第66話 東の離宮へ
それから数日後、劉飛は麗妃に今度の話を、自ら伝えに行く為に、華梨を伴い東の離宮へ向かうことになった。
二人が厩舎へ行くと、そこには棋鶯子が待っていた。
棋鶯子は、天海の名代として彼らに同行すると告げた。天海から、従者を付けるという話は聞いていたので、劉飛は了解の意を示して頷く。
「こちらは……?」
棋鶯子が、劉飛の傍らにいた華梨を見た。
「ああ、俺の副官で、華梨殿。お前と同じく、八卦師だ」
劉飛がそう言うと、棋鶯子が華梨に訝しげな視線を向ける。目の前で、愛想良く微笑んでいる華梨からは、八卦師特有の気配を感じなかった。それはつまり……
……こいつは、相当の使い手ってことだ……
その力の系譜が、自分と同じ水の者であれば、自分が探している人物……つまり、楊蘭の仇である可能性がある。だが、その力は上手く隠されていて、すぐには判断が付かない。手っ取り早く力を見極めるなら、術を仕掛けてみればいい。いずれ機会はあるはずだ。棋鶯子はそう思った。
棋鶯子の無遠慮な視線に苦笑しながら、華梨は軽く会釈をした。自分が八卦師と知って、棋鶯子は用心深く自らの気配を隠した。だがすでに、華梨は星司の力によって、その正体を見極めていた。
……女の子……よねえ。どうして男の子のふりなんかしているのかしら……しかも天暮……という事は、これが例の水司の
ならば、その存在は、あまり歓迎すべきものではないと思う。
河南の大公家の滅亡と無関係ではない者。それが、今はこの燎宛宮にいるという事だ。しかも、これは冥王の意を受けて動く
その存在は、幾つもの負の要因を生み出す。指極の星を持つ天祥が、この娘にまとわり付いているというのが、偶然とは言え、せめてもの救いだった。白星王には何か考えがあるのか、とりあえず、天暮に関しては、今は無視していろと言われている。
……でもね。その視線に、何となく敵意を感じるのだけれど……
あくまで無視というのは、どうやら無理そうな気配だと、華梨は思った。
三つの駒が、初夏の海洲道を進んでいた。初めは並足だった速さも、いつの間にか駆け足になっている。道の先に揺れる陽炎をなぎ払う様に、劉飛は駒を進める速さを上げる。何より
「劉飛様っ」
遥か後方で、華梨の声がしたのに気づいて、劉飛は慌てて手綱を引いた。驪驥と走っていると、つい我を忘れてしまう。今日は連れがいるのだと言う事を、劉飛はつい失念していた。振り返ると、そこには華梨の姿しかなかった。
「……あれ?棋鶯子はどうした?」
その言い様に、華梨は苦笑する。
「私は、結構頑丈な方ですし、あなたの突拍子なさにも、もう大概慣れましたけど、棋鶯子は、まだ十五です。もう少し、気を使っていただけませんか?」
「十五ったって、天祥だって、このぐらいは食らいついて来るぞ」
「やはり、気づいておられなかったんですね……あの子は、女の子なんですよ」
華梨に言われて、劉飛が心底驚いた顔をする。
「え……だって……嘘だろぉ」
西畔での棋鶯子……離宮での棋鶯子……劉飛は思わず、記憶の中の棋鶯子を再検分する様に頭に思い浮かべる。
不敵で、不遜で、気性の激しい八卦師。あれが、僅か十五才の少女だと言うのか。
「……それ、天海様も、当然ご存知なんだよな…物好きというか何と言うか……」
「それ程の逸材という事なのでしょう」
「……そうか。それでか」
「何がですか?」
「今度の話がさ、どこから出てきたのかと思って。棋鶯子だったんだな。そもそもあいつは、河南の麗妃様の元にいたんだろう」
「ご存知だったのですか?」
「前に、蓬莱の元の主だって聞いたから、そうなのかなって……麗妃様を今の境遇からお救いする為に、こういう話を持ち出したって事なんだろう。多分それが、丁度上手く、天海様の目論見にはまった」
「……まあ、そんな感じでしょうか。……ご不満そうですね」
「今更、決まった事を、ぐずぐず言う気はないよ。ただ、この話を麗妃様は、納得なさっているのかと、そう思うとさ……」
「……政略結婚なのですよ。好きも嫌いもないでしょう。そもそも、麗妃様に不承知という選択肢はないのですから」
「……で、俺が、それを麗妃様に言わなきゃならないって事なんだよな。何か俺、すごく嫌な奴だよな。こういう事を、力を
劉飛が複雑な顔をする。
