第52話 彼と彼女の隔たり

 山々の連なる峰が、遥か下方に見えた。

 この村の場所でさえ切り立った岩山の頂きであるのに、その村の一番高い場所に、こうして塔を築き、八卦師たちは更に、高みを目指した。


 少しでも天に近づこうとして……

 天、即ち、神の居る場所に近づこうとして……


 つまりは、己の存在を少しでも神に近いものであると、そう思いたかったのだろうか。

 力を得れば、人は傲慢になる。人の域を超える力を得れば、神になれると、そんな傲慢な思いさえも抱く様になる。

 しかし、その両者の隔たりを忘れ、禁忌に足を踏み入れた者には、破滅が待っている。

 それが、この世の理なのだから。


……それでも尚、この力を望むのか。破滅の危険を孕むこの力を…そなたらは望むのか……


 白い岩肌の間を縫って、一筋の祭列が上ってくる。楓弥はそれを冷めた目で見下ろしていた。かんなぎ族を守る力は、同時にそれを滅ぼす力にもなる。誰がそれを継承するのか。それは、楓弥の関知することではない。自分の使命はただ、預かっているものを、受け取りに来た者に渡すだけだ。それでも、その力がもたらすものの大きさを考えると、心が揺れた。


……なぜ自分なのだろう……なぜこの体にその記憶が刻まれているのだろう……


 これまでに幾度と無く考えたその思いが、また心に湧きあがる。窓の格子を掴んでいる手が僅かに震えていた。

 これだけの高さであるから、塔の外には、彼方より、雪山を掠めて吹き抜けて来る冷たい風が吹きすさんでいる。時折、それが塔に突き当たって、獣の鳴き声のような音を立てる。だが、その手の震えは寒さのせいというだけではなかった。


 この運命を、決めたのは自分だ。勿論、絶望するために、この道を選んだのではない。ここを通り抜けて、新しい未来を手にする為に、戦おうと思ったからだ。もし、追手に追いつかれる前に、周翼を見つける事が出来れば、運命は楓弥のものになる。


――掛けだった。

 だが、結局自分は、掛けに負けたのだ。負ければ、大きな代価を払わなければならない事は、覚悟していた。覚悟はしていたが、実際こうして、近づいてくる運命を目の当たりすると、言い様のない恐怖が湧きあがる。


……助けて……誰か……たす……けて……


 震える手で格子を掴んだまま、楓弥はそこにうずくまった。

 絶望に塗りこめられていく心に、そこから失われていく僅かな温もりを抱きしめる。そこに不意に、杜狩の顔が浮かんだ。その姿と共に、春の日差しの様な、優しい温もりを思い出す。

 河南の杜家での暮らしは、いつも穏やかで、暖かだった記憶しかない。河南という土地柄と、そして何より、杜狩の人柄が、多分そうさせていたのだ。何故自分は、それを手放してしまったのだろう。楓弥は、そんな事を考えている自分が可笑しくて笑った。


……今更……そんな事を思うのか……


 それは、力を使う代価として、自ら手放したものだ。それを捨てる覚悟はしていたはずなのに、何と未練がましいことか。もう二度と取り戻すことは叶わない。彼の者に会うことは、もう、二度とないのだ。この冷たい風が吹きすさぶ、天に近い場所が、自分に与えられた最後の場所なのだから。あの心地いい陽だまりは、もう、夢に描く場所でしかない。心の中のその小さな温もりを、楓弥は無理やりに封じ込めた。そして、決意した様に顔を上げると、立ち上がった。


 格子の隙間から、先程より近くに見える祭列を一瞥すると、部屋の奥に足を踏み入れて、そこに座し、部屋に立ち込める香炉の煙に身を委ねる様に、その意識を手放していった。



 九年前――

 楓弥は自分が何者であるのかを知った。

 その身に宿す力の事を教えられた。

 この巫族を守るためのその力の事を。

 そしてその力を、欲するものに与える使命のある事を教えられた。

 ――あの夜に。


 だが、何の心の準備もないまま強要された継承の儀式は、ただ恐ろしい記憶として、楓弥の心に刻まれていた。

 九年という歳月の中で、楓弥は、少しずつその記憶を心の奥底に封じ込め、その時に負った心の傷を癒していった。だが、再び、その儀式を迎える今、あの時の恐怖が封印を破って、楓弥の心に鋭い刃を立てる。それが何であるか知ってしまったせいで、恐怖心は以前とは比べようもない程に大きかった。楓弥は、その身を守る様に、心に繋がる意識を全て切り離して行った。




