第64話 弱さと強さと

 杜狩は、覡霞げきかがこの村にやって来た理由が気になりながらも、兵の野営の準備に追われ、周翼にその理由を問う暇がなかった。


 翌朝になって、周翼からの命令書が届き、杜狩は少数の兵を率いて、斥候として天望村へ向かう様に言われた。天元の村人に道案内をさせ、山中を進み、数日の後。天望村へ至った杜狩がそこで目にしたのは、破壊され、焼け落ちて、すでに跡形もなくなっていた村だった。

 そこに人の気配はなかった。そこには死体の類もなかったから、恐らく、村人が自ら火を掛けて、この地を去ったものであると思われた。


 杜狩は、戦はしない、と言った周翼の言葉の意味にようやく気づく。周翼は巫族に河南軍侵攻の情報を送り、村を捨てて逃げる様に命じていたのだ。覡霞は、村人は首尾よく逃げたと、それを伝える為に天元で周翼を待っていたのではないか。


「しかし……これで燎宛宮を納得させられるのか……」

 そう思わずにはいられない。巫族の力を排したのは確かだが、それを殲滅した訳ではない。別の場所に隠しただけの事だ。こんな事は、子供だましに過ぎない。遠からず見つかるのではないか。

「……こんなんで大丈夫なのか」

 杜狩が何か釈然としないものを抱えながら、天元へ戻った時には、周翼はすでに河南へ向けて出発した後だった。

 杜狩には、残りの兵をまとめて、帰還するようにという命令が残されていた。しかし、あの長老が周翼と共に船に乗ったと聞いて、杜狩は周翼のその意図するところに思い至った。


 杜狩は丸一日掛かる撤収作業を半日で終わらせて、すぐに船を出した。兵を交代で休ませて、夜も停泊せずに船を進めた。そうして、三日ほどあった先発隊との差を、月天落に着く頃には追いついた。




 天河を渡った先の平原に、天幕が張られていた。都からの使者が、李炎と面会しているというその現場に、杜狩は構わず踏み込んだ。


 その刹那、耳に嫌な音が聞こえた。

 人の倒れる音がそれに続く。


 見れば、縄を掛けられた覡霞の体が、そこに倒れていた。その首はあるべき所にはなく、赤い弧線を描きながら、李炎の座っているその足元へ転がって行く。覡霞の傍らには、周翼が血刀を下げて佇んでいた。周翼が気配に気づいて、杜狩の方を見た。杜狩はいた堪れなくなって、そのまま天幕を飛び出して来た。


 人を殺めた者の顔を初めて見た――

 そういう事を、平然とやってのける周翼に、杜狩は畏れの様なものを感じた。その優しい顔立ちと、温和な性格そのままの周翼しか知らない杜狩にとってみれば、冷徹な武人としての顔を持つ周翼は、到底、受け入れる事のできない存在であったのだ。


 思えば、これまで自分は河南という安全な場所にいて、戦に赴く人々を見送りながら、戦とは別の世界にいた。死者の数を書類の上で知っていても、それが、実際にどういうものであるのかを理解はしていなかった。甘いと言ってしまえばそれまでだが、これから自分の置かれる世界は、命が簡単にやり取りされる世界なのだと、そういう認識が欠けていたのだ。

 天下を取るという事。即ち、燎宛宮を相手に戦をするということが、どういうことであるのかを、正直考えていなかった。

 周翼もまた、杜狩のそういう甘さに気づいていたのだろう。だから、杜狩には、割りと綺麗な仕事を振って寄越した。そして、汚れ仕事は全て、自分で抱え込んだのだ。それなのに自分は、褒められて、浮かれて、自惚れていた。何と情けない事だろう。



「……若様」

 月天落の野営地の天幕に引きこもって、ぼんやりしていた杜狩は、その声に現実に引き戻された。そこに心配そうに様子を伺う楓弥の顔があった。押しつぶされそうだった感情が、ふと緩んで楽になる。思わす涙ぐんだ自分に、杜狩は慌てて涙を拭った。

