第53話 春位匠師(しゅんいしょうし)
「そこにいるのは、何者か?」
門の上の岩陰から、誰何を受けた。
その声の主の方へ、周翼が右手を開いて掲げる。するとその掌に、鮮やかに光の文様が浮き上がる。それを見て、門番が息を飲み、目を見開いた。
「
その門番に宣言する様に、周翼が良く通る声で言った。それを聞いて、門番が慌てた様子で、岩場に姿を隠した。ややあって、門が鈍い音と共に開かれてた。寸分を置かず、中から中年の男が、先程誰何した若者を引きずる様に連れて来て、揃って周翼の目の前にひれ伏した。
「これはご無礼をいたしました、春位匠師様。この者は、ここへ来てまだ日が浅き故、春位匠師様のお顔を存知あげず……」
「……構わないよ。ここに来たのは、七年ぶりだ。それに恐らく、今、春位は空位になっているのであろう?」
「……ご存知でしたか」
「ご存知というか……まあ、そうなんだろうなと、思っただけなんだけどね。成る程、そういう事か……事情は分かった」
そう言うと周翼は門を潜っていく。杜狩の方は、事情が分からないまま、その周翼を追いかけた。
そして……
杜狩は、今度は、延々と続く石段を上らされていた。
……結局、階段上らされんじゃないか……
軽快な足取りの周翼とは対照的に、疲労に体を支配されている杜狩はもう息が上がっている。それでも、立ち止まる訳には行かなかった。この先に楓弥がいる。ただ、それだけを心の支えに、杜狩は階段を上り続けた。
石段の途中で、小さな門を幾つか潜ったが、そこに立っていた門番は、二人に気づくと、無言のまま会釈をして門を開き、ただ彼らが通り過ぎるのを待った。周翼が言うには、先刻の大門の番人から、伝令が回っているらしい。
階段を上りきり、華やかな細工の施された楼閣を持つ門を潜ると、そこに小さな集落が現れた。周翼は、その集落の中の一番大きな建物へ向かって歩いていく。
過ぎ行く人々が、周翼の姿を見つけて、一様に驚いた顔をして、慌ててその場に直立して会釈をして寄越す。その様子に、杜狩は何か違和感を覚えた。
道々、周翼が話して聞かせてくれた話から、杜狩は、周翼が匠師という、八卦師の中でも一番上の位を持っているのだと知った。匠師には、更に四つの位があり、それを下から、春位、夏位、秋位、冬位と呼ぶものらしい。春夏の位は、八卦師の能力によって決められる。その位を持つ者と技を競い、それを制すれば、その者が新たにその称号を得る。
九年前、周翼は、当時の春位を倒して、僅か八歳で、その位を得たという。
詰まるところ、ここでの周翼は、相当に偉い人という事になるのだろう。だが、彼に向けられる目に込められているものは、純粋に尊敬の念だけではないと、杜狩は感じた。
滑らかな水面に、落ちる水のひと雫。それが音もなく波紋を広げる様に、周翼の存在もまた、ここに何らかの波紋を生じさせるものである様だった。
集落の奥のその屋敷は、村の長老の住まう場所であった。その屋敷の前に、恐らく、下からの知らせを受けたのだろう、初老の男が一人、周翼を待っていた。
「
周翼が挨拶すると、男が不思議な笑みを浮かべた。
「……大きな影を背負っておるのだな、春位」
言われた周翼は、恐縮した様に、深々と頭を下げた。
それでも、両家の交流は、周家がここを去った後も続き、周家の者が修行にここを訪れる事もあれば、覡家の者が、八卦師として請われ、野に下る事もあった。だが、皇家に仕え、一度は隆盛を極めた周家も、打ち続く戦乱の中で、今では周翼が、最後の一人となっていた。
八卦を存続させるという点においては、結果的に、覡家の選択が正しかったという事になるのであろうが、権力者におもねらないその生き方は、時に、権力者に理不尽な刃を向けられる事もあった。天望村は、これまでに数度、華煌による討伐を受けている。その度に、彼らは村の場所を変えながら、その災難を逃げ延びていた。
九年前、八歳で春位匠師となった周翼の才能を、覡霞は気に入っていた。いずれは、彼を自分の後継者にと、考えてもいたのだ。
だが、その二年後、河南で起こった反乱の行く末を案じ、覡霞が止めるのも聞かず、周翼は山を降り、戦渦の中で、その消息を絶った。覡霞が八卦を用いてその行方を捜したものの、周翼の行方は分からなかった。周翼は死んだのだと、覡霞は思っていた。以来、新たな匠師が現れることもなく、春位は空位の扱いになっていた。後に、覡霞はその生存を知ったが、同時に周翼が八卦師を捨てた事も知り、他の匠師たちと諮ってその存在を過去のものとした。故に、村の者は皆、周翼はすでに死んだものだと思っている。
その周翼が、今、自分の目の前にいる。
七年前とは、どこか異なる気配を纏って。
「そなたは、何ゆえ、ここに参った」
