第83話 あなたが好き

 燎宛宮を抜け出してから、途中で匠師と落ち合った周翼は、彼らに虎翔を預けると、一人で山に入り、星図盤を操って、華梨を探した。だが、華梨の星は、なかなかその姿を見せなかった。周翼が、風前の灯とでもいう様な、弱い光をようやく探し当てたのは、数日の後の事だった。


 消えそうになっている星を辿って、周翼は岐山に程近い山中に、狩猟小屋を探し当てた。その周囲に人の気配はなかった。気配を殺し、そっと扉に近づく。僅かのためらいの後に、周翼はそっとその扉を押した。薄暗い小屋の中に、その片隅に敷き詰められた藁の上に、懐かしい少女の姿を見つけた。


 その衣服は、無残に血に染まり、その血はすでに乾いて、黒く変色していた。慌ててその傍に寄って、その呼吸を確認すると、周翼は静かに安堵の吐息を洩らした。周翼は、体の横に投げ出されていた華梨の手をそっと取り、そこから星王の力を注ぎこんだ。少しして、華梨がうっすらと目を開ける。そして周翼に気付くと、華梨は弱々しく微笑んだ。


「……やっと、来てくれた。夢じゃ……ないよね」

「ああ」

 華梨が手を伸ばして周翼の顔に触れる。

「ほんとだ。温かい……」

 華梨が嬉しそうに笑みを浮かべる。その表情に、周翼は胸が苦しくなった。


 自分の頬に触れている華梨の手に、自分の手を重ねる。華梨の手は冷え切っていて、氷のように冷たかった。華梨の両方の手をその胸の上に重ねて、周翼は、それを自分の手で包み込む。少しずつ、そこに温もりが戻ってくる。その温もりに縋る様に、周翼はそこに額を押し当てた。


……こんなに傷だらけになって……もうこれ以上、辛い思いはさせたくないのに……


 自分は、今から華梨に、更なる傷をつけようとしているのだ。その体に、その心に、消せない深い傷を。


……結ばれるべきでは……ない運命なのに……


 すでに冥府の人間である自分は、近づけば、華梨を傷つけるだけの存在でしかない。だから、距離を置いて、華梨を遠ざけた。


……それなのに……


 自分は使命という理屈を付け、華梨の思いを知りながら、今、その思いを踏みにじろうとしている。

 刹那の幸せの後に、大きな絶望が訪れる事を知りながら、それが華梨の心に深い傷を残す事を知りながら……残酷な事だろうと思う。ただ穏やかな顔で自分を見据えている華梨に、言い訳をする様に言葉が零れ落ちた。


「憎んでくれて構わないから……」

 そう言った周翼が、辛そうな顔をしているのを、華梨は少し驚いた様な、そして不思議そうな顔をして見る。

「どうして……憎むだなんて。やっと会えたのに」


 言い訳をするのは、ただ自分が楽になりたいからだ。心の重荷を一人で抱えて行くだけの勇気がないから。いっそ、卑怯だと軽蔑してくれれば……心の底で、そんな思いに逃げて、楽になりたいと思っている自分がいる。そこまで分かっているのに、言えば傷つけると分かっていて、言わずにはいられなかった。


「私は……ただ、蒼星王の力を解放するために、お前を利用する為に、ここに来たのだから」

 それを聞いて、意外にも華梨はクスリと笑った。

「何だ。そんな事?」

 周翼は思わず華梨を見据えた。

「理由なんて、どうでもいいのに」

 かつて未来見を宿していた少女の瞳が、その力の名残りを感じさせる様に、一瞬澄んだ光を宿す。

「……知って」

 すでに白星王の力を失っているはずなのに、華梨の中に何か大きな力の存在を感じた。


……これは、蒼星王の力……なのか……


 そう思って、だが周翼はすぐにそれを否定する。蒼星王は未だ封印されたままだ。それに、華梨から感じる力の気配は、星王のそれとはいささか違う気がした。


「あなたは来てくれたんだもの……周翼、私、ずっとあなたに会いたかった……ずっとあなたの声が聞きたくて……ずっとあなたに伝えたかった……自分の気持ちを。今まで、ちゃんと言った事がなかったから、だから言わなきゃって、ずっと思ってて……だから今度こそ……」