「大丈夫ですか?」

「ああ……」

 楓弥の手が杜狩の頬に触れる。

「周翼様が……杜狩は大丈夫かと、ご心配していらっしゃいましたよ」

「周翼様が?」

「屋敷に使いの者が来て、あなたを迎えにいってやってくれと、そう」

「……」

「新婚なのに、忙しい思いをさせて済まなかった。しばらくはゆっくりしていて構わないからと……」

「……情けないな、俺は」

 あんな事の後で、周翼に気まで使わせて、一体自分は何様なのか。

「俺は、断じて……あんなことをさせる為に、周翼様を連れ戻しに行ったのではないんだ……それなのに……辛いばかりの役目を負わせるばかりで……俺は……」

「人には、それぞれ本分というものがあるのです。周翼様は、全て納得の上で、ご自分の役目をまっとうなさっておいでです」

「でも……俺は……」

 楓弥がそっと杜狩を抱き締めた。

「若様は、今のままの若様で構わないのですよ」

「……」

「楓弥は、そんな若様が好きなのですから」

「……こんな情けない俺でもか?」

 本当に情けない顔をして、杜狩が楓弥を見る。楓弥は思わず苦笑する。


 正直に言えば、楓弥的には、若様がそんな風に悩んでいる様も好きなのだが、やはりが見ていて一番楽しいのであろう、という結論に達して、続けて言った。

「……そうですね。では、前言は撤回させていただきます。情けないという自覚をお持ちなら、人は、そこから強くなれるものでございますよ。もっと強く……うんと強くなって下さいませ。あなたが守るべきものの為に……」

 楓弥が杜狩の手を取って、その手を自分の腹に当てた。

「守るべきもの……というのは……」

 杜狩が驚いて楓弥の顔を見る。

「落ち込んでいる暇など、ございませんからね」

「お……おお。そうか、そうだな……」

 杜狩の顔にようやく少し笑みが戻る。

「……そうだ、名前」

「はい?」

「まず名前を考えなくてはなるまい」

 玩具を与えられた子供の様な、そのはしゃぎ様に、楓弥は笑いながら呆れ顔で言う。

「流石に、それはまだ、早うございましょう」

 それでも、そんな風に浮かれている杜狩の姿を見るのは、悪い気分ではない。この人は、人を明るい気分にさせてくれる。杜狩には、そういう才がある。


 そして多分、周翼もそんな杜狩を気に入っているのだ。人に恨まれる事を承知で、様々な事の矢面に立たねばならない周翼にしてみれば、そんな杜狩の存在は、きっと心休まるものであるのだろう。




 夕暮れ近い川べりの高台に、周翼が佇んでいた。その瞳は、天を見据え、星を映している。


 楓弥は少し離れた所で、周翼が星見を終えるのを待っていた。柳の柔らかな新芽が、風にゆるやかになびいている。そんな風景を眺めながら、楓弥はどこかで読んだ詩を何となく口ずさんだ。

「……風伯ふうはくのおわしますれば……この想い……」

 言いかけた詩の続きを、周翼の声が継いだ。

「……風に舞いし君に降る花……ですか。恋愛歌ですね」

 星見を終えたらしい周翼が、こちらに歩いて来る。

「……若様のご様子は、いかがです?」

が、ついているのですよ」

「ならば、心配いりませんね」

「ええ、もう。強くならざるを得ないと思いますわ。……そちらはいかがですの?風司の星は」

「色々と考えていたんですが、先刻の詩が、どうやらいい具合にはまった様です」

「風伯の詩が……ですか?」

「ええ。そこから、風伯の計、と。」

「風伯の計……?もしかして、ずっと名前を迷っていらっしゃったんですか?河南の行く末ではなく?」

 呆れた風に言う楓弥に、周翼が笑みを返す。

「進む道はもう、決まってるんですよ。でも、その標となるいい名前が思い浮かばなくて……」

「……男の方って……どうして、そう形から入りたがるものかしら?」

「いや、でも、良い作戦名が付くと、士気が上がるんですよ、実際の話」

「左様でございますか……」

 楓弥は肩をすくめて、夕日を映すおだやかな川面を眺める。途切れなく続く川の流れは、この先も、永遠に続いて行くのだろう。だが、このおだやかな時の流れは、間もなく寸断されようとしている。もう間もなく……


 風伯――風の神の名を頂いたその戦風は、いくつの命を散らして行くのだろう。

 不意に、川面から風が吹き上げて、楓弥の髪を揺らした。その風の思いがけない冷たさに、楓弥は思わず身震いをした。



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