「事実を、そのままに……ありのままにおっしゃればいいのですよ。それがあなたのお役目なのですから。余計な感情など、挟まぬ方が宜しいかと思います」
割り切れという華梨の忠告は、理に適っている。相手が麗妃で無ければ、そうも出来ようが、すでに好意を持っている相手に対して、それは少し難しい注文だ。
「そんなにお嫌なら、初めから使者を立てて、用件を伝えるだけで宜しかったのですよ」
「麗妃様に、そんなご無礼はできないよ。せめて、俺の口から事情をご説明申し上げるのが礼儀というものだろう」
それに……と劉飛は思う。
……すでに決まっている答えとはいえ、それを感情のこもった声で聞きたいと思うのは、欲張りすぎだろうか……
色々な思いが心を揺らしていく。どこか落ち着かない思いを抱えながら、ようやく姿を見せた棋鶯子の姿を確認すると、劉飛は驪驥の鐙を軽く蹴った。
東の離宮に着くと、麗妃に来訪の先触れをしてくると言い、劉飛と華梨をそこに残して、棋鶯子は姿を消した。
麗妃は薄暗い部屋の奥で、物思いにふける様に、ただぼんやりと外を見ていた。
明るい陽光の差しかかる回廊から、部屋に足を踏み入れると、敷居を境にして、何か別の世界に入り込んだ様な気さえする。目が慣れてくれば、室内はそう暗くはないのだが、ここから眩い夏の光を遠くに見ると、やはり閉塞感は否めない。
こんな場所で、何をするでもなく、麗妃は日がな一日、景色を眺めているのだという。笑うでもなく、泣くでもなく……かつてはあんなに生き生きとしていた麗妃が、今はその感情を露にすることほとんどない。
「……麗妃様」
棋鶯子が声を掛けると、初めてその存在に気づいた様に、麗妃がうつろな目をこちらに向けた。棋鶯子は、今日は劉飛も共に来ている事。その来訪の理由が何であるかを、手短に説明した。
「この様な静寂な場所にただお一人で、過去を顧みるばかりのお暮らしでは、心を失っていくばかり……何よりもまず、ここを出て、都へお戻りになる事をお考え下さい」
「……それが、劉飛殿との婚姻という事になるのですか」
麗妃が冷めた笑みを浮かべる。
「話は分かりました。建前など不要です。要は、皇族の血を引くこの私に、華煌の後継者を産めという事なのでしょう」
「麗妃様……」
「華煌の為に、この身を役立てる事が出来るというのであれば、元より異存はありません。それは、皇家に生まれし者の使命なのですから……」
気の無い声でそう言うと、麗妃はまた、遠くの景色に意識を飛ばしてしまった。
ここにいるのは、ただ陽炎の様な儚い存在だ。棋鶯子は、改めてそう思い知らされる。楊蘭の死と共に、麗妃は何かを失った。それは人が生きるために大切なもの……生への執着というものだ。
……それが、あの者と関わる事で、取り戻せればいいのだけど……
この結婚が、政治的な意味合いの濃いものであるというのは、否定しない。天海も棋鶯子も、帝国の為に、麗妃という存在を上手く利用しようとしている。それも否定しない。しかし、そんな中で、劉飛の実直さは救いだった。もしかしたら、あの者ならば、麗妃様を現実に引き戻してくれるのではないか。棋鶯子の中には、実はそんな淡い期待もあったのだ。
薄暗い部屋の奥に、麗妃が座っている。劉飛はその顔を見て、やつれたと思った。
数ヶ月前に、偶然この場所に飛ばされた時には、突然の事に動揺していて、その顔をまともに見ることは出来なかった。だが、こうして向きあって座っていると、そこから生気というものは感じられなかった。
……かのお方をお救い出来るのは、お前しかおらぬ……とわしは考えておる……
天海の言葉が改めて心に重く響く。
自分などに救えるのかと思う。心を閉ざしている者に、手を差し伸べる事に躊躇する自分がいる。
周翼の心を取り戻せなかったという自責の念は、劉飛の中で、未だその心に棘の様に刺さっているのだ。劉飛の心は、またあんな風に傷つく事を恐れていた。もし差し伸べた手を取ってもらえなかったら……そう考えると、身のすくむ思いがする。かと言って、麗妃をこのままここに残していくことも考えられなかった。
……そんな葛藤を押さえ込むのに、劉飛には少し時間が必要だった。
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