第84話 中天界からの使者

 月明かりの中で、力尽きて眠ってしまった華梨の顔を、周翼はいつまでも眺めていた。だが、小屋の外に人の気配を感じて、周翼は立ち上がり、脱ぎ捨てられていた服を拾い上げると、着衣を整えた。


 扉を開けると、そこに男が一人控えていた。

「お迎えにあがりました」

 そう言った男の風体を観察しながら、周翼が口を開く。

「華梨を助けて、ここまで運んだのは、お前か?」

 そう問うと、男は軽く頷いた。

「……だったら、まず礼を言う」

「助けた……というのは、微妙に意味が違うかな。街道筋に倒れていたのを見つけて、使えそうだと思ったから連れてきただけで」

 男が意味ありげな笑みを浮かべる。

「それは、私をここに呼ぶために……という事になるのかな……」

 周翼の表情に緊張が走る。


「匠師ともなると、流石に察しがいいな。そう。彼女がここにいれば、いずれお前が、彼女に会いに来るだろうと踏んでね。あちこち飛び回っている八卦師を捕まえるのは骨が折れるから、餌が必要だったって事でさ……だから、別に礼など必要ない」

「私に何の用だ?」

「あるお方が、お前にお会いになりたいそうだ」

「あるお方?」

「今ここでは、詳しい事情は言えなくてね」

「私はとても忙しい身の上なのだと言っても、辞退は出来そうにないのかな」

「それは難しそうだぞ。何しろ、中天界一有能で職務に忠実な、この俺様が呼び出し係だからな」

「失礼ですが……その俺様というのは、どちらの俺様なんでしょう?」

「俺?ああ、俺は、天界四方将軍、玄武。我が有する職務権限において、智の司、藍星王を中天界は北天領域司法宮に召喚する」

 宣言するようにそう言い放った玄武の目の前で、周翼の体が藍色の光を纏った。


「最後までだんまりを決め込むのかと思ったが、ようやく出て来たな藍星王」

「中天界の四方将軍ともあろう者が、子供の使いか」

「まあ、そう言いなさんな。きっとお前さんには、損な話ではないはずだ」

「どうだかな」

「相変わらず、疑り深いんだな。だがっ、拒否権はないからな」

「……分かっている」


 中天界とは、この地上と天界の挟間に存在する場所である。四天皇帝の命を受け、この地上を実質的に仕切っている執務機関とも言うべき所だ。


 その執務機関は東西南北の方位をその名に冠した四つの役職に分けられている。そして、その四つの役職のそれぞれ頂点にいる四人の人物を総称して『天界四方将軍』と呼称している。


 彼らは、星王が覇王を選ぶ過程において、その補佐をする任も請け負っている。故に、地上においては、何百年かに一度降臨するばかりの星王よりも、必要があれば、その度に地上に下向し、諸々の問題を片付け、かつ、地上の実情に通じている四方将軍の権限の方が、当然ながら大きいのだ。