 辺りには、もう一本の木も生えていない。そこに道と言うべきものはもうなかった。杜狩は周翼のいざなうまま、夜を継いで、次第に険しくなっていく山道に馬を走らせた。そして、その馬を捨ててから、杜狩はだいぶ歩いた。


 大きな岩が幾重にも積み重なって作る細い隙間を、腹ばいになって潜りぬけ、或いは岩をよじ登り、あちらこちらに擦り傷をつくりながら、痣をつくりながらひたすらに歩いた。

 周翼が立ち止まらないから、杜狩も休む訳にいかなかった。歩きながら水分を含み、食べ物を口にした。気がつけば、陽が上っており、また気がつけば、陽が暮れていた。疲労で朦朧とする意識を繋ぎとめながら、周翼の背中だけを見失うまいと、ただ、それだけを考えながら歩いた。


 天望村てんぼうそんという八卦師の村は、そうして辿り着いた山奥の、木も生えぬ岩山の頂にあった。大きな岩と岩の隙間を抜けたところで、ようやく一筋の道らしきものが見えた時、杜狩はすでに息も絶え絶えだった。



「よく、頑張りましたね」

 そこで周翼が初めて振り返って、笑顔を見せた。その言葉に、疲労感と安堵感が一度に押し寄せてきて、杜狩はその場に座り込んでしまった。体に鞭を打ち、限界を遥かに越えて、ここまでやってきたのだ。一度座り込んでしまうと、杜狩はその場から立ち上がれなくなってしまった。

「あの、岩場の所に、松の木が生えているのが分かりますか?」

 周翼が手で指し示したのは、今居るところから、深い谷を挟んで、反対側の随分上の頂だった。

「あそこが、村の入り口です」

「……はい?」

 杜狩が空ろな目で、ゆっくりと顔を巡らせる。その目が、周翼が示した場所を捉えて、絶望の色を浮かべた。よくよく見れば、向かいの岩場の辺りから、階段状のものが、深い渓谷の底へ続いている。ということは、あそこに行くには、この渓谷を下まで下りて、また上るという事になるのではないか。

「……」

 杜狩の肩ががっくりと落ちた。

「……俺をここに置いて、先に行って下さい。もう、道は分かりましたから……少し休んだら、必ず追いつきますから……」

「多分もう、試しには、合格したはずですから……」

 周翼が笑顔で言いながら、杜狩の頭の上に手をかざす。

「試し……?」

 訝しげに聞く杜狩の頭の上で、周翼の手から、光が降り注ぐ。その光は、杜狩を包み込みながら、地に落ちると、そこに方位陣を描き出した。

「天望村という所は、特殊な結界で外界と隔絶されているから、ある程度の力を持った者でないと入れないんですよ。八卦師でない者であれば、今来た道を自力で歩いて来られる者、というのが、最低の条件なんです。その力があるかどうか見るのが、試しです」

「……それで、俺は……」

 杜狩が言いかけた時、一陣の風に巻かれた。反射的に目を閉じて、再び開くと、目の前に松があった。


「え?」

 驚く杜狩を気にもせずに、周翼は岩をくりぬいて作られている大きな門の前に歩み寄った。杜狩は、疲れているのも忘れて、慌ててその後を追う。

「今のはっ?」

 杜狩の驚き様に、周翼が苦笑する。

「……ご覧になるのは、初めてですか?ただの飛空術ですよ」

「ただの……か……」

 杜狩が複雑な顔をして押し黙った。そういう技を使うものがいるという話は聞いた事はある。河南の城にも、確かに、八卦師と呼ばれる者はいた。ただ、聞くのと見るのとでは、天地ほどの差がある。杜狩は唾を飲み込む。楓弥はそういう事が、当たり前のこの村で生まれ育った。そういう事なのだと、初めて気づく。


……関わるには、覚悟がいるぞ……

 師、九鉾くぼうの言葉が脳裏に浮かんだ。


……そういうことかよ……


 楓弥が何も言わずに姿を消したのは、恐らく杜狩には理解の出来ないものを抱え込んでいたからなのだろう。


……俺が、無知だったからか……


 楓弥は何も言わなかった。それは多分、話を聞いただけでは、杜狩にはそれが理解できないと考えたからなのだろう。


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