第80話 復讐の果て

 劉飛の剣に触れただけで、緋燕の体は弾き飛ばされた。その身軽な体は、宙を一回転して少し離れた所に着地する。そして見れば、劉飛の体が橙色に包まれていた。


「……あまり、人聞きの悪い事は言わないでもらいたいものだな」

 その表情はもう劉飛のものではなく、一分の隙もない戦司のものだった。緋燕は軽く舌打をする。

「覚醒したか……随分と、ゆっくりのお目覚めだったな」

 挑発する様な緋燕のもの言いを、橙星王は一笑に付す。

「私は赤星王ほど単純ではないぞ。その様な戯言に揺らぐ程、やわでもない……お前、その剣は九星王剣であろう」

「……知っていたのか」


「私を誰だと思っている。戦の司の首座しゅざなのだぞ。天宮てんぐうの武器庫の管理責任者は、この私なのだからな。そこに収められている武器の事で、知らぬ事はない。その剣が、どういう剣なのかも知っている。下手に相手をしては、この身が危ういという事もな」

「成る程。小賢しく様子を伺っていたという訳か」

「馬鹿言え、我が身かわいさなどではない。そなたの為なのだぞ」

 そう言われて、緋燕が眉をひそめる。

「断言する。お前ごときが、この戦司を封じることは出来ない。だが、九星王剣が相手では、私も手加減をする余裕はない、という意味だ。死ぬ覚悟があるなら、相手をしてやる」

「……もはや、我に退く道は残っておらぬ」

「哀れな」


 橙星王が剣を抜いた。

 そう思うや否やという間合いで、衝撃が来た。

 緋燕には、その動きを見る事すら出来なかった。


……速いっ……


 そう思う間にも、二度三度と衝撃を受ける。辛うじて、本能によってそれを受け止めることしか出来ない。その身に剣先が掠った気配もないのに、すでに体のあちこちが痛みに悲鳴を上げていた。


……こんなものを……


 封じられる訳がない。

 他の星王とは桁違いの強さだった。


……これが戦司か……


 すでに、三人の星王を封じ、その体は消耗し切っていた。前に出る事も、後ろに引く事も出来ない。金縛りにあった様に、もうその場から動くことは出来なかった。

 その時である。肩で息をする緋燕の前で、橙星王が何かの気配を感じた様に、気を散らした。誘っているのか。一瞬そう思ったが、その時にはすでに、緋燕の体は動いていた。それに反応して橙星王の剣が翻る。


……届かないのか……羅綺。この手はお前に……


 全てが終わった。そう思った時、緋燕の目の前で光が炸裂した。

「九方包囲、光樹の陣!」

 目の前に八卦師の陣が広がって盾となり、緋燕を守っていた。そこに、棋鶯子がいた。緋燕には状況が飲み込めない。

「不甲斐ない事だな。お前の力は、その程度か」

 聞こえてきた声に、緋燕は緊張する。それは、冥王の声だった。


「お前、黒星王か」

 橙星王が、しかめっ面をしてこちらを見ている。

「その様子からすると、お前がその羅刹の飼い主ってことだな。九星王剣など持ち出して、何を企んでいる」

「お前には、関係のない事だ」

 そう言い捨てると、黒星王が身構える。

「巻き込んでおいて、その言い草はないだろう……」

 橙星王の抗議を黙殺して、八卦の技を仕掛ける声が響く。

「氷龍雷剣撃!」

 その攻撃を橙星王は避けずに、まともにその身に受けた。その衝撃で、体勢を崩し、片膝を付く。その様子を見て、黒星王が哂う。

「お前がその雷撃を弾けば、この娘に衝撃が跳ね返る。それで、避けもせず、か。甘いな。そんな情けを掛けていては、お前の依り代が壊れてしまうぞ。そらっ」

 再び雷撃が放たれる。しかし、やはり橙星王は避けなかった。劉飛の体がよろめいてそこに崩れおちる。


「……手間を掛けさせる。緋燕、今の内に、星を抜け……」

 言われるままに、緋燕は剣を振り上げて、劉飛の心臓に狙いを定めた。これでまた一歩、羅綺に近づく。そんな思いと共に、剣を振り下ろす。ところがそこに、棋鶯子の体が割り込んだ。緋燕の剣は、棋鶯子の肩に深々と刺さる。そこから、剣を伝い血が滴り落ちていく。

