第71話 皇騎兵軍元帥就任

 大陸歴二五〇年、五月――

 皇騎兵軍に新しい元帥が着任した。


 二年前、この軍の元帥だった天海が宰相となってから、後任が決まっておらず、首位大将という臨時の役を設けて、車騎兵軍元帥である璋翔、そして、その息子である劉飛がこれを務めていたのだ。


 元帥の就任式には、地方の諸侯や高官たちも列席していたが、新元帥がまだ二十になったばかりの若者だと聞いていた人々は、この時期にその様な若輩者を元帥に据えた皇帝と、燎宛宮の廷臣たちの判断に苦言を呈す向きが多かった。

 だが、皇帝の前に跪き、辞令を受ける彼のその威風堂々とした様を見ると、人々は一様に感銘を受けた様であった。そして、彼を推挙したのが、宰相天海だと聞いて、皆、それなりに納得した様子であった。式はつつがなく終わった。


 そして、この日より劉飛は皇騎兵軍元帥となった。


 その就任式には、河南領官の姿はなかった。その前の月、河南領官であった李炎は、自らを李王と称し、河南の燎宛宮からの独立を宣言していた。その討伐の為、皇騎兵軍を率いる正式な元帥の存在がいよいよ不可欠となり、首位大将であった劉飛が、そのまま元帥位に昇格したのである。




 宰相との打ち合わせを終えて、劉飛が執務室から出て来ると、そこには天祥が待っていた。天祥は劉飛に気づくと、直立姿勢を取り、優雅な仕草で頭を下げる。

「劉飛様、この度は、元帥ご就任、祝着至極にございます」

「何だよ、その仰々しい物言いは」

 どこからどう見ても、完璧な貴族の子息といった振る舞いの天祥に、ふと出会った頃の事を思い出して、劉飛は思わず苦笑する。


 近衛という仕事柄、燎宛宮の中にいる事の多い天祥は、いつの間にか、丁寧な大人びた言葉を、当たり前のように使う様になっていた。今ではどこから見ても、立派な宰相閣下のご子息様にしか見えない。それは多分、喜ぶべき事なのだろうが、以前の様に、子犬のようにまとわり付いて来ない事が、何となく寂しく感じたりもする。


 劉飛が催促するように、手のひらを上にして、手招きの仕草をする。それを見て、今度は天祥が苦笑する。劉飛は天祥に、もっと親しみを込めた挨拶をしろと言っているのだ。

「おめでとう、劉飛兄さん。やったね」

 そう言われて、劉飛が心底嬉しそうな顔をする。


……これで、元帥閣下なんだからなあ……


 天祥はそう思うと、可笑しくてたまらない。

「天祥、お前こそ。今度は、近衛の副隊長になったそうじゃないか。あり得ないだろう。その昇進速度は……」

 どうも、近頃、陛下が天祥をお気入りの様で、いっそ隊長にすればいいという陛下のご要望を、天海がまだ分不相応という理由で、慌てて却下したのだという話は、劉飛の耳にも届いていた。


 一度気に入ると、それをのめり込むように偏愛する。どうも陛下にはそんな傾向がある様だ。それは多分、幼い頃から、親の愛情というものが希薄だったせいなのだろう。陛下が物心ついた頃からすでに、母太后は陛下に対して、自分の子供ではなく、皇帝として接していた。そこには、当然あるべき親子の愛情などなかったのだろうという事は、想像に難くない。


「足元を見ながら行けよ。上ばかり見ていると、足元をすくわれる」

 自身も同じような境遇で、この年で元帥などと呼ばれる様になってしまった劉飛である。実力以上の位を与えられる事の大変さは、骨身にしみている。いくら天祥が宰相の子息とはいえ、この異例の出世には、相当に風当たりが強いだろうという事は、容易に想像が出来た。

