第41話 早春、湖畔にて 

 大陸は東の果て、大地が大洋と出会う所に、華煌かこうという国がある。

 かつて、辺境の一豪族にすぎなかった、燎牙りょうがという男が、周辺の諸族を制し、東の平原に建てた帝国である。


 戦神いくさがみの末裔と恐れられた華煌人かこうびとは、やがて近隣の国々をその支配下に納め、華煌帝国は東方の大帝国として、大陸に君臨する。

 だが、多くの血の果てに、大陸の支配権を手中に収めてなお、華煌人達は、更なる血を求めて戦いを続けた。 彼らは、外に狩るべき獲物がいなくなってしまうと、ついには、この大帝国の支配権をめぐって、争い始めたのである。


 始皇帝、李燎牙の血を継ぐ、家、りゅう家、よう家の三つの皇家は、皇位をめぐって幾度となく相争い、華煌帝国の歴史は、戦の歴史であると言われるほどに、血で血を洗う凄惨な内戦を繰り返した。



 第十代皇帝、雷将帝らいしょうていの御代である現在、三つの皇家のうち、楊家だけを残して、他の皇家は、公にはその血を継ぐものを持たない。それでも、長く続いた戦の歴史は、あまたの怨恨を生み、もつれてしまった因縁の糸は、血の色に染められたまま、いまだ乾くことなくこの帝国に絡み付いたままなのである。




 先年の暮れに、三年続いた三大公の乱が、ようやく決着したものの、人々は、まだ、内乱の混乱から立ち直れずにいた。


 大公軍と皇帝軍の内乱末期の戦いは、泥仕合の様相を示し、皇帝暗殺未遂という謀反事件と、それに伴う帝国宰相蒼羽そううの失脚と、いくつもの謀略がひしめいて、事態を混迷の底へと引き摺り込んだ。新宰相となった天海てんかいが、その辣腕を振るっていたが、宮廷はまだ落ち着かない空気に支配されていた。



――大陸歴二百四十九年、早春。


 周翼しゅうよくは、秋白湖しゅうはくこの湖岸の村、岐水きすいにいた。


 自分を探している者達が、多分、あちこちにいるのだろうと思いながらも、彼は、時の止まったような、この静かな村で、もう、ひと月余りをずるずると過ごしていた。


 都での事、河南かなんにいる人々のこと。ふとした折に、そういったことが、周翼の脳裏に浮かんでは消えていく。過去に置き去りにしてきたもの――ふいに、懐かしい友の顔が浮かび上がると、周翼は慌てて、その幻影を消し去った。


 雷将帝は、まだ八才という、幼い皇帝である。その母親であり、皇帝の後見を務める太后たいこうが、現在、この帝国で一番の権力者であるが、周翼は、その太后に、睨まれているという結構な身上の持ち主であった。

 彼がこの岐水にいるのも、太后の刺客に襲われて死にかけた所を、たまたま現場を通り掛かった、岐水きすい領官りょうかん稜鳳りょうほうという男に助けられたからである。もうすっかり体の具合は良くなっていたが、周翼は療養と称して、まだこの地に留まっていた。


 彼は、自分の居所を誰にも知らせていなかった。多分、河南あたりでは、自分が行方不明であることで、相当に混乱している様が想像できるのだが、それでも、なんとなく、まだ戻る気にはなれなかった。刺客に狙われているのが、恐いからという訳ではない。うっとうしくはあるが、太后が気紛れに送って寄越す刺客など、来た端から始末してしまえばいいだけのことだ。


――ただ、疲れてしまったのだ。


 過去を思い返す度に、運命がひどく重いものに感じられてしまうのは、十七才という若さの彼にとっては、仕方のないことなのかも知れない。心に浮かぶ幻影は、消し去ったと思っても、いつの間にか彼の心を支配する。


……劉飛りゅうひ様……あなたを消し去る事など……私には出来はしない。例え、どんなに憎まれているにしても、敵味方に分かれて、剣を交えなければならない定めなのだとしても……


「また、難しいお顔をしてらっしゃるのね。物思いは、お体にさわりましてよ、周翼様。ほら、見て、風が変わるわ」

 隣にいた琳鈴りんれいの明るい声が、周翼を現実へと引き戻した。

 少女の言葉と共に、ふいに風向きが変わった。秋白湖を渡ってくる北東の風が、湖面を覆っていた絹のような白い霧を岸辺に運んでくる。

「本当に、夕霧には、まだ早いはずなのに」

 周翼は、確認するように空を仰いだ。


 頭上の青空は、白い絵の具を流し込んだように、みるみるその色を失っていく。穏やかだった午後の陽光が、白い霧と混ざり合って、音もなく消えた。

「この岐水のお天気は、予測どうりになんかいかないのよ」

 隣で、提灯ちょうちんに灯を入れながら琳鈴が言う。

「晴れよりは曇りが断然多いのだから、いつでも曇りって思っていれば、たいてい間違いはないわ」


 岐水で晴天の日というのは、琳鈴の言葉どおり、希にしかない。割合にして、十日に、一日か二日といった所だ。周翼がこの地にやって来てからひと月余りだが、青空を見たのは、今日で三度目だった。


「でもね、どうしてか、お兄様には、何でも分かってしまうのよ。お天気のこともね」

「ああ……それで、灯を持って来ていたんですね?」

「そう。午後から、霧だろうからって……お兄様は、『俺は岐水の領官なんだから、岐水の事は、隅々まで、何でも知っている』なんて言うのよ。きっと、何か種があるに決まってるわ。八卦師じゃあるまいし、未来の事なんか、分かる訳はないんだから」

「ああ、そうだね」

 周翼は、まだ十になったばかりなのに、妙に大人びた口調で言う琳鈴に苦笑した。

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