


「……楓弥……」

 耳元に声が聞こえた。

 同時に、体を包み込む温もりを感じた。

「その鍵を離せ」

 同じ声が言った。


……だって、これは巫族を守る大切な宝だから、この手から離すわけにはいかない……


「その鍵を捨てなければ、戻れないのだぞ」

……戻るって……どこへ?……

「いいから、私の所に、戻って来いっ」

 暗闇に一条の光が差し込んだ。その光の向こうに、杜狩の姿があった。

「……どうして」

 呆然と呟いた楓弥の瞳が、確かに杜狩の姿を捉え、一瞬にしてそこに生気が戻る。

「若様っ。こんな所で、何をなさっているのですか?」

「説明は後だ。とにかく、その鍵を捨てろ」

「そんな事できる訳こざいません……私は、この鍵を守る宝女なのですよ」

「だから、それを捨てなきゃ、戻って来れないって、言ってんだろうがっ。あ〜もう、いいから、寄こせ」

 杜狩が楓弥の手から鍵を奪い取った。

「若様っ……」

 楓弥が、慌てて杜狩の手から、その鍵を奪い返そうとする。

「鍵をお離し下さい、若様」

「それは、私の台詞だ」

 杜狩は、頑として鍵を離そうとしない。楓弥の心に動揺が走る。巫族の者でない者が、鍵を手にしたら、どうなるのか。

「……この様な、重い運命に、若様を巻き込むわけにはいきません。お願いですから、お離し下さいっ」

「その重荷とやら、私が共に背負ってやるから」

「若様……」

 鍵を手にした杜狩は、鍵を両手で固く握り締め、さらに抱え込む様にして体を丸めた。

「だから、戻って来い。頼む…戻って来てくれ……楓弥……」

 杜狩が苦痛に顔を歪めた。その姿が揺らいで、光を残しながら、闇の中に消えていく。その残光に、楓弥は思わず手を伸ばした。その瞬間、楓弥の手を温かい手が包み込んだ。その温もりを感じて、楓弥は覚醒した。



 目を開けると、そこに杜狩の顔があった。楓弥は座したまま、杜狩に抱きかかえられていた。何かを探す様にして宙を掴んだ楓弥の手を、杜狩の手がしっかりと握っていた。

「……戻って、来たか……」

 杜狩が安堵した顔をして、楓弥の顔を覗き込んだ。

「……若様……いけません。この様な事をなさっては……」

 楓弥の目に涙が浮かぶ。そして徐に、楓弥が杜狩の掌を開いて、そこに自分の手を重ねた。重なった掌が熱を帯びて、そこに光を生じた。杜狩は、楓弥が自分の手から鍵を取り戻そうとしているのだと気づいて、慌ててその手を引き離す。その瞬間に、杜狩の手から楓弥に手に光が飛んだ。

