第63話 春の盛りに

 河南から都へ上る街道を行くと、程なく天河にぶつかる。そこには、月影の橋という、天河を渡河する為の橋があったが、それは、先年の秋白湖畔の戦いの折に、麗妃によって落とされてしまっていた。現在、李炎の命で、その再建が進められているが、まだ開通には至っていない。


 さて、そこから、少し上流に遡った所に、月天落げってんらくという小さな村がある。天河を渡って、街道を行く場合、旅人は、現在はこの村から、渡し舟で天河を渡る。元々は、天河で漁を行っていた漁民の村であったが、開戦と同時に、天河に船を浮かべる事が禁じられてしまった為に、村人はこの地を離れ、今は、戦の後で渡しを始めた船頭や、旅人を泊める宿を始めた人々が僅かに住み付いているだけの村だ。



 緩やかに水面を滑っていく船が、前方に月天落の船着場を見つけて、その速度を落とした。ふた月半ほど前に、ここを通った杜狩は、見覚えのある場所に戻って来て、ようやく安堵の表情を浮かべた。


 天望村てんぼうそんからの帰路、周翼は、元来た道を通らずに、あの深い渓谷の底へと下りた。日の光さえも、ほとんど届かず、薄暗く、静寂に支配されている谷底の空気は、ぴんと張り詰めていて、否応無しに緊張させられた。下りたからには、また崖を上らされるのかと、杜狩はげんなりしたが、その思惑は外れ、周翼は谷底の岩の裂け目を辿るような獣道に足を踏み入れた。


 上るよりは楽。と言えばそれまでだが、湿り気を帯び、苔むした滑りやすい岩場を上り下りするというのも、それはそれで難儀ではあるのだ。おまけに、今度は楓弥が同行している。間違っても、無様な真似は出来ない、という緊張感も手伝って、杜狩は大いに神経をすり減らせる事になったのである。

 そうこうしながらも歩き、やがて周翼が足を止めた場所は、泉の湧き出る場所だった。何か畏怖を感じずにはいられない、神聖な雰囲気の場所である。


「ここが、天河の水源です」

 周翼はそう言った。


 他部族との戦で傷を負った李燎牙が、この地に迷い込み、ここで星王と出会ったとされる、伝説の地である。李燎牙は、ここからまず天河一体をその手中に入れ、やがて帝国を作り上るに至ったという話だ。


 周翼は、その泉から流れ出る小川を辿り、沢伝いに山を下って行った。その小川が次第にその流れを広げて、やがて川と呼ぶ程になった所で、村落に辿り着いた。川に堰を築き、幾つもの水車が回っている。それを動力に穀物を脱穀したり、粉にしたりしているのを杜狩はもの珍しそうに見て回った。

 天元てんげんせきと呼ばれるその場所を、書物では知っていたが、実際に見たのは初めてだった。


 そこから船に乗り、彼らは川を下った。ここが天河で、これを下っていくと河南に着く。知識として知っていることでも、実際に目の前にすると、どうも半信半疑にしかならない。河南の会計監査官として、河南の中は隅々まで歩いた。そう自負していた杜狩であるが、一歩、河南の外に出ただけで、こうも知らない事に出くわす事が、何とも歯がゆかった。


 普通に下れば、河南まで、半月余りだという話だったが、川べりに村を見つけると、周翼は船を下り、その周辺を見て歩いたりして、事によっては数日その村に留まったりしていたので、彼らの旅は、ひと月以上にも及んだ。

 川を下る程に、その川幅は広がって行き、川べりの風景も次第に河南のそれになっていく。それでも、本当に自分の進む先に、河南の街があるのか……緩やかな流れに揺られながら、杜狩は心のどこかで、それを信じられないでいた。


 だから、月天落の船着場を目にし、その不安が払拭されて、ようやく自分の住む世界へ……足場の確かな場所へ帰って来たのだと、心底安堵したのである。ここまで来れば、河南までは馬車に揺られて、僅かな距離である。何より地に足の付いている事、そして肌に馴染んだ温かく柔らかい空気に包まれている事に、杜狩は言い様のない幸福感を感じていた。



「もうすっかり春ですよねえ……」

 向かいに座っていた周翼が、そんな杜狩の様子を見て言った。

「え?ああ、そうですね……」

 何も考えずに答えた杜狩の横で、楓弥が肩を震わせて笑いをこらえている。その振動が、杜狩の体に伝わってきた。


……もうすっかり春ですよねえ……


 というのは、もしかして季節の話ではないのか。

「若様、もう少し、締まりのある顔をなさいませんと」

「え?」

「いや……幸せだなぁ……って、まんま顔に書いてあるから」

 周翼が苦笑しつつ言う。その意味するところに気づいて杜狩は顔を赤らめる。

「あのっ。不意打ちで謎掛けとかって、やめて頂けませんか」

「……いや、済まない。お詫びに、後で式の日取りを占って差し上げますよ」

「周翼様っ……」

 杜狩が抗議し掛けた所で、馬車が大きく揺れて急に止まった。気づけばすでに、河南城の城門の前である。


「周翼様……」

 楓弥が外の様子に気づいて、周翼を呼んだ。周翼は軽く頷いて、馬車の外に出る。そこに、李炎を始め、城の者たちが、彼らを出迎えて居並んでいた。月天落から、先触れの使者を送っていたから、それで出迎えに出た様だ。


