第67話 幸せの条件

 劉飛が畏まって、少し離れた場所に座っている。感情を読みやすいその瞳が、自分を捉えて、少し困惑した色を帯びた。

 似合わないと思った。こんな風に、相手の気持ちを推し量り、その心の動きを探ろうとする。その様子はどこかたどたどしく、どこか頼りなげですらある。戦場での自信に満ちた劉飛とは、まるで違う。自分の存在が、彼をそんな風に萎縮させてしまうのかと思うと、それが少し心苦しかった。

 結論は決まっているのだ。こんな無意味な時間は、早く終わらせてしまおう……麗妃はそう思って口を開いた。


「棋鶯子から、話は聞きました……私に異存はありません。全て、そちらの宜しい様に手筈をなさって下さって結構です」

 その抑揚のない声に、劉飛は言葉もなく、ただ麗妃の顔を見詰めたままだ。劉飛の真っ直ぐで真摯な瞳に、麗妃はどこか居心地の悪さを感じて、軽く身じろぎをした。


「俺は……」

 意を決した様に、劉飛がようやく口を開いた。

「俺には……いえ、私には、野望があります」

「野望……?」

「この国を建て直し、戦のない世界を作るという野望です。その為には、雷将帝陛下が名実共に、皇帝陛下におなりあそばす必要があると、自分は考えています」


 自分は武人であるから、最大限に陛下のお役に立つという意味で、元帥という最終目標を持ち、今まで精進して来た。そして今、思いがけずその元帥という地位に、手の届く所まで来た。今度の結婚の話は、その条件として宰相閣下から示されたものであると、劉飛は言った。そして……


「あなたに、そんな私の手助けをしていただけたらと……そう思って、この話を承諾しました」

「手助け、ですか……?」

「ただ、側に居てくれるだけでいいんです。それだけで、俺は、頑張れるから……」

 この者の傍らにいて、共に、この国を立て直す。劉飛の言葉は、眠っていた麗妃の心を揺らした。


……この者は、楊蘭様と同じ事を考えているのか……


「一つ、お聞きしても?」

 麗妃が劉飛を見据えて聞いた。その瞳は、先刻までの無気力なものとは違っていた。劉飛はそこに、何かを確かめようとする意思を感じて畏まる。

「あなたが、ここに来たのは、私が楊家の者だからなのですか?」

 元帥という大きな力を手に入れる為に、自分の持つ楊家の血筋のみを必要としているのか?と、麗妃はそう問うた。

「それは違う。……この話、相手があなたであるというのでなければ、私は断じて受けはしませんでした。それは、あなたが楊家の姫だからという理由からではなく……つまりその……俺は……あなたが好きだから……」

「……好き……?」

 麗妃が不思議そうな顔をして劉飛を見る。


「政略結婚なんだから、好きも嫌いも関係ないだろうって言われたけど……いや、むしろ、今まで敵同士で、俺は大公家の滅亡に加担した男で、つまり恨まれて当然の男な訳で。……でも、燎宛宮で初めてその顔を見た時から、忘れられなくて……そんな思いが苦しくて……自分でもどうしようもなくて……ああ、もう。何か上手く言えないんだけど……つまり……俺を嫌いでも構わないから、結婚して欲しいって……」

 思いがけない方へ話が転んでしまい、劉飛はしろどもどろになる。そんな劉飛に、麗妃はまた小首を傾げて、確認する様に言う。

「……嫌いで構わないのですか……?」

「……いえ、それはっ。そりゃ……出来れば、好きになって欲しい……けど、そんな贅沢は言いません」


 麗妃が劉飛の顔を見据える。何故、自分の様なものにこれ程の思いを寄せてくれるのかは分からなかったが、その一途で懸命な様子は、不快ではなかった。


「……嫌い……では無いと思います」

 麗妃がぽつりと言った。

「それに、この帝国の為に、私があなたの妻になる事で、お役に立てる事があるというのであれば、その役割を果たすことに異存はありません」

「では……」

 劉飛は思わず身を乗り出した。しかし、麗妃は目を伏せて申し訳なさそうに続けた。

「……ただ、私の心はすでにここにはないのです。全て、戦というものに奪い去られてしまった。多分、人を愛するという心も……だから、あなたが寄せてくれるその思いに応えることは出来ません……それでも、構わないと言うのですか?」


 嫌いではないが、好きにもならない。ただ、同じ目的を持つ同志としてなら、その手を取ろうと、今度は逆に麗妃からそう宣告されて、劉飛は少し意気消沈する。


 恋愛感情など持ってくれなくてもいい。同志として、ただ、そばにいてくれるだけでいい。……と、思ってはいたものの、こうもはっきり言われると、やはり少し身に堪えた。


「それでも……構いません。ただ、あなたが側にいてくれるだけで、俺は多分、頑張れるから」

 そう言って、真っ直ぐな視線を向けた劉飛を、麗妃は感慨深そうに見た。



 こんな風に、本音を無防備に晒してしまうその危うさは、燎宛宮の水には馴染まないだろうと思う。あの場所の闇は、殊の外深い。宰相である天海にも、それは分かっているはずだ。それでも、この件に劉飛を関わらせるのだというなら、天海は、華煌の後継者を作るという最優先事項の前には、劉飛の将来を引き換えにしても構わないと考えているという事だ。