「……お前の自由になど、させるものか」

 驚く緋燕の顔を見据えたまま、棋鶯子は両手で肩に刺さった剣を掴むと、それを勢い良く抜き去った。傷口から吹き出した鮮血が、緋燕の身を染めた。

「……冥王の呪縛が解かれたのか」

 棋鶯子が、憎悪の炎を宿した目で、緋燕を睨み付けている。荒い呼吸をしながら、搾り出す様な声が、緋燕の運命を告げた。

「お前は、楊蘭様の仇。その命を奪った報いを、今こそ受けるがいい」


……楊蘭?……

 その名を緋燕は、すでに覚えていなかった。


 今までに奪った命など数え切れない。そのたった一つの命の為に、この娘は、全てを掛けて、自分に向かってくるのか。冥王の呪縛を解くほどの強い思い。抱いた憎しみの、その深さに、圧倒される。


 羅綺を取り戻したいという、ただ、その思いの為に自分はここまでやって来た。それが間違っていると思う事などなかった。これ程の憎悪を向けられる理由が判らなかった。ふと、緑星王の残した言葉を思い出す。


……この様な事をしていては、そなたの大切なものを取り戻す事は叶わぬぞ。背信の王よ……真実を求めねば、そなたの願いは果たされぬ……


「……違うのか」

 自分は何かを間違っていた。

 だから、羅綺は未だに戻らない。……そういう事なのか。

「氷龍雷剣撃!」

 目の前に迫る雷撃を、緋燕はただ見据えていた。


 自分の信じていたものが崩れ去り、道を見失った。もう、どこへ行けばいいのか分からない。そこに生じた迷いに、緋燕はその場から動けなかった。雷光に飲み込まれ、緋燕の体は瞬時に燃え尽きた。後にはただ、九星王剣だけが、大地に突き立てられていた。


 それを見届けて、満足げに笑うと、棋鶯子もまた、力尽きてそこに崩れ落ちた。その身が、黒い霞に覆われていく。その霞が次第に収束し始めて、やがてそこに黒い艶やかな玉を生じた。

 その玉に、上ってきた朝日が反射して、一閃の輝きを放つ。光の下で、棋鶯子の体は霞みに巻かれる様にして形を失っていく。

 霞の中心に、浮いていた黒い玉がぼとりと落ちた。玉の重みのせいで、そこに小さな空気の波動が生じる。それに散らされて、霞が消え失せていく。そこにはもう、人の痕跡というものは、何も残っていなかった。




 朝日を受けて、長く伸びた人影が、その玉に差しかかる。

「……八卦師というものは、どうしてこう、とことんまでやってしまうものかねえ……」

 呟いて、声の主は黒い玉を拾い上げると、そのまま懐に収めた。そしてまた、傍らに突き刺さったままの剣を抜く。


「これは、九星動王剣……もう一本は……っと……見当たらないか……もう、持って帰っちゃったかな。残念」

 ぶつぶつと独り言を言いながら、男はそこに倒れている劉飛の体に、剣先を向ける。

「おいっ、とっとと目を覚ませ、橙星王」

 言いながら、男がその剣先で、つんつんと劉飛の体をつつくと、その体が橙色を帯びて、橙色の光は人の形を取り、程なくそこから、橙星王が姿を現した。橙星王は、すでに意識のない劉飛を見て、難しい顔をする。


