第79話 甘えてはいけない優しさ
「皇帝陛下に申し上げます」
皇帝の間にその声が響いた時、優慶は思わず玉座から立ち上がっていた。その隣にいた天祥も、兵に取次ぎもさせず、戸口に立つなりそう言った人物が誰であるか気づくと、安堵のため息を付いていた。その場にいた誰もが、彼の姿を見て、安堵の表情を浮かべる。
その人物は、大またで皇帝の間を横切り、優慶の前に跪くと、明瞭な声で告げた。
「皇騎兵軍元帥、劉飛、ただいま、帰還いたしました」
「劉飛、よく戻ってくれた」
優慶は目に涙を浮かべながら、その存在を確かめる様に劉飛の肩を抱いた。その温もりを感じると、心の不安が消えていく気がした。優慶は縋る様に、劉飛の肩に顔を押し付けた。堪えていた涙が、また溢れだした。
そんな優慶の様子を、天祥は少し複雑な気持ちで見ていた。隣にいるのが自分だけでは、優慶は不安だったのだ。そう思うと、やはり力不足を痛感する。肩書きこそ副隊長ではあるが、自分はまだ、それに相応しい力を得ていないのだと感じた。天祥自身、劉飛の姿を見ただけで、一瞬にして、心の不安を払拭された。その存在を、こんなにも頼もしく思う。優慶の気持ちも分からなくはなかった。
天祥がそんな事を考えていると、気が緩んで涙が止まらないといった風の優慶を宥めていた劉飛と目が合った。そこに天祥の姿を見つけて、劉飛の目に困惑の色が浮かぶ。
「……天祥。どうしてお前がここにいる」
そう問われて、天祥は顔を強張らせた。
「俺は……」
「蒼東の宮は……」
劉飛の声を聞き止めて、優慶が顔を上げた。
「……宮から火が出たのだ」
優慶が震える声でそう告げた。
「麗妃は……」
劉飛の顔に緊張が走る。天祥が意を決して真実を告げた。
「火の勢いは、未だ衰えず……麗妃様の安否はまだ……」
「何だと……」
その知らせに、劉飛は信じられないという面持ちをして、立ち上がる。
「……失礼いたします、陛下」
優慶をそこに立たせると、劉飛は踵を返し、そのまま皇帝の間から立ち去っていく。その足が、麗妃の元へ向かっているのだと言う事は、誰の目にも明らかだった。
もう、自分は劉飛が一番に守りたいものではないのだ。その後ろ姿を見て、優慶の胸を、ふとそんな思いが掠めた。優慶は思わず頭を振る。
……こんな時に、何を考えているのだ、私は……
そんな不謹慎な事を考えている自分が、情けなかった。
皇帝である自分を守る為に、流された多くの血。倒れていった兵たち。自分が座っている玉座は、その屍の上にあるのだ。その思いに報いる為に自分は、皇帝として、間違いなくその責務を果たさねばならない。何を失っても、どんなに傷ついても、どんなに怖くても、もう逃げる訳にはいかないのだ。それは頭では理解している。だが、そうは思っても、立ち去る劉飛の姿が小さくなっていくにつれて、不安が膨らんでいるのを押さえることは、出来なかった。そして……
優慶は、無意識にその手を掴んでいた。
「……陛下?」
声を掛けられて、優慶は自分が天祥の手を掴んでいる事に気づいた。不意に手を掴まれて、天祥が驚いた顔をしていた。
「すまぬ」
優慶は慌ててその手を引く。が、その手が離れる事はなく、すぐに天祥に引き戻された。優慶の手を握る天祥の手に、僅かに力がこもる。
「大丈夫です。私はいつもお側にいますから」
そう言って顔を覗きこまれ、優慶は胸のあたりに、訳の判らない痛みを感じる。その息苦しさから逃れたくて、その手を少し強く引いた。すると、天祥の手は、今度はあっけなく離れていく。そして玉座に戻ろうとした優慶は、そこで軽い眩暈を感じた。すかさず天祥の手が、優慶の体を支えた。
「……大丈夫だ」
その手を振り払う様にして、優慶は玉座に座りなおす。
……どうして……いつも……
この者は、自分を助けてくれるのか。そう考えると、また息苦しさを感じた。その理由を考える間もなく、そこへ、新たな伝令が来た。それは黄王の宮にいる、崔涼からの伝令だった。その伝令は、宮内の河南軍は、ほぼ制圧したと告げた。それを聞いて、皇帝の間に、歓喜の声が上がる。その歓声の中、ただ一人、優慶だけが納まらぬ動悸に、困惑した表情を浮かべていた。
安堵して緩んだ心が、疲労を感じ始めたのか、何だか気分がすぐれなかった。ただ何となく、その事を隣にいる天祥にその事を悟られたくなかった。具合が悪いと言えば、間違いなく天祥が介抱してくれるのだろう。でも、その優しさに甘えてはいけない様な気がするのだ。そんな資格が自分にはあるのかと思う。
……ただ、皇帝だというだけで……私に、そんな資格があるのか……
何かが違う様な気がした。だが、それが何なのかが良く分からない。
……この落ち着かない感じは、何だ……
「少し、お休みになられては、いかがですか。お顔の色が……」
天祥が言い掛けたのを、優慶は慌てて遮った。
「大丈夫だ。何も問題はないから……もう大丈夫……だからっ」
声が変に上ずって、優慶は顔を赤らめる。
……だから……何をしているんだ私はっ……
