第54話 あれから九年
その後姿に、周翼は立ち上がって一礼すると、その視線を、屋敷の裏手にある岩山の上へ向けた。つられて、杜狩もそちらを見ると、幾本もの長旗が、風にたなびきながら、上へと上って行く様子が伺えた。
「杜狩、まだ山登りをする元気は残っているか?」
ゆっくりと進む長旗を目で追いながら、周翼が言った。
「あの頂の
その名を聞いて、杜狩は思わず、そこにそびえ立つ岩山を見上げた。そこを上って行く祭列に、本能的に、何か不穏なものを感じる。
「……九鉾様は、楓弥は八卦師ではないとおっしゃっていた。ただ、巫族の者なのだと……占術の類には通じていた様だが……楓弥は一体……」
「昔、私がここで修行していた頃、村から、娘が逃げたと大騒ぎになった事があったんです。今思えば、それが楓弥だったのでしょう。十年近く経ってもなお、彼らがその行方を追い続けていたのだとすれば、楓弥は恐らく、宝女という存在だったのだと思います」
「たからめ?」
「巫族の呪術の全てを、その体に記憶している者のことです」
巫族は、その特殊な力のせいで、時に、権力を持つ者に便利な道具として使われ、時に、その力を恐れる者によって迫害を受けた。そういう歴史の中で、その血と共に、その力を絶やさずに、確実に継いでゆく方法として考え出されたのが、宝女という存在であった。
「宝女自身は、その力を使う事は、ほとんど出来ないが、継承の儀式を行うことで、古より受け継がれてきた、巫族の技の全てを、術者に授けることが出来る。そういう存在なのです」
「それが楓弥なのか?」
「八卦師ではない楓弥が、この私の行方を付き止めたというのなら、巫族の村を逃げ出して、その力を封じていたというのなら、恐らくそういう事なのだろうと思います。……春夏の位を持つ者には、その儀式を受ける資格が与えられる。新しい一族の長を選ばなくてはならなくなった時、長老が四人の匠師の力量を測り、その候補者を決めるのです。あの祭列は、その継承の儀式へ向かう祭列……」
「あれを、止めるのか?今から追いかけて?間に合うのか…」
その山の高さを見て、ほとんど体力を使い果たしている杜狩は躊躇する。
「止めますよ。私のせいで、楓弥が継承の儀式をする羽目になったなんて言われたら、正直、寝覚めが悪いですからね」
周翼がめずらしく不愉快な顔をして、語気を強めて言った。その様子に、杜狩の中に不安が広がる。
「継承の儀式って、何をするんだ?楓弥は……」
「力の継承は、術者が宝女と交わる事で果たされる。それが、継承の儀です」
「な……ん……だと……」
杜狩の全身から、血の気が引いた。その山の上り口に向かって、杜狩が走り出そうとする。が、疲労した足は本人の意思に反してもつれ、杜狩はそこに倒れ込んでしまった。それでも、両腕で這うようにして、前に進もうとする。その姿を見て、周翼が満足そうな笑みを浮かべて呟く。
「……強き思いは、星をも動かす……か」
……人の思いを弄ぶとは、お前も大概、人が悪いな……
心のどこかで、不意に藍星王の冷めた声が聞こえた。
岐水で霧に閉ざされていた間、周翼には藍星王の声が聞こえなかった。周翼は、その地に何らかの障壁が存在しているせいなのだろうと思っていたが、その実は、自身が行く道に迷いを生じて、無意識に心を閉ざしていたせいだったのだと気づいた。
久しぶりにその声を聞いて、周翼は、その思いがもう揺らぐ事は無いと、この先はただ、前だけを見て行くのだと、改めて自身に言い聞かせた。そして一呼吸おき、不敵な笑みを浮かべて、藍星王に挑むように言葉を返す。
……そういう事をさせたくて、匠師の私をあなたの相棒に選んだのではないのですか?……
そんな周翼の表情に、藍星王がポツリと言う。
……何だかな……お前、最近目つきが悪くなって来てるの、気づいているか?……
言われて、周翼は苦笑する。
それは、ちょっと、嬉しくない話だ。
……まあ、お前が宝女を封じるというのなら、それに越した事はない……
宝女の力がこの世に出ては、余計な波が立つ。大きな力の干渉を受ければ、星の動きにも影響が出る。正直な所それは、藍星王にとっては、ありがたくない話なのだ。
……杜狩ならば、きっと役に立ちますよ……
事が宝女という大仰なものだとは思わなかったが、自らの意思でいなくなった楓弥を連れ戻すには、杜狩という存在が必要だと、八卦師である周翼が直感的にそう感じたのだ。だから、足手まといを承知で、ここまで連れてきた。
「
周翼の言葉と共に、その場につむじ風が巻き起こる。その風は杜狩と周翼の体を巻き上げて、山の頂へと運び上げて行った。
不意に、一陣の風が巻き起こり、そこに季節外れの桜の花弁が舞い飛んだ。その薄桃色の霞のなかから、二人の若者が姿を見せた。祭列の先頭にいた
「長老様のご意思である。継承の儀は中止せよ」
少年が良く通る声で告げた。その姿を見て、夏位が眉根を寄せる。
「……春位匠師……か……?」
「お久しぶりにございます、夏位様」
「お久しぶりって……」
相手が周翼だと分かると、夏位の顔に途端に笑みが広がる。
「大きくなったな。見違えたぞ」
夏位の台詞に、祭列にどよめきが走る。
……春位様がお戻りになった……
……亡くなられたのでは、なかったのか……
……春位様がお戻りになられたのなら、継承者の選定をやり直すということになるのか……