「で、その四方将軍殿が下向なさったという事は、今まで、地上のごたごたを見て見ぬふりをしていたくせに、今更、というぐらいの苦情は、受け付けて貰えるのか?」

「俺達だって、好きで何もしなかった訳じゃないんだぞ。そもそも、四天皇帝様の命がなければ、俺達には手の出しようがないだろう。という理屈はご理解頂ける?」

「ならば、四天皇帝様の命がなければ、何も出来ない四方将軍殿が、ここにいるという事は、四天皇帝様が、ようやく重い腰を上げて下さったという事なのか?」

「相変わらず、理路整然とした物言いで」

 玄武が苦笑して首を横に振った。

「残念ながら、それはない」

「何だと……一体、天上界は、四天皇帝様はどうなっている」

「それも、残念ながら、だな」

「ふざけるなっ」

 僅かながらに抱いた期待を裏切られて、藍星王は思わず声を荒げた。が、返されたのは、思いがけず、冷ややかな声だった。

「……それは、こちらの台詞だ」

「何?」

「地上の乱れようを何とかしようと、我々がどれ程の時間と労力を割いたと思っている。それに、そもそも、今回の騒動の原因を作ったのは、お前ら、星王どもだろう」

「……どういう意味だ?」

「智司のお前でも、分らぬのか。……いや、智司だからこそ、分らぬのかも知れないな」

「……だから、分かる様に話せと言っている」

「四天皇帝様をここまでに追い詰めたのは、お前たちではないのか」

「私たちがか?」

「まあ、いい。ここで議論しても埒が明かない。上へ行って、お話を伺えばいい。中天界で、月光姫げっこうき様が、お前をお待ちだ」

「月光姫様……」


 思いがけない人物の名を告げられて、藍星王は面喰らっていた。

 月光姫とは、四天皇帝の妃である。


 四天皇帝が職務をないがしろにする様になったのは、彼女の存在が原因なのではないかと、そう噂に上る人物である。また彼女は、月白つきしろの宮の奥に暮らし、未だかつて、四天皇帝以外に、その姿を見せた事がないという謎めいた人物でもあった。





 彼方の雲上に、固く閉ざされたままの天界の大門が見える。その向こうには、かつて自分たちが当たり前の様に暮らしていた天上界がある。

 そこにたった一人で引き籠もっている黄星王は、一体、どうしているのか……藍星王は全てを拒絶する様に固く閉ざされている門を見ながら、その姿を思い起こした。


 有能であったと思う。

 有能であり、思慮深く何事にも真摯に向かい合う。その性格は真っすぐで、また暖かな陽の光を纏っている様な柔らかな雰囲気は、そばにいると心が和む。

 そんな明朗快活な人物だった。

 そして、これ以上の光の司はいないであろうという、稀代の傑物であったのだ。


 正直に言えば、藍星王自身は、その明るさが、少し苦手であったが、他の星王たちの評判は、概ね良かった様に思う。だからこそ、あの時、黄星王が、覇王選定の大任を任されたのだ。そして、期待どおりに、いや、我々の期待以上に、李燎牙という英雄をして、混沌としていた大陸を平定し、この地に華煌という帝国を誕生させて、地上を平穏に導き、その任を果たしてみせた。

 そして、仲間たちの称賛と共に、黄星王は四天皇帝の位に就いた。そこには何の瑕疵かしもなかった。綻びが生じる要因など、何一つなかったのだ。


 それが……少しずつおかしくなり始めたのは、やはり四天皇帝が妃を娶った頃からだった様に思われる。月白の宮という宮殿を建てさせ、そこに女人を囲っているという噂が立った時、その真相を問いただしたのは、政の補佐役である智司を務めていた藍星王だった。


 問い詰めてようやく、四天皇帝はそこにいるのは妃なのだと明かした。そういう女性がいるのなら、公にして正式に婚姻を行えばいい。四天皇帝がそう望むのであれば、それを咎める者などいない。そもそも隠す必要などない事柄であるのに、なぜ隠すのか。それが分らなかった。


 黄星王が言うには、月光姫というその女性が、婚姻に際して、出した条件というものがあるのだという。

 自分は、四天皇帝の妃となっても、果たすべき公の役割は果たせない事。新たに、新宮を建て、その宮から出ずにそこで静かに過ごしたいのだという事。故に、他の星王たちとも顔を合わせないのだという事。等々、無理難題とも言うべき条件を出されたのだという。それが、その婚姻を拒絶したいがための無理難題であることは、すぐに察しがついた。だが、それで月光姫を諦めるという事は、考えられなかったと。

 結果、四天皇帝はそれらの条件を全て承知し、四天皇帝がそこまでの譲歩をしたことで、月光姫もようやく婚姻を承諾してくれたのだという。


 だから、そこにいる妃の事には、触れないで欲しいと言われた。四天皇帝ともあろう者が、一人の女のためにそこまでしたのだと知れれば、その権威に傷が付くだろう。後生だから、皇帝としての面子を立ててくれと、そう押し切られた。

 そうして、月白の宮の姫の存在は、天界では触れてはならない禁忌として扱われる様になった。だが、事はそれで終わらなかった。


 それから次第に、四天皇帝の様子がおかしくなっていったのだ。まるで心を半分持って行かれてしまった様に、政務に身が入らなくなった。あげく失態を繰り返し、やがて病と称して、月白の宮から出て来ない日が多くなった。そして、しまいには、宮に引き籠って顔を出さなくなった。

 それに呼応する様に、地上は乱れ始め、戦が絶えない世の中になって行った。


……妖姫であったというべきか……


 藍星王がそんな事を考えていると、露台の端に、女が姿を見せた。


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