疲労のせいだと思いたかった。感情の波が妙な波形を描いて、思考を翻弄している。
感情の制御が上手く出来ない。そう、この感覚には覚えがある。それは好意と言う名の……
「陛下?」
その言葉を思い出すと、そこに一つの答えが落ちてきた。
……つまりそれは……天祥が自分に向けているのは、忠誠ではなく、好意だということではないのか……
自分はそれに気付いて、動揺しているのだ。そう思い至って、優慶は、思わず天祥の顔をまじまじと見る。
「いかがなさいました、陛下?」
だから、その思いに応えるつもりがないのなら、その好意は受け取ってはいけないものなのだ。それなのに、自分は今まで、その好意の心地良さに、ただ甘えていた。
「……たった今、自分の愚かさに、幻滅していた所だ」
「……愚かさに……幻滅……ですか?」
「済まない。少し一人にしてくれ。考えなくてはならない事がある」
そう言われて、天祥はそれ以上は何も言わず、玉座の側から遠ざかった。それでも、天祥の瞳は、それ守っているというごとくに、優慶をその視界に捕らえたままだ。
困惑混じりに優慶は、そんな天祥の姿を見据えていた。ただ、忠義を尽くせというのは簡単だ。自分は皇帝なのだから、それでも許される。自分が天祥を好きではないのなら……そうして距離き、臣下として遇すればいい。でも、それを心苦しく思うという事は、もしかして自分は天祥に好意を持っているという事ではないのか。
……私は、天祥が好きなのか?……
天祥を見ていても、劉飛を思う様な、胸を焦がす様な気持ちの高まりを感じたことはない。というか……劉飛は、別格なのだ。あれは、特別。後にも先にも、あんな熱を帯びた思いを抱いたことは、劉飛以外のものにはなかった。
……よく……分からない……
優慶がため息を漏らした所に、皇騎兵の本体が都に帰還したという知らせが届いて、その問題は、先送りにせざるを得なかった。
燎宛宮に張られていた結界の気配が消えた。星見の宮へ向かう回廊の途中で、棋鶯子はそう感じた。自分が命令を下していないのに、結界が解かれた。それは、敵が星見の宮を制圧したという事なのか。だが、棋鶯子には、もうそんな事はどうでも良かった。両手を広げ、占術盤を導き、緋燕の気配を追った。
「……何だ、これは」
星王の所在を示す光点が、重なりあって輝いている。大きな力がひしめき合うその中心に、緋燕がいる。こいつは一体、何者なのか。そう思いながら、棋鶯子はその気配の元へ飛ぶ。そこでまた、棋鶯子の意識は途絶えた。
数刻の後、空がようやく白み始めた頃、蒼東の宮は鎮火した。
木の焼け焦げた匂いが鼻を突く。足を踏みだすと、その下で乾いた音を立てて、炭の塊が崩れていく。目の前には焼け落ちた宮の残骸だけが残っていた。
劉飛は、その残骸の中に言葉もなく佇んでいた。ようやく消しとめた火は、すべてを焼き尽くした後だった。そこには何も残っていなかった。その所在が未だ確認されていないという麗妃と、生まれたばかりの虎翔の安否は絶望的だと思われた。
「……どうして」
何度そう問いかけても、答えは分からなかった。何故この宮だけが焼け落ちたのか……何故、麗妃の姿が見えないのか……何故、虎翔の声が聞こえないのか……
「何故だ……」
「それが、冥府の王の意思だからさ」
誰もないはずの所から、不意に答えが戻って来た。劉飛がそちらへ目をやると、そこに剣を携えた緋燕が立っていた。
「お前が?」
これは、お前の仕業なのかと、劉飛の目が問うていた。
「……俺が?止めてくれよ。それは責任転嫁ってものだろう」
緋燕が不敵に笑う。
「これは、星王との盟約を結んだお前らが、迎えるべくして迎えた終焉……お前たちが選んだ運命の結果なのだからな」
「星王との盟約?」
その言葉に、劉飛の中で、忘れていた一つの記憶が浮かびあがる。子供の時に……あの時も今と同じように、喪失感と絶望感に苛まれていた。
……その為に、お前は色々なものを失う事になるだろう……
……でも、天命なんだろ?じゃ、なってやる。覇王にでも何でも……
「……橙星王」
封じられていた記憶が、堰を切った様に溢れ出して来た。
「これが、俺の選んだ運命だっていうのか……」
劉飛の頬を涙が伝い落ちた。
「お前は、友を失い、妻を、そして子までも失った。それは、橙星王との盟約故だ。お前が、更にこの先の道を行くというのなら、仕舞いには全てを失うことになろうよ」
「……」
「もしお前が、橙星王との盟約から、解き放たれたいと望むなら、俺がその望みを叶えてやろう」
緋燕の言葉を聞いているのかいないのか、劉飛は反応を示さない。
……今ならば、仕留められるか……
意気消沈している劉飛を見て、緋燕は剣を握りなおす。意を決して振り上げた剣が、風を切る。しかし、その刃は劉飛の剣に弾き返された。
「……ふざけるな。こんなの、認めない。認められるものか」
劉飛が吐き出す様に言った。
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