 周翼が馬車を下りると、李炎が待ちかねた様に走り寄り、満面の笑みを浮かべて、周翼に抱きついた。

「周翼、周翼……よく帰ってきたな」

「李炎様…お待たせして申し訳ございませんでした。ただ今戻りました」

「ああ……よく戻ってくれた。ありがとう……周翼」

「李炎様……」

 少しはにかんだ様にそう言った李炎は、半年前と比べて、背も伸び、随分と大人びた様に見えた。周翼がいない間、一人でこの河南を支えていた。その経験が、李炎を随分大人にした様だ。そして何より、以前にその心の内に抱え込んでいた不安の様なものを、自身が納得する形で消すことが出来た様だった。


「大きくなられましたね……」

「子供扱いはよせ」

「はい。申し訳ございません」

「もう、どこにも行くな、周翼。我らには、遊んでいる暇などないのだからな」

 李炎の言葉に、何か不穏な空気を感じて、周翼はその理由を問う様に、李炎の顔を見た。

「……何か、ございましたか?」

 周翼が問うと、李炎が真剣な顔をして頷いた。

「燎宛宮から、使者が来た。巫族に反乱の気配あり。河南は全軍をもって、これを制圧せよ……だそうだ」

「巫族……討伐……」

 周翼の表情が厳しいものに変わった。

「杜狩、すぐに軍議だ。各所に通達。関係資料をかき集めて、私の部屋まで持って来い」

「はっ」

 周翼の言葉を受けて、杜狩が走っていく。それにつられて、他の者もそれぞれに動き出す。河南の城は、否応無しに、再び戦の空気の中に飲み込まれて行った。



 それから、ひと月後……

 杜狩は再び、船上の人となっていた。



 今度は天河を遡上している。

 河南軍の先陣として、一部の兵を率い、船を連ねて、天元を指して進軍中である。船に乗り込むまでは、目が回る程の忙しさであったが、船が動き出してしまえば、これといってやることがない。楓弥が綿密な指示書を作ってくれたお陰で、杜狩はそれに従って、途中の村に補給の拠点を作りながら、決められた通りに兵を配していけばいい。


 手持ち無沙汰になると、船縁から、天河を眺めるぐらいしかやることがなかった。楓弥は体調がすぐれないというので、今回は河南に残して来た。よって、船上で手持ち無沙汰になると、杜狩はつい楓弥の事など考えてしまうのだ。 

「何、にやけてるんですか?」

 気づけば、横で同じように周翼が船縁に寄りかかって、川面を見ていた。

「……あのっ、ですね。だから、そういう不意打ちは……」

 月天落で、先発する杜狩を、周翼はその桟橋から見送った。その周翼が、隣にいる。それが八卦師というものなのだと理解はしていても、そうそう馴染むものではない。

「……全く、心臓に悪い」

 杜狩のぼやきを、周翼は笑って聞き流す。

「仕事はちゃんとやってますよ。合間にちょっと息抜きしてただけですから」

 杜狩が脇に抱えていた書類の束を周翼に差し出す。周翼は、それにざっと目を通しながら言う。

「別に、さぼっていないか覗きに来た訳じゃないですよ。杜狩殿の完璧な仕事振りには、いつも感心しているんですから」

「それはもしかして、褒めていただいてる?」

「ええ、勿論」

「ま、当然だな」

 杜狩は、満足げにふふんと笑う。


……あのお方、喜怒哀楽が分かり易いでしょう?……褒めれば、子供の様に喜色を露にして、それはもう見るからにご機嫌になるのです。そういう所が、かわいくて堪らないんですのよ……


「……成る程……かわいい、ね」

 周翼は、楓弥が言っていた事を思い出して苦笑する。

「それで?忙しい周翼様が、前線にいらしたのはどうして?」

「ああ……天元に私の客人が来る様なので……」

「客?」

「杜狩殿は天元に兵を上げたら、予定通り、丘陵の上に陣を張って、野営の采配をお願いします」

「そこで、後続の兵を待って、進軍ですね」

「ええ。でも、今回は河南軍の良い演習という事で、済みそうですが……」

「演習……?」

「戦など……そうそうやるべきではないのですよ。特に、この様な無意味な戦はね。今の河南には、兵一人、槍の一本ですら、無駄にできないのですから」

「……はあ。まあ、理屈ではそうですが」

 杜狩が半ば分かった様な、半ば分からない様なという風に相槌を返す。


 周翼が遠くの山並みに視線を移す。つられて杜狩もその白い頂を眺める。そのどこかにある、あの村での事を思い出す。八卦師という不思議な力を持つ者と、どのようにして戦うのか。杜狩には見当もつかない事であるが、周翼の中では、もうその答えは出ている様だった。


 天元で彼らを待っていたのは、一人の老人だった。

 杜狩はその顔に覚えがあった。巫族の村で長老と呼ばれていた覡霞げきかであった。




 部屋の中に二人きりで、覡霞と向かい合って座った周翼は、無言のまま、机に額づく様に、ただ頭を下げた。

「……この命が、残り少ない事は、すでに定まっていた事。その最期に、巫族の為にこれを使えるは、本望というものじゃ……顔を上げよ、周翼」

 促されて、僅かに顔を上げた周翼の目からは、涙が止めどなく溢れだしている。

「……申し訳……ございません……」

「全てが星の定める所……そなたの気に病む事ではない。周翼。これより先は、巫族の長として、一族を守ることのみを考えよ。それが、そなたの負うべき責と心得よ」

「……はい……お師匠さま……」

「ひとつ、最後にそなたに教えておかねばならない事がある……八卦を用い、人の定めを操るは、人としての心と引き換えになされる事じゃ。しかし周翼……どんなに苦しくても、心を手放してはならぬ……失ってはならぬぞ」

「……はい」

 師匠の言葉をその身に刻む様に、周翼は再び深く頭を下げた。



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