 特に近衛は、実力よりも、貴族同士の力関係が色濃く反映される隊なのだ。皇帝の直属であるから、その寵愛が目に見える形で表れる所でもある。故に、そこには妬み嫉みという類のものが、想像以上に渦巻いている事だろう。


「大丈夫だよ。この命に代えても、必ず陛下を守る。どんな状況にいようが、それが変わる訳じゃない」

「近衛の鏡だな。えらいえらい」

 劉飛はそう言いながら、天祥の髪をくしゃくしゃと掻き回す。天祥が顔をしかめて、その手を払いのける。

「子供扱いすんなって……」

「そんなに背伸びして大人になるなよ。そんなに急ぎ足で子離れされたら、父さんは寂しいぞ……」

 しんみりした顔で言う劉飛に、天祥は思わず吹き出した。その天祥の肩ごしに、何かを捜すようにして、劉飛が辺りを見回す。

「……それはそうと、俺の軍師殿を見掛けなかったか?」

「ああ……華梨様なら、蒼東そうとうの宮へ行かれましたよ。先に行ってますからって、言伝ことづてが……」

「しまった、先を越されたか。じゃ、天祥、また後でな」

 慌ただしくそういって、劉飛は燎宛宮の蒼東の宮へ向かう回廊へ足早に去っていく。


……これでまた、人の子の親になろうって言うんだから……


 天祥は、そんな劉飛を見送りながら、宰相の執務室の扉に手を掛けた。そこで自分の顔が思い切り緩んでしまっている事に気づき、慌てて気を引き締めた。




 昨年結婚した劉飛が、この燎宛宮に雷将帝より賜った蒼東の宮は、燎宛宮の東側の広い庭園に面した静かな場所である。

 結婚後、程なくして懐妊した麗妃に、雷将帝は皇族としての位を復活させ、この燎宛宮に招き入れた。その住まいも、麗妃が幼い頃に暮らしたことのある馴染みの場所を選ぶという気の使いようで、皇帝陛下は、生まれてくる子供に、皇位継承権を与える心積もりなのだろうと、すでに燎宛宮では、そんな憶測が流れていた。


 皇帝がまだ子供だという事で、そもそもその後継問題に燎宛宮は頭を悩ませていた。そのせいで、一度は燎宛宮と対立した大公家の人間ではあるが、麗妃の存在は、燎宛宮では概ね好意的に受け入れられた。また一方で、その夫である劉飛が、実は劉家の末裔であるという噂も、まことしやかに流れており、彼らの子供の誕生には、実に多くの人間の期待が寄せられていた。


「お体の具合はいかかですか?麗妃様」

 身重の麗妃を気遣って、華梨が尋ねた。

薬師くすしは経過は悪くないと申していました。次の満月あたりには、恐らく……」

 人の気配を感じて、麗妃が視線をそちらへ向けた。

「お帰りなさいませ。劉飛様」

「ただいま、麗妃。……少し、顔色が良くないな。疲れない様に、体を休めた方がいいのではないか」

「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですわ。病気という訳ではないのですから。宰相殿のお話、何でしたの?皇騎兵軍元帥閣下」

 麗妃に問われて、劉飛は少し困ったような顔をした。


「……またすぐに、出掛けることになりそうだ。河南の雲行きが良くないらしい。華梨殿、早急に、兵の編成をしてくれ」

「戦でございますか?」

「河南は用意周到に準備してから、独立宣言をした様だ。流石に周翼といったところか……とりあえずは岐山きざんまで、兵を進め、車騎兵軍と合流する。それで、河南が動く様なら、そこから、更に進軍する。此度は、海洲水軍も出陣する。その水軍の配置が終わるまで、河南軍本体をこちらに引きつけておく様にとの、天海様からのお達しだ」

「数で圧倒して敵を包囲し、戦意を削ぐということでしょうか」

「……なるべくなら、戦はしたくない、というのが、宰相閣下の本音なのだろう。俺も同じだ。皇騎の兵力も万全ではないしな」


 しかし、それで白旗をあげる程度なら、そもそも反旗など揚げはしないだろう。数の差は初めから分かっている事だ。それでも河南は動いた。あの周翼が、河南を動かした。間違いなくそこには、何か思惑があるはずなのだ。


