第70話 紫星開封

 春の宵の刻、河南城の一番高い物見の塔の上には、二つの人影があった。

 毎日、この時刻には、周翼がこの場所で星見をしている。だが、この日は、その傍らに李炎が立ち、周翼が星見をする様子を、興味深げに眺めていた。


 周翼は天を仰ぎ、一つの星を探していた。程なく、計算した通りの場所に、目当ての星を見つけた。

 神秘的な紫色の輝きを放つ星。それは風の司の支配する星だ。

 普段はあまり目立たない星だが、数年に一度の周期でその輝きを増す。先人の残した書物の記述から導き出した結果によれば、今が、その輝きのもっとも明るいとされる時期に当たる。


「李炎様……あれが、あなたを守護する天続星てんぞくせい風司ふうしの星です」

 周翼が指し示す方へ、李炎が顔を向ける。その瞳が、美しい紫の星を捕らえた。

「あれが、私に力を与えてくれる星か」

 李炎が感慨深げに、そう呟いた。




 数日前、周翼は燎宛宮へ使者を送った。その使者に持たせた書簡には、李炎が河南領官を辞す事。そして、自らを李王と称し、この河南を支配する旨をしたためた。それは、李炎が皇帝に対して明確に叛意を示したことに外ならない。そして事実上、河南は華煌からの独立を宣言した事になる。遠からず、帝国三軍がこの河南に向けて、進軍を開始するはずだ。李炎が李王という存在を燎宛宮に認めさせるには、この大軍を退け、河南を守りきらなければならない。


「……時期尚早ではないのか」

 昨年、周翼がその話を持ってきた時に、率直な感想として、李炎はそう感じた。

 河南領官としてこの河南の全容を掴み掛けてきた所であるし、ようやく平穏を取り戻したこの国に、また混乱を生じさせる事に、少しのためらいも感じたのだ。だが、そんな李炎の迷いを打ち消す様に、周翼はきっぱりと言った。

「物事には、機というものがこざいます。時を掛け、我らが力を蓄えている間に、同じように華煌という国も傷を癒しているのです」


 宰相である天海の手腕は、正直侮れないものがあった。独善的に権力を振るっていた太后が表より退き、雷将帝がまつりごとを掌握してから、燎宛宮の淀みは確実に浄化されつつある。枯れ落ちそうだった枝が、水を得た様に、少しづつ勢いを取り戻し始めている。

「帝国三軍がその力を完全に回復しては、その攻略は困難となります。近く、皇騎に新たな元帥が就任するという動きもございます。我々には、もう、あまり猶予はないのです」

「……新たな皇騎兵軍元帥とは、どうやら、あの劉飛殿のようだな」

「はい」

「成る程。厄介な敵には違いない。いいだろう。お前が機を計った結果というなら、勝算はあるのだろうからな」

 李炎にそう言われて、周翼は肯定の意として、頭を垂れた。

 しかし、本音を言えば、やはり時期尚早なのである。その準備は、万端という訳にはいかなかった。勝率は多く見ても五分。言ってしまえば、これは掛けだった。もちろん、李炎には、そんな事を言えよう筈もない。だが、必ずしも分が悪い勝負という訳でもなかった。


 春になれば、李炎の守護星である天続星が、極大の輝きを得る。その時期に合わせれば、白星王の力を借りずとも、匠師である周翼ならば、紫星王の封印を解く事ができる。この時期に、星の配置がそういう巡り合わせになるというのは、間違いなく天の利はこちらにある。周翼はそう信じて疑わなかった。

 しかし、この時ただ一つだけ、周翼も、藍星王でさえも、見落としていた事があった。天の星を読むだけでは、知る事が適わぬ事がある。それは、冥府の動きである。そして、そこから生じたささやかな誤算は、やがて大きな誤差を生み、周翼の予測を大きく狂わせる事となるのである……




 周翼が二本の指を李炎の額に押し当てた。そこに意識を集中していく。周翼の指先から、流れ込んでくる気を感じて、李炎は目を閉じた。

「……天空の天続星てんぞくせい風司ふうし紫星王しせいおう、地上に降りて汝が守護せし者に力を与えよ。汝が守護せし者の名は、李炎。呼び掛けに応じ、封じられし力を目覚めさせよ……」

 周翼の声が遠くに聞こえる。

 閉じているはずの目に紫色の光を感じた所で、李炎の意識は遠のいた。


 天から降りた紫色の光が、李炎の体に覆いかぶさる様に重なり、その上に人型を成す。そこに突風が湧き起こり、周翼の体をなぶる様に絡み着く。その風の中に感じる大きな威圧感…神の存在に、周翼は息苦しさを覚えた。と、そこで藍星王が周翼の意識を奪い去って行った。



 藍星王が見ている前で、風が渦を巻き、その中から紫星王が姿を現した。

「……風が、匂うな」

 開口一番、紫星王が顔をしかめて呟いた。

「その顔からすると、芳しき香りという訳ではない様だな」

 そう言った藍星王を冷めた目で一瞥いちべつして、紫星王が独り言の様に言う。

「……血の匂いだ。そう……血に飢えたかまいたちが、この大地に放たれた。ここには、命を摘み取る妖風が渦巻いている」


 風司は、風を読む能力を持つ。

 風司曰く、この世界に存在するものは全て、その身に風を纏っているのだという。風司は、その纏う風の変化を察知する事が出来る。


 その者が動けば、纏う風に変化を生じる。彼には、その変化を感じる能力があるのだ。そして、その風は、その者が動こうとする意思を持った時から、変化を生じるという。つまり、風司は、その僅かな変化を捉える事によって、その行動の先読みができるのだ。星司に比べれば、漠然とした先読みではあるが、今の智司にとっては、ありがたい存在だった。