 何か大切な事を伝えようと、一生懸命な様子の華梨が愛おしくて、周翼は何も言えないまま、その体を抱き寄せた。

 耳元で華梨の声が、ささやく様にその思いを紡ぎ出す。


「すき……周翼、あなたが好き」


 その言葉に、周翼は胸が締め付けられる思いがした。

 もうずっと以前から、言葉にするまでもなく、お互いに、その気持は分かっていた。その筈なのに、告げられた言葉は予想外に胸に重く響いた。曖昧だった輪郭がくっきりと浮かび上がって、その真剣な思いを目の前に突きつけられた気がした。その思いの深さを感じて、周翼は華梨の小柄な体を抱き締める腕に、思わず力を込めた。

「……だから……大丈夫だから……周翼。何があっても私……」

「……華梨」

「だから、周翼……私の最後の願いを叶えてくれる?」

 告げられた思いがけない言葉に、周翼の顔に戸惑いの色が浮かぶ。

……最後、と。華梨はそう言ったのだ。

 未来見の星王は、彼女に何を見せたのか。華梨の言葉に、周翼は不穏なものを感じて、思わず問いかける。

「最後だなんて……何故そんな事を……」

 よもや、自分がすでに冥府の人間であると、それまでも知っているというのか。


……それにしたって……藍星王との盟約を果たし、冥府に戻るには、まだ当分の猶予がある……


 こちらの問題でなければ、華梨の方に何らかの問題があるとでも言うのか。


……致命傷となる傷は全て癒したはずだ。華梨から、死の気配は残らず払拭されたはずなのに……


「白星王は、私の願いを叶えてくれた。私の願いは叶ったから、今度は私が白星王の願いを叶えてあげなくてはならないの……だって、それが私たちの盟約だから」

「盟約って……華梨、お前……白星王と、一体何の約束をしたんだ」

「それは分らないんだけど……」

「分らないって……」

 戸惑う周翼を他所に、華梨が何かを思い出した様に、ふと笑う。

「だって、教えて貰わなかったから」

「だったら……」

「でもね。感じるの。この身に、未来見を宿した時から、予感というの?ただ、何となく……私、未来を感じる事が出来るのよ」

「そんなの……お前の思い過ごしだ」

「そう……かも知れないけど……」

 そこで華梨は呼吸を整える様に、大きく息を吐いた。目の前にある周翼の顔が、心配そうに自分を見据えている。


……あなたにそんな顔をさせたくて、会いたかったんじゃないのに……ごめんね、周翼……


 周翼に会いたいという、その願いは叶う。

 だがその先の未来……自分たちは共に同じ時を重ねる事は出来ない。そんな予感を、華梨はずっと心に宿していた。


 その思いは、消し去ろうとしても、いつの間にか心の隅に現れる。払っても払っても、ふと気がつけば、そこに存在している……今も確実に。


「これは、私が望んだ運命だから……だから、あなたがそんなに辛そうな顔をしなくてもいいのよ、周翼。白星王と盟約を交わした時から、多分決まっていた事なのだから」

「……華梨」

 こんな時でさえ、自分を気遣うような華梨の言葉に、胸が一杯になった。込み上げる涙を押し留める様に、周翼は視線を反らせた。


 世の平穏という大義を言い訳に、華梨を傷つける積りでここに来ていながら、それを躊躇している自分の弱さを見透かされている気がした。

 華梨がその白い指を伸ばして、そっと周翼の唇に触れた。

「私、ずっとあなたが欲しかった。だから……ねえ、周翼……今だけでいいから、あなたを独り占め、させてくれる?」


 全てを分かっていて、華梨はもうすでに自分の運命を受け入れる決意をしている。ならば今は、その思いに応えてやるのが優しさだというのか。もう、何が正しいのか、分らなかった。

「もう、何も言うな……」

 周翼が呟くように言うと、華梨はただ笑みを返した。

 その笑顔に引き込まれる様に、周翼は華梨と唇を重ねた。


 自分だって、ずっと心の底で望んでいた。華梨という存在を。ただ、こんな風にしか結ばれない運命ならば、それは望むべきではないのだと、ずっとその思いを押し込めていたのだ。何よりも華梨を傷付けたくはなかったから……


 だが、唇が触れた瞬間に、そんな理屈は消え去っていた。

「愛してる。何があっても……華梨、ずっとお前を愛しているから」


 堰を切って溢れ出した思いに押し流される様に、周翼は華梨の体を抱いた。そして、そんな周翼の思いを受け止めるかの様に、華梨の手が縋るように自分の体に絡みついて来る。

 もう、使命の事も、この先の運命の事も、何もかもがどこかに消し飛んでいた。ただ愛おしい。その時そこにあったのは、その思いだけだった。最後……という不吉な予感を振り払う様に、失いたくないかけがえのないもの……ただ、その存在を心に刻み込む様に、二人はその体を求め合った。



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