第73話 運命の子

 朝焼けの朱の色を映した湖面を渡る風が、追い風に変わった。

 その風に自身の長い髪がなびいたのを片手で押え、船の舳先へさきに立って風を読んでいた周翼が、右手を高く上げ出発の合図をした。

「帆を張れっ!出帆する!」

 それまで、物音一つ立てず、息を殺して船上でじっとしていた兵士達がその声を聞いて、一斉に行動を開始した。何百という船に、次々と帆が張られ、それが風をはらんで大きく脹らんだ。そして、船は、一つ、また一つと緩やかに湖上に滑り出した。


 秋白湖は帝国で最大の湖である。別称で、という名を持つ。

 その名の由来は、もちろんこの湖の広さからきたものであるが、もう一つ、この湖には絶えず霧が発生して、先の見えないという所からもそう呼ばれていた。


 その秋白湖の南西。

 天河の支流からの水が、この湖に流れ込む場所に、岐水という村がある。


 ここの村人が、ある朝、湖上に数え切れない程の船が浮かんでいたのを見つけた。昨晩までは何もなかったはずのその場所に、一夜にして大船団が出現していたのである。

 天河を上流へ遡り、そこから支流である川を今度は南下して、この岐水へやってきた河南軍の船団であった。そしてそれは、わずか数刻のうちに、霧に紛れる様にしてまた何処へと消え去ったのである。


「ここまでで十日……ほぼ予定通りというところか、周翼」

「はい、良い風が吹きましたので、明朝には、対岸へ着きます」

「都へは、そこから馬で一日の距離という訳か」

「はい」

「燎宛宮の者共は、さぞかし驚くであろうな。全く、おまえは、突拍子のない策を考える」

「帝国は広うございます。街道ばかりが、道ではございません」

「……にしても、この様に霧深き道を選ぶあたり、尋常ではないだろう」


「水上にも道がございます。川の水が上流から下流へ流れる様に、この湖にも、そのような決まった流れが幾つかあるのです。季節や時刻によって変化する、水の流れ、風向き、風力。これらを把握し、我々はただ、その流れに乗れば良いのです。霧によって視界の遮られる事など、問題ではございません。むしろこの霧は、我等の行動を覆い隠す有益なものなのです」

「成程な」

「……もっとも、この度の策、稜鳳りょうほう殿のお力が無ければ、机上の空論で終わっていたでしょうが」

「稜鳳か。あの者、岐水の出身であったな」

「はい。中央の官を辞し、郷里の地方官になったという変わり種でございます。何でも、この湖の中州帯に祖先の残した財宝があるとかで、湖の隅々まで調べた尽くしたそうで、この辺りの水脈を熟知しております」

「して、その財宝とやらは見付かったのか?」

「見つける前に、私が彼を見つけてしまいましたので……」

「……私に財宝に勝る魅力があるとは思えぬが。どうやって口説いたのだ?」

「私は何も。ただ、稜鳳殿は、失われた過去の謎解きよりも、新しく未来が生まれ出る瞬間に立ち会う方に、幾分か興味を持たれた様でございました」

「未来か……」


 白い霧に包まれて、永遠に抜け出せない迷路に迷い込んでしまった様な気がする今この時も、時は絶え間なく何かを刻みつづけている。それが、延々と積み重ねられて歴史と言われる程になる頃には、果たして、何が残っているのだろうか。


……果たして、そこに、私の名前は残っているのか……

 ふと、そう考えて、李炎は気の遠くなる様な錯覚に襲われた。





 明けて翌日。

 その日は、朝から風の強い日だった。時折、薄陽の射す肌寒い日で、まるで春からまた冬に逆戻りをしてしまったような日だった。


 夕暮れ近くなって、麗妃が急に産気付き、天祥は部下に薬師を呼びにやらせた。だが、その部下が何時までたっても戻って来ない。麗妃の苦しみ様を見ていられずに、天祥は部屋を飛び出し、自分で薬師を探しに行った。


 少しでも近道をしようと、普段は立ちいる事が禁じられている燎宛宮の庭園へ足を踏み入れた天祥は、その目の前の光景に思わず足を止めた。せっかく咲き揃っていた春の花々が、寒さのためにしおれ、強風に吹かれて、次々と散っていくのである。その数え切れないほどの花弁が、風に乗り空高く吸い寄せられるようにして消えていくのを見て、天祥は何とも言えない不安な気持ちになった。

「……何も無ければいいが……」

 天空を覆っていた雲は、風に吹かれ次々と地平の彼方に飛び去っていく。その雲の間に見え隠れする空が、次第に赤く染まり始めていた。




 麗妃の意識は絶え間なく続く痛みに、半ば朦朧としていた。戦に出ていた頃は、傷を負うのもさほど怖くはなかったのに、今まで経験した事の無い感覚に、恐怖心すら感じる。たった一つの命を生み出す事の大変さに比べ、命を奪う事の容易さは何なのだろう。自分は今まで、戦の中でどれだけの命を奪ってきたのかと思う。その行為に、正当な理由など存在するのか。これ程の困難の末に生まれてくる命を、奪う事など許される筈はないのに。それを自分は……自分は……

「……お気を確かにお持ち下さい、麗妃様」

 側にいるはずの女官の声が、遠くに聞こえる。意識が遠のいていく。


……大丈夫。あなたは、私が守るから……

 緑色の光に包まれて、ふと気持ちが楽になった。あれ程感じていた苦痛はどこかに消えていた。

……この子供の命を、手放しなさい。そうすれば、あなたは、きっと私が守るから……

 その言葉に、麗妃の胸は締め付けられる。


「……だめ……それは……」

……これは、滅びの子。そはあなたの身にもまた、滅びをもたらす者……

 麗妃の脳裏に、劉飛の笑顔が浮かぶ。

「だって……あんなに楽しみにしているのに……」

 その笑顔を失いたくはなかった。


……そうか……破滅に続く運命でも、選ぶというのか。ならば共に行こう。心配はいらない。そなたを一人で行かせはしない。最後まで共に……


 その声が途切れた時、産声が聞こえた。麗妃は、全身の力が抜き取られた様に、身動き一つ出来ない。

「皇子様でございますよ、麗妃様」

 女官の嬉しそうな声のした方に、顔を傾けると、その手に赤子が抱かれていた。

「……虎翔」

 麗妃が手を差し伸べると、その手に赤子が渡された。麗妃は虎翔の小さな重みを感じながら、愛おしむ様にその体を抱いていた。


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