「この鍵を守るのが、私の使命なのです。正しき継承者でないあなたに、これを渡す事は出来ません……」

 そう言って、楓弥が目を閉じた。

「また、あの暗闇に戻るつもりなのか?冗談ではないぞ、待ってたって、誰も来やしない。あんなところで、ずっと一人で待っているつもりなのか?」

「……それが……私の宿命なのですから……」

 楓弥は消え入りそうな声でそう言うと、意識を失った。その体から、みるみる力が抜けていく。その呼吸が次第に遅くなり、途切れた。それを見ていた杜狩は動揺する。

「待て、楓弥、まだ話は終わっておらぬぞ」

 杜狩がその体を激しく揺さぶった。が、その名を呼んでも、楓弥はもう反応を示さない。杜狩の心に怒りが湧き起こる。

「……だから……そうやって……全てを一人で抱え込むなと……言うのが分からぬのか……」

 そう言って、杜狩は生気を吹き込む様に、その唇を楓弥の唇に重ねた。その舌先に、僅かに反応が返って来る。その反応を逃すまいと、杜狩は更に深く唇を重ねた。

……と、楓弥の目が開いた。その次の瞬間。その細腕のどこにそんな力があるのか、と思うような勢いで、楓弥が、杜狩の体を押しのけた。

「わっ、若様っ。何をなさっているのですかっ」

「……正気に戻ったか?」

 そう言って笑顔を見せた杜狩を見て、楓弥の目から涙が溢れだしてくる。

「……分かっているのですか?この鍵を手にするという事は、巫族の因縁をあなたが負う事になるのですよ」

「そなたと引き換えならば、安いものだ」

「馬鹿言わないで下さい。あなたには、事の重大さが分かっていない」

「ああ、分かっていない。多分、私には何も分かっていない。それでも……」

 杜狩が楓弥の体を抱きすくめた。

「その重荷を、共に負いたいと思ったのだ。楓弥、私は、お前が好きだ。平凡な人間である私では、お前には頼りないのかもしれないが……」

 返事は無かった。杜狩の胸の中で、楓弥はただ泣いている。その顔を上向かせて、杜狩が楓弥に顔を寄せる。

「……私では、駄目か……?」

 その反応を伺う様に、杜狩がそっと唇を重ねる。楓弥の口から、吐息が漏れる。楓弥の唇が躊躇いがちに、杜狩の求めに応じた。

「……私では駄目か?」

 杜狩がもう一度聞いた。だが、楓弥はただ、黙って杜狩の顔を見ているばかりだ。杜狩は涙で濡れた楓弥の顔を、愛おしむ様にそっと指で拭う。

「楓弥……」

 名を呼ばれて、楓弥の口が微かに動く。杜狩は全身を耳にして、その口元に全神経を集中する。

「……若様……私は……」

 しかし、楓弥は何かを言い掛けて、また思案するように口をつぐんでしまった。杜狩は、審判を待つ様に、その先の台詞を待っていたが、その先が中々出て来ない。


「……その先……はっ?」

 思わず聞いた杜狩の、ひどく緊張した様なその面持ちに、楓弥の口元がふと綻んだ。

「若様……」

「うん……?」

「……実は私は面食いなのです」

 杜狩には、その言葉の意味が分からなかった。だから、思ったまま、素直に、こう言った。

「ならば、私で構わないだろう」

 その答えを聞いて、楓弥が吹き出す。

「……笑う所か?」

 杜狩が顔をしかめる。その不満そうな顔に微笑みを返して、楓弥が、杜狩の首に手を回した。楓弥の瞳の中に、自分の顔が映っている。それを見て、やはり思う。

……笑う所ではあるまいに……

 杜狩は笑われた事を少し理不尽に思いながら、今度は楓弥に導かれる様に唇を重ねた。


 触れ合う肌の温もりの全てが愛おしかった。本当に、春の陽だまりの様な人だ。この人ならば、冷たく闇に閉ざされた自分の宿命も何もかも全て、包み込むように溶かしてくれるかも知れない。

 杜狩の息遣いを側に感じながら、楓弥はそんな事を思っていた。




 山の連なりの向こうに、陽が落ちていく。白い稜線が紅に染まっていた。


……随分と、時間が掛かるものだな……

 ふと、風に紛れて藍星王の声がした。


「無粋な事は言いっこなしですよ」

 周翼が笑って言う。

「ここからは、星が綺麗に見えます。ここで夜明かしというのでも、私は一向に構いませんが……」

 事が終わるまで、ここでじっと待っているというのも、無粋ではないのか。藍星王は苦笑する。


……実はな、お前を岐水から連れ出すのに、白星王に河南から星を飛ばしてもらう様に頼んだのだ……


 それが、楓弥だったというのか。周翼は考え込む。白星王が意図したものかは分からないが、間違いなくそのお陰で、周翼は巫族という、大きな力を手にすることになった。


……黒星王は、そなたをここに寄越したくなくて、ちょっかいを出して来た様だが……


 周翼があのまま、あの岐水の八卦師を追っていたら、巫族の力はこちらに落ちて来なかった。恐らくそれを見越してなのだろう。黒星王は、周翼に天暮星の存在をほのめかし、彼を岐水から連れ出した。だが、白星王の動かした星の力の方が強かったが為に、周翼はこちら側に引きずられた。


……私が、引きこもっていたお陰で、白星王に大きな借りが出来てしまいましたね……

 周翼がそう言うと、藍星王が少し思案するように間を置いて言う。

……それはどうかな……お前を河南に呼び戻す為だけにしては、動かした星が大きすぎる…未来見の星司の意図は正直、読めない……

……白星王の意図……


 周翼は華梨の姿を思い起こす。華梨は白星王の覚醒によって、八卦師の力を開花させた。星見を再開して、その華梨が今、劉飛の傍らに付いている事を知った。どうして劉飛なのか。白星王は、華梨に何をさせようとしているのか。周翼はその答えを考えたくはなかった。白星王は、藍星王の味方にはならないという事なのか。そう思った周翼に、藍星王が追い討ちを掛ける様に言う。


……そもそも、お前は、白星王に嫌われておるからな……

……そう……なんですか?……

……何せお前は、大事な娘を泣かした憎っき奴、なのだからな……

 それは憎まれているかもしれない。周翼は苦笑する。つまりそれは自分のせいなのか。

……未来見を敵に回すと、厄介なのだがな……

 藍星王がぼやく様に呟く。

……お前が華梨を迎えに行ってやれば、白星王の機嫌も直るやも知れぬぞ……

 白星王に頭を下げた事が、余程不本意だったのだろう。出来もしないことを言って、藍星王はあからさまに周翼に八つ当たりをしている。


 一度、冥王府に足を踏み入れた周翼は、仮初めの生を与えられて、この世に戻って来た。だから藍星王との盟約を果たしたら、周翼は冥王府に戻らなければならない。それが、冥王府を出る時に、羅刹王羅綺と交わした約束だった。

 当たり前の人として、この世に留まることは、自分にはもう許されていないのだ。そんな自分が、華梨の思いに応える事など、出来はしない。

「……岐水での事は、謝りますよ。だからもう、勘弁して下さい」

 周翼が、少し傷ついた様子で言うと、藍星王の声はそこで途切れた。



 今まで考えない様にしていた華梨のことが、ひとたび思い出してしまった今、消し去ろうとすればするほど、周翼の心の内から、幻影となって溢れ出してくる。懐かしい声がその耳にこだまする。狂おしいまでに、その心を揺り動かしていく。


……華梨……


 その笑顔が見たい。

 その声が聞きたい。

 その体を、抱き締めたい……


 そんな思いに翻弄される。

 周翼は救いを求める様に、空にその少女の守護星である天明星の輝きを探す。

 北の天高く、蒼白く輝くその星は、それを見上げる者の思いも知らず、ただ静かに輝いているばかりだった。


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