「私を未だ、春位であるとお認め下さるのならば、私にも継承者を競う権利がございます」
その台詞に、覡霞は周翼がここに戻って来た訳を悟った。だが、目の前にいる人物が、どういう者であるのかを探る様に、覡霞は話を引き伸ばした。
「
「長老様のお許しを頂けますれば、ぜひに」
「力のある者が、宝を継承する。それが、我が巫族の掟じゃ。争うまでもなかろう。秋位では、今のそなたには及ばぬ」
「では、この私を継承者とお認め下さるのですか?」
覡霞は、周翼がその身の内に秘める力を吟味するように、しばらくその顔を眺めていた。ややあって、ようやく口を開くと、厳しい顔をして言った。
「……そなたが、春位であるというのなら、認めよう。だが、そなたは、最早、春位ではあるまい。それは、そなた自身が一番分かっていることであろう。その掌に春位の紋を持とうとも、そなたはすでに、春位ではあるまい。違うか?」
言われた周翼は、僅かに顔をこわばらせた。
「この私に、小手先の詭弁が通じると思うてか。そなたの師を見くびるでないぞ」
周翼が恐れ入った様に、そこに膝を付いた。
「お見それいたしました、お師匠様」
「その心の真を見せよ」
問われて、意を決した様に、周翼が顔を上げた。
「では。継承の儀をお止め下さる様、長老様に、ご進言申し上げます」
「理由を申してみよ」
「強き力は、大きな反発を伴います。恐れながら、今の秋位様では、その反発を跳ね除けることは叶いません。宝の継承が行われ、この天望村に新たな長の存在ある事が知れれば、華煌の槍の矛先は、再びこの地に向きまする」
「……今皇帝には、炎雷帝ほどの力はない。内乱を繰り返し、疲弊している華煌には、もはや我らを討つ力はあるまい」
「腐っていても、巨木は未だ倒れず。倒れないには、倒れないだけの訳がございます」
「今、力を得るは、得策ではないと申すか?」
「今しばらく、時をお待ち下さい」
「……時を待て、か……」
若い弟子の言葉を、覡霞はかみ締めるように呟く。自らに残された時間が残り少ない事を、覡霞は知っていた。後継者に選んだ
実は、九年前の周翼の春位獲得は、一族の中に小さな軋轢を生んだ。
周翼の、その計り知れない力を目の当たりにして、他の匠師たちの中に、危機感が芽生えたのだ。この少年は、そう遠くない未来に、自分達の位を取りに来る。彼らは、そう感じた。そして、その意識が一番強かったのが、匠師の最上位にいた
一族の中で、長老に次いで、長年、敬い称えられていた自分が、年端もいかぬこんな子供に、無様に敗れ去るかも知れない。その思いは、冬位には屈辱的なものであったのだろう。そして、その思いは、冬位を宝女の獲得という暴挙に走らせた。冬位は長老の裁可も得ず、掟を破り、力を得ようとしたのだ。
その事が引き金になり、宝女はこの村から姿を消した。その母親が、娘の身を案じて、村から逃がしてしまったのだ。その責を負い、冬位は自ら命を絶った。
その一件以来、周翼は村の者から、距離を置かれる存在になった。そして二年の後、周翼は村を去った。村を守るべき匠師を相次いで失い、その力を継承する存在であった宝女を失った巫族の命運は、そこから、明らかに衰退の方へと傾いていった。
冬位が失われた後、秋位であった覡紹は、冬位の取得を望んだが、その力はその域には遠く及ばず、それは認められなかった。故に、冬位もまた、未だ空位のままだ。しかし、天の星が目まぐるしく動いている。戦雲が、この華煌の地を覆いつくそうとしている。この村が、その雲に飲み込まれない為に、後継者である覡紹には、更なる力が必要だと感じていた。そんな折、長くその行方を追っていた宝女が現れたのだ。天の采配であると感じた。
……事を焦り過ぎたのかも知れぬ。だが……
覡霞は、眼前に控えている周翼を見る。失われたと思っていた、春位がここに戻った。これこそが、天の采配なのではないか。
「この村の行く末を、そなたに預けても良いのか?」
「私とて、巫族の末裔。何よりもまず、一族の安泰を願う気持ちに、偽りはございません」
真摯な顔でそう言った周翼に、覡霞はふと笑った。
「私も老いたな。この心は、そなたの言葉を信じたがっておる。信じて、楽になりたがっておるわ」
「覡霞様……」
「そなたが、その身と引き換えに得た指極の力。いかようの物か。とくと見せてもらうぞ」
全てを見透かした様な長老の目に、周翼は恐縮した様に深々と頭を下げた。その頭の上から、覡霞の言葉が下りてくる。
「秋位は、すでに神の座に向かっておる。そなたの思う様にしてみよ。私が許す」
覡霞はそう言って、屋敷へ戻って行った。
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