そのどよめきの中から、面布を被った一人の男が、狭い道を、居並ぶ者たちを押しのけてやって来る。
「相変わらず、場の空気の読めぬ奴だな。
顔を隠していた布を取り去って、
「……この後に及んで、今更、取りやめになど出来ると思うのか?宝女は、もう神の座に着いておるのだぞ。継承が行われなければ、巫族の技は失われる」
「それでも、それが長老様のご決定です」
「ふざけるな。先の春位を下した時もそうじゃ。そなたは得意真面であったが、あの時そなたが春位を受けた事を、快く思っていた者など、一人もいなかったのだぞ。おまけに、そうまでして得た春位を、そなたはあっさりと放り出して行きおって。長老様がお気に召されているのを良い事に、此度は、いかなる甘言をもって、長老様をたぶらかしたのだ」
「……この私のことはともかく、長老様を愚弄なさるその言い様は、お改め下さい」
その周翼の鋭い目つきが、覡紹の癇に触った。
「面白い。ならば、力ずくで止めてみるか?」
身を乗り出した覡紹を、側にいた覡唯が止めた。
「よせ、覡紹。あれから、もう九年経っている」
言われた覡紹は、唇を噛み、心底口惜しそうな顔をする。
……これは、十年たったら、例え冬位様でも
小さな春位を見て、彼らが抱いた思いは、間違ってはいなかったのだ。
あれから、九年だ。
まだ九年なのか、もう九年なのか……
その答えは問うべくもなかった。
目の前の春位の力がどれほどのものか。匠師である彼らには、一目瞭然だった。
「……そなたは、全ての責を……その背に負うというのか?」
吐き出すように覡紹が言う。迷いなく頷いた周翼に、覡紹が呆れた顔をする。
「……馬鹿だよ、お前は。わざわざ重い荷を負う為に、戻って来ることもあるまいに」
あの時は、幼なすぎて、何も分かっていなかった。力を得る事の意味を。ただ、自分が強くなっていくのが単純に面白かったのだ。
後に、自分が春位を手にした事で、周囲に広げた波紋の事を理解した。冬位が自ら命を絶った理由を理解した。そして、春位となってから、村人から感じた疎外感の訳を理解した。この自分が、巫族の行く末に、影を落としてしまったのだという事を理解した。その罪悪感は、周翼に一度、八卦師を捨てさせた。だが、違うのだろうと思う。
「この力は、その責を負う為に与えられた。それが、私が春位に選ばれた理由なのだと、今はそう理解しています」
周翼の表情に揺ぎ無い意思を読み取って、覡紹はため息を付いた。
「……ならば、そなたがこの巫族を統べるがよかろう。我らは、そなたに従おう」
「ありがとうございます」
「望んで憎まれ役を引き受けるか……」
「今更ですよ。私はもう、十分に憎まれているのでしょう?」
にこやかにそう言い返す周翼を、覡紹は複雑な顔で見る。
周翼は今、いずれ燎宛宮と事を構えることになるだろうと目されている河南の領官に仕えている。その周翼が巫族を統べるという事は、自分たちもまた、燎宛宮に敵対するのだと、その立場を明らかにする事に他ならない。
……それが、巫族の行く末か……
それで巫族が生き残れるのかどうかは、誰にも分からない。春位の力が、自分たちを救うものであるのか、それとも、自分たちを滅ぼすものであるのか。今の自分達には、予測が出来ない。ただ、それを見届けることしか出来ないのだ。
「……それで、儀式はどうするのだ?そなたが代わりに参るか?そなたには、その資格があるのだからな」
「いえ。宝の開封は行いません」
「……儀式を行わずに、すでに神の座にいる宝女をどうやって呼び戻すのだ?」
覡紹の問いに、周翼が連れの若者に視線を向ける。
「この者は、河南で
覡紹が、杜狩の顔を一瞥する。
「……そういう事なら、好きにするがいい」
覡紹はそう言い捨てて、踵を返し、今来た道を下ってゆく。それを覡唯が慌てて追いかける。覡唯は、覡紹の袖口を掴んで、早口でその耳元にささやいた。
「いいのか?それでは、宝女の力が失われてしまうぞ」
「失われはせん。その体の中に、再び封印されるだけだ」
「……再び封印されるとなれば、その力の復活までに、長い時を要する事になる。それを分かって言っているのか?」
「……それが、我らが従うと言った、春位の選んだ道だ」
覡紹が不愉快そうに言い、覡唯の手を振り解いて急な山道を下っていく。
「……」
覡紹の不愉快の訳を何となく察して、覡唯はそこから周翼を見上げた。
「……新しい長は、我らに外に出よと、仰せか……」
覡唯は呟いて、後ろも振り向かずに歩いていく覡紹の背を追った。
祭列の長旗が、二人の匠師を追って、山を下っていく。それを見送って、周翼は高い塔を見上げた。
「……杜狩、ここからは歩きだ。楓弥は、この塔の最上階の
「……私、一人でですか?」
「儀式に際して、ここには選ばれた者、ただ一人しか入ぬ様になっている。でも大丈夫だ。別に変な術が仕掛けてあるとか、魔物が出るとか、そういう事はないから」
周翼が杜狩の不安を払拭する様に、明るく言う。
「行って来い」
周翼に促されて、杜狩が塔の入り口を用心深く開く。塔の外壁にそって、階段が螺旋状に上へ伸びている。遥か上の方から、風が吹き降ろす音が聞こえる。
……高いな……
漠然とそれだけを思って、杜狩は塔の上を目指した。
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