「どうする?このままだと、こいつ死んじまうぞ」

「分かっている……」

「滅多にない逸材なんだろう?失うのは惜しいんだろ。だったら……」

「少し、黙っていろ、玄武げんぶ

 不機嫌な声でそう言われて、玄武と呼ばれた男は、口を閉ざす。だが、僅かな沈黙にも我慢が出来ない性格の玄武は、手にしていた剣を橙星王に差し出した。


「ここに、招待状が残されているぞ」

 差し出された九星動王剣を見て、橙星王が顔をしかめる。

「これを持って、冥王府に行け。これと引き換えならば、この者の魂を返してくれるはずだ」

「……そんなに、気前の良い男か。あの水司は」

「俺は、楽観主義者なんでね。何事も、割と話せば分かり合える、という考えの持ち主だ」

「お前の主義など、どうでもいい」

「では、これは命令だ。冥王府へ赴き、冥王から、この剣の入手経路について、事情聴取をして来い。天界てんかい四方しほう将軍玄武の名において、そう命じる」

「四天皇帝様が、ようやく事態の収拾に乗り出して下さるのか?」

 橙星王の期待に満ちた目に、玄武がかぶりを振った。

「……だと、良いのだがな。上は、相変わらずだ。なので、これは、事態を憂いた我ら、天界四方将軍の権限で行われている事柄だと承知しておいてくれ」


「で、その権限において、この九星王剣を冥王府に置いて来て構わない、と?」

「用があるのは、器ではなく、中身の方だ。中身を出してしまえば、器は返してくれるはずだ」

「言っている意味が分からん」

「他の星王と話がしたかった。水司の考えは、大方、そんな所だろう。奴の目的は、星王の冥王府への召喚だ。死んでもいない劉飛の魂を境海きょうかいに引きずり込んだのも、剣に封じ損ねたお前を、冥王府に呼ぶ為ののつもりなのだろうからな」

「そこまで分かっていて、その言いなりになれと言うのか」

「だって、仕方がないだろう。一度入れてしまったら、この中身を出すには、四天皇帝様か、冥王か、どちらかにしか出来ないんだから。四天皇帝様の方が当てにならないとなれば、もう一人のお方に出して貰うしかないだろう。だから、この剣に入っている星王を引き渡す条件として、冥府に落ち掛かっている劉飛の魂を、こっちに送り返してもらう事にすればいいと言っている」

 玄武の提案を、しかし橙星王の矜持がそれを受け入れる事に、二の足を踏む。


「自尊心の強いお前が、不本意に思うのは、よ〜く分かる。ならば、冥王府へ行って、面と向かって、奴に文句を言ってくればいいだろう」

「分かったよ。行けばいいんだろう……行くよ」

 そこに気持ちのはけ口を見出して、橙星王はようやく納得した様に言った。

「よ〜し。ならば、急げよ。魂が境海から冥府に落ちてしまったら、もう取り戻せないからな。ちゃっちゃと行って来い」

「……そう容易く言うな。あの迷路の様な冥府の地下回廊を抜けるのは、骨なんだぞ」


「あのぅ……お話中、恐れ入りますが……」

 いつの間にか、そこに羅刹が控えていた。

「私は、羅刹王羅綺らき眷属けんぞく翠狐すいこと申します」

「羅刹が、なぜこんな所をうろついている」

 橙星王が問う。

「私は、羅綺様の行方を捜しているのです。その者が……」

「劉飛?」

「はい。その者が、羅綺様を封じた球を持っていると聞き、所在を探していた次第で……」

「ああ、あの封魔球なら、麗妃にあげてしまったみたいだぞ」

「え……」

 思わぬ答えに翠狐が絶句する。


……麗妃って……麗妃は今どこに……


 その視線が、焼け跡を空しく一巡する。

「お前、翠狐と言ったか?丁度いい。冥府の道案内として私に同道しろ」

「はい?」

 唐突に橙星王に言われて、翠狐が面食らった顔をする。

「麗妃とやらは、恐らく、冥府にいるのではないのか?冥府に行けば、羅綺の球の所在を聞く事が出来よう」


……という事で、玄武に見送られ、橙星王と翠狐は冥府へ赴く事となった。


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