第68話 小さな胸の痛み
やっと、夜が来た。
こんなに一日が長いと感じたことは無かった。
優慶は自室に戻り、崩れ落ちる様に、寝所に横たわった。その途端、我慢していた涙が一気に押し寄せて来た。お付きの者を遠ざけ、人払いをして、締め切った蒸し暑い部屋の中で、優慶はようやく泣く事が出来た。
今日一日、いつもと変わらず朝議をこなし、書類の決裁をし、予定していた数件の視察をこなした。だが、誰に会い、誰と話し、誰が何を言ったかという様な事は、まるで覚えていなかった。その小さな胸の中は、ただ一つの事で、一杯になってしまったのだ。
――劉飛が結婚をする。
優慶は、朝議でそう報告を受けたのだ。
その瞬間から、優慶の耳は何も聞こえず、目は何も見ることはできなくなった。
自分の喋る声が、遠くに聞こえる。話しかけられる言葉は、くぐもって聞き取りにくく、目の前にいるはずの廷臣たちは、霞がかかった様な中にいて、その顔の判別が出来ない。それでも、誰も優慶の異変に気づかなかったのであるから、自分は多分上手くやったのだろうと思う。
皇帝としての責務はちゃんと果たせたのだろう……
劉飛との約束は果たせたのだろう……
……陛下、名実共に雷将帝とおなり下さい……その為には、陛下にもっと強くなっていただかなければなりません……
劉飛に言われた言葉は、心に深く刻み込まれている。その声を……その顔を思うと、また涙が盛大に溢れだして来た。
「……私は、そなたの言葉を支えに頑張ったのだぞ……少しだが、前よりは強くなったのじゃ……沢山我慢もしておる……それは私は皇帝だから……この国を守らなければならないからじゃ……」
誰も聞くもののいない言葉が、空しく部屋に響く。言い様のない寂しさが込み上げてくる。優慶は、声を上げて泣いた。
結婚というものがどういうものなのか、まだ八つの優慶には良くは分からなかったが、自分の胸の中ではちきれそうになっているこの思いが、もう報われることは無いのだという事だけは感じ取っていた。
「……皇帝など……もう嫌じゃ……そなたが見ていてくれるのでなければ、私はもう……頑張れぬ……」
また明日から、同じように朝議をこなし、謁見をこなし、山ほどの書類に目を通し、大勢の家臣から陳情やら報告やら意見やらを聞く。そんな日常が、もの凄く煩わしいものに思われた。
「……もう何も出来ない……やりたくない」
ただ国の為に、国の為に、国の為に……使命感だけが重く圧し掛かってくる。
「私などでは、無理なのだ……出来る訳ない……」
涙はまだ止まらないが、ひとしきり大声を上げて、優慶は少し落ち着いた。今は、ただ泣きながら放心している。明日からどうすればいいのか。ただ、ここから逃げ出したいという思いばかりが募って、優慶は途方に暮れていた。
締め切っている窓が、風の音に軋んで音を立てた。
ふと、その音を優慶の耳が捉えた。風の音と言うには、規則正しく、同じ律動を繰り返す。何かが窓に当たって音を立てている様な……そう気づいて、優慶は窓に目をやる。窓枠の隅に、誰かの拳が見えた。それが、一定の律動を繰り返しながら、窓枠を叩いている。それは決して大きな音ではなく、むしろ耳を澄まさなければ聞こえない程の、小さな音だ。
優慶のいる空間に、強引に割り込まない様に気遣う様に、拳はそっと窓を叩く。かといって、決して気づかないという程の小ささでもない。気づいてくれたらいいな……というぐらいの絶妙の大きさだった。
優慶は涙を拭うと、そっと窓辺に寄った。
覗きこむ様にして、外の様子を伺う。
そこにいたのは、天祥だった。
部屋とは逆の方を向き、小さな声で何か歌う様に口を動かしている。その歌に合わせて、拳だけが軽妙に窓を叩いている。こちらから窓を叩いて合図すると、天祥は驚いた様にこちらを見た。どうやら優慶が顔を見せるとは思っていなかった様だ。優慶が窓を開け放つと、涼やかな風が吹き込んでくる。それが、とても心地良く感じた。
「……少しは、落ち着かれましたか?」
天祥がそう言って、香を焚き染めた布切れを差し出した。それを見て、優慶は自分が物凄い見苦しい顔をしている事に思い至って、顔を赤くした。慌てて布で顔を拭う。そこから立ち上る優しい香りに、心なしか気持ちが落ち着くような気がした。
「……泣いていると、思って来たのか?」
「昼の警護の時に、どこかご様子がいつもと違う気がしましたので。もしかしたら、ご気分がすぐれないのかもしれないと……」
昼の警護の時と言えば、天祥はかなり離れた場所にいた。それが、自分の不調に気付いたというのか。
「……そなたは不思議な男じゃな。あんな遠くにいて、どうして私の具合が悪いのが分かるのか……」
そう言うと天祥が優慶の顔を見て、笑顔をみせる。
「私は、いつも陛下の事を見ておりますから」
その笑顔に、優慶は前にもこんな風に、天祥に助けられた事があったのを思い出した。これまでも度々、この笑顔に、不安を和らげてもらった。
「……誰にも話せぬ愚痴を聞いてもらっても……構わないだろうか……」
優慶が言いにくそうに切り出すと、天祥はやはり笑顔を見せて頷いた。
後に、かなり大人になってから、優慶はこの時の事を思い出すと、天祥に申し訳ない気持ちで一杯になるのだが、まだ幼なかった少女は、この時は遠慮なく、この少年に失恋の痛みをぶちまけたのだった。
「劉飛様は、近く皇騎兵軍元帥となられます」
ひとしきり優慶の話を聞いた後で、天祥が言った。
「この結婚は、元帥となる為の条件だったと聞いています。劉飛様が元帥となられるのは、何よりも優慶様をお守りしたいという思いからなのだと、分かってあげて下さい。劉飛様は命を掛けて、陛下をお守りするのだと、そう言っておりましたよ」
「……私が、皇帝であればこそ、劉飛は側にいて私を守ってくれるという事か……」
優慶が複雑な顔をしながらも、僅かに笑顔を見せた。それ以上は、望むべきではないのだろう。そう思った。
「ならば、皇帝を辞める訳にはいかないな……」
ため息混じりに優慶が呟く。
その小さな肩には、どれ程の重荷が乗っているのだろう。
そう思うと、天祥はやりきれない気がした。
「……優慶様……こんな私ごときがお役に立つのであれば、いつでもお話を伺いに参ります。遠慮なくお召し下さい」
ただ少しでも、その重荷を軽く出来たら。そんな思いから、そんなことを口にした。
この夜のことは、他言は無用だと優慶に言い含められて部屋を後にした天祥であるが、後日、近衛小隊長の辞令を受け取る事になり、天海にその昇進の心当たりを問われて、少しばかり困惑する事になった。
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