 いかに有能であるとはいえ、この若さで元帥というのは、やはり早計に過ぎる。劉飛は、元帥の話に付随して結婚の話が出たと思っている様だが、ここは、麗妃の結婚の話から、劉飛を丸め込む為の材料として、元帥の話が出てきたと考えるべきだろう。


 ならば、この話、受けるべきではないのかも知れない――そんな気がした。何よりも、劉飛の為に。


「私はあなたの様な実直なお方が、この様な婚姻をすべきではないと思うのです。その真っ直ぐなお心が、傷だらけになる様な……そんな道を選ぶべきではないと。その道の先には、あなたが思い描いている様な幸せなどありはしない。あなたには……」

 麗妃の言葉を途中にして、不意に劉飛が立ち上がった。


 劉飛はそのまま部屋を出て、露台の先に立った。山の斜面に張り出した形で作られている離宮の露台からは、遠くに海州の海が見える。

 そこから吹き寄せる潮風に、劉飛は目を細めて深呼吸をした。そして、欄干に身をもたれ掛けて、何かを思案する様に、しばらく海を眺めていた。



 自分の言葉は、多分、劉飛を傷つけたのだと感じながら、それでも麗妃は、これ以上、この件に劉飛を関わらせるべきではないと思っていた。

 政争の中に身を置くというのは、過酷な事だ。皇族として生まれ、生まれながらに為政者としての責任を負うべく定められた自分は、幼い頃から、そういう覚悟を心に定めて来た。この帝国の為の婚姻。そしてその子がまた、政治の駆け引きの道具ともなる……そういう事を仕方が無いと割り切れる様に、長い年月をかけて、自分は心の準備をして来た。しかし、劉飛はそうではない。

 その婚姻の先にあるものが、どういうものなのか、恐らく劉飛は考えていないだろう。いや、劉飛の様な者には、想像すら出来ないだろう。

 この婚姻は、ただ、帝国の後継者を作るという目的の為だけに成され、いずれ生まれてくる子供は、自分の子供としてではなく、帝国の後継者として育てられる運命にあるのだと。



 知れば、やはり傷つくはずだ。

 人を思い、慈しむ心を捨てなければいけない世界……

 そんな世界に、やはり劉飛はそぐわない。

 麗妃は、劉飛を思い留まらせる言葉を探しながら立ち上がり、その側まで行った。



 麗妃が言葉を掛けようとした所で、劉飛が徐に右手を高く掲げ、左の手を口に当てた。何をしているのか、と思う麗妃の目の前で、不意に甲高い指笛が響いた。そして二度三度と、微妙に音程を変えながら指笛が、空に響き渡る。

 その音が途切れるのと入れ替わる様に、鳥の羽音が聞こえた。何事か?と思う間もなく、空から海鳥があれよあれよと舞い降りてくる。劉飛が掲げた手を、重そうにしながら麗妃の顔前に示した。そこは海鳥が鈴なりになっていた。


「どうです凄いでしょう?俺の特技は」

 あっけに取られる麗妃に、劉飛は自慢げにそう言って、褒めてくれとばかりに胸を張る。

 初めの驚きが収まると、そんな劉飛の少し滑稽な姿に、急におかしさが込み上げて来て、麗妃は思わず笑みをこぼした。そんな麗妃を見て、劉飛が嬉しそうに口元を綻ばせて、そして言った。


「……ただ、そんな風に笑っていて下さい」

 そう言われて、麗妃は思わず劉飛の顔を見る。


「大丈夫です。ご心配には及びません。私は、単純な男です。あなたが側にいて、そんな笑顔を見せてくれていれば、それだけで、私は幸せになれます……」

 劉飛が右腕を空に高く差し上げると、海鳥たちが一斉に飛び立った。


 それらの羽音が去り、静寂の戻った露台に、劉飛が片膝を付き、麗妃を見上げた。

 そしてその手を取って言った。

「……だから、私と結婚して下さい」

 穏やかで優しい色を帯びた琥珀の瞳が、麗妃の姿を映していた。


 その瞳に、吸い込まれる様な感じがした。頭の中が真っ白になり、様々な思いも、言葉も、麗妃の中から全て消し飛んでしまった。ただ、指の先から伝わる優しい温もりをだけを感じていた。気がつけば、

「……はい」

 と、答えていた。

 それ以外の言葉は、もう何も残っていなかったのだ。


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