 李炎は、近くに人の気配を感じて目を覚ました。辺りはもう夜になっていた。李炎は自室の寝所で寝ていた。周翼と物見の塔に登って、星の力を取り込むという儀式の最中に、どうやら気を失った様だ。身を起こすと、寝台の足元に腰を下ろしてこちらを見ている青年と目が合った。


「お前は……」

 怪訝そうな顔をして李炎が問うと、青年が柔らかな笑みを見せた。

「我は、風司の紫星王。そなたの守護者だ」

「お前が、私の力となる者か……」

「力か。そうだな、お前がそう望むなら……この地上の主になりたいと言うのなら、この私が、お前を覇王にしてやろう」

「覇王……」

 その言葉の重みに、李炎は唾を飲みこむ。


「だが……どういう訳か、状況は実に複雑に絡み合っている様でな。お前の他に、この地上には覇王を争うべき者が、六人いる。藍星王が絡まった糸を少し解きほぐしてくれたお陰で、今の所は実質、最後の一人にまで整理が付いた様だが、この一人だけは、お前の手で確実に倒さなければならない」

「その一人というのは?」

戦司せんし橙星王とうせいおうが守護する者、名は劉飛」

「……劉飛殿が……」

 李炎が僅かに動揺する。その動揺が微細な空気の変化……風を生じ紫星王に伝わった。その心の脆弱さを感じて、紫星王が険しい表情を見せる。

「李炎、物事には、機というものがある。これは、智司がその頭脳を駆使して計った最高の機だ。覚えておけ。この機を逃せば、恐らく、お前に次はない……」

 これは、自分に与えられた、最初で最後の機会なのか。そう宣告されて逆に、李炎は冷静さを取り戻した。


 この河南の力、周翼の知力。そして、この神の力……そうだ、条件は揃っているのだから……それを生かせなくてどうする。そのぐらいやり遂げられなくて、覇王になどなれるものか……そう思った。


 再び目を覚ました時には、もう夜が明けていた。青年の姿はどこにもなかった。

「……夢か」

「李炎様、お目覚めでいらっしゃいますか?」

 不可解な夢の内容を反芻しながら、寝所でぼんやりとしていると、扉の向こうで、周翼の声がした。

「ああ……構わぬ、入れ」

 李炎が返答をすると、周翼が姿を見せた。

「燎宛宮が動き始めました。河南討伐の勅命が下ったそうです。同時に、その総指揮官として、劉飛殿の元帥就任が正式に決定された様です。ひと月後の就任式の後、帝国三軍が総出で、この河南に向けて進軍を開始するものと思われます」

「そうか。網に掛かったな。お前の見立て通りという訳だ」

「はい……」


 数の話をすれば、帝国三軍とまともにぶつかって、今の河南に勝てる見込みはない。だが、敵の裏を掻き、本陣を押さえる事が出来れば、こちらにも勝機はある。周翼はそう考えている。本陣とは正規軍の陣のことではなく、燎宛宮そのもののことだ。その守備力が脆弱なのは、先の麗妃の奇襲によって証明済みである。


 三大公の乱の後、天海は、河南の制圧を視野に、主に皇騎兵軍の補強に力を注いだ。華煌京の守備に関しては、辛うじて近衛が再編されたぐらいで、限られた財源の中、さしたる補強はされていないのが実情だ。周翼はそこに目を付けた。要は、燎宛宮を押さえ、皇帝の首を取ってしまえばいいのだ。周翼は、この半年、ただ一度の好機を作り出す為に、その為の準備に心血を注いできた。そして今、その機が訪れたのだ。


「皇帝軍が天河を越えるが早いか、我等が華煌京に至るが早いか。この勝負、先に敵陣に入り込んだ者の勝ちです。此度の作戦では兵の少ない事が、我が方の有利になりましょう」

「となれば、一秒たりとも無駄には出来ぬな、周翼。急ぎ出陣の準備をせよ。……お前の風伯の計、如何様のものか、とくと見せて貰うぞ」

「はい」

 周翼は一礼して、そのまま部屋を出て行こうとする。

「周翼……」

 それを李炎が呼び止めた。


「我らは勝てるな」

 李炎は思わずそう聞いていた。

 確認するように言った李炎の、その心の不安を打ち消す様に、周翼は笑みを返した。

「勿論です。天は、我らに味方しております。ご心配はいりませんよ、李炎様」

「心配など……してはおらぬ」

 これではまるで、自分は周翼を信じていないみたいではないか。かといって、取って付けた様に、信じていると言うのも、何だか気が引けた。李炎が黙ってしまうと、周翼は一礼して部屋を出て行った。

 李炎は心を落ち着ける様に、瞳を閉じた。


……覇王になろうともいう者が、こんな事では駄目だ。何事にも動じない様に、強く、強く……そうあらねばならない……ただ勝つことを信じて、少しの躊躇もあってはならない。そうでなければ、この私に皇帝を退ける資格などない……


 李炎の体が、紫色の光に包まれる。

「この私が勝つ。それが天の意思だ」

 そう言って目を開いた李炎の表情からは、もう迷いは消え去っていた。

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