……定石どおりに兵を動かすだけで、本当にいいのかしら……


 華梨の心に疑問が生まれる。会って、話を聞いておかなければならない人間がいる。この計画の立案者、棋鶯子だ。華梨はそう考えながら、二人に挨拶をすると、急ぎ足でそこから退出した。



 不安そうな表情の麗妃に気付いて、劉飛は心配ないというふうに笑ってみせた。

「大丈夫。あいつに天河は越えさせないよ。俺だって、息子の顔を見るまでは、死ぬつもりはないしな……」

「あら。生まれてくる子供が男の子だって、もう決めてらっしゃるんですの?お気の早い」

 麗妃が顔を綻ばせた。その美しい顔に、劉飛はつい見入っている。それに気づいて、麗妃が頬を染めて俯いた。その顔を上向かせ、劉飛はそっと唇を重ねた。その優しい温かさに身を預ける様に、麗妃は瞳を閉じた。


 こんなに穏やかで、幸せな気持ちになれるとは思わなかった。

 悲しみは今でも時折、心の奥で麗妃の胸を刺すが、それは劉飛と暮らすようになってから、急速に遠い存在になっていった。麗妃と共に幸せになりたいという劉飛の一途な思いを、出来ることなら叶えてあげたい。そんな風に思った時から、自分はもう劉飛に恋をしていたのかも知れない。


 劉飛の声が、麗妃の耳に囁くように言うのが聞こえた。

「……男の子だよ」

 麗妃が目を開けると、劉飛の笑顔が目の前にあった。

「華梨殿に占ってもらったんだから。名前だって、もうちゃんと考えてある」

「何と?」

虎翔こしょう。俺の死んだ父と璋翔様から一字ずつ頂いたんだ」

「まあ。では、がんばって立派な男の子をお産みしなければ、私、叱られてしまいますわね」

 麗妃が楽しそうに言った。その麗妃の肩を劉飛はそっと抱き寄せる。麗妃はそのまま劉飛に体を預ける。

「……本当に、いつも寂しい思いをさせて済まないな」

「劉飛様……」

 結婚はしたものの、劉飛はこの半年、皇騎の再編やら、演習やらで、ほとんど家に戻る事が出来なかった。ようやくその目処が付いたと思えば、今度の騒ぎである。

「でも、虎翔の育つ時代は、戦などない、本当に平和な時代にしておいてやりたいしな」

 劉飛の言葉に、麗妃は無言で頷く。


「ああ、そうだ、これを」

 劉飛が懐から、薄く蒼い色を帯びた水晶球を取り出して麗妃の手に乗せた。

「……これは、あの時の封魔球?」

「ああ、棋鶯子に預かってくれって言われて、俺が持っていたんだが。中に何が入っているのかは知らないが、そもそもこれは、あの羅刹が転じたものなのだから、ならば、お前が持っていた方がいいのではないかと思ってな。守り玉としての効力もかなり強いみたいだぞ。これを手にしてから、掠り傷一つしないんだからな。……きっと、お前の身を守ってくれるはずだ」

「私などよりも、劉飛様の方が危ない場所に赴かれるのですから、どうか守り玉としてお持ち下さい」

「俺には、ここにいて、お前と虎翔を守りたいという願いは叶わない。だから、せめて、これを持っていてくれ。それで、俺の気が済むのだから」

「分かりました」

 麗妃が笑顔で頷く。

「では、劉飛様のご無事は、この私が祈っておりますわ」

「それは心強い……」

 麗妃が手を伸ばして、劉飛の体を抱き寄せる。

「どうかご無事で」

「ああ」

 互いにその温もりを愛おしむ様に、二人はもう何も言わずに長い抱擁を交わした。

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