第60話 わが身に巣食う影
棋鶯子は懐から、蓬莱の球を取り出した。金と銀の球を両手に乗せて、寄り添わせる。と……その上へ麗妃が手を重ねた。淡い緑の光が、二つの球を包み込む。
……このままでは、そなたは、黒き影に飲み込まれようぞ。我の力を必要とするならば、その球を我に預けよ……
麗妃の声が脳裏に届いた。棋鶯子は驚いて麗妃の顔を見る。そして、そこに麗妃ではない、別の者の気配を感じた。
「……あなたは……」
言い掛けた棋鶯子は、背後で大きく空気が揺れるのを感じて、振り返る。そこに一陣の風と共に、一人の男が現れた。
「お前は……」
「劉飛殿……」
麗妃が男をそう呼んだのを、棋鶯子は訝しげに見る。先刻の不思議な気配は、すでに麗妃から消えていた。
「お前は、西畔の……蓬莱ならば、返さぬぞ」
そう言って睨み付けた棋鶯子を、劉飛は右の手に拳を作ると、その頭を軽くこつんと叩いた。
「何をする」
「師匠が弟子に泣くほど心配掛けて、どうする」
「何だと?」
「天祥が、泣いてたぞ。お師匠様が誘拐された〜って」
言われて、棋鶯子は決まりの悪そうな顔をする。劉飛はその場に畏まると、深々と頭を垂れた。
「御前をお騒がせいたしまして、誠に申し訳ございません、麗妃様」
「お顔をお上げ下さい、劉飛殿。私はもう何の身分も持たぬ身。その様に畏まらずとも宜しいのですよ」
そう言われて、劉飛はすこしぎこちない風に顔を上げて、麗妃の顔を見た。その瞳が、真っ直ぐに自分を見詰めているのに気づいて、慌てて視線を外す。何の心の準備もしていない所に、こんな形で麗妃と再会してしまった事が、何とも、決まりが悪かった。
天祥から事情を聞いた劉飛は、ともかく棋鶯子を連れ戻す必要があると思い、華梨の八卦でその行方を特定。そしてその八卦によって、棋鶯子のいる場所へ飛ばしてもらったのだが……よりによって、そこが麗妃のいる美水の離宮だったのだ。
多分、華梨は、知っていていて劉飛をここに送り込んだものと思われる。一言言ってくれても良さそうなものだ。
……全く、あのお姫様は〜……
「用はすぐに済む。しばし、そこで待っていろ」
そんな劉飛の心中を知ってか知らずか、棋鶯子の迷惑そうな口調が、彼の場違い感に追い討ちを掛ける。仕方なく、劉飛はそこで棋鶯子の成す事を見ているしかなかった。
棋鶯子は二つの封魔球を、両手で包み込むと、そこに意識を集中する。閉じられた手の間から、光が漏れ出してくる。それを冷静に見据えながら、球を持つ手に力を込めた。刹那、そこから天に向かった光の中に、女の影が浮かび上がる。それは、かつて西畔で助けた羅刹の姿だった。
……我の名は、
そう告げると、その影は棋鶯子の手の中に吸い込まれ消えて行く。棋鶯子が、苦痛に耐える様に、顔を歪めた。やがて、手の中の光が収まって、棋鶯子がそっと手を開くと、そこに僅かに青みがかった水晶の球が一つ乗っていた。
「お前、その手は……」
棋鶯子の開いた手が、火傷でもした様に、赤く腫れ上がっているのに気づいて、劉飛がその手を取って布を巻き始めた。
……構うな、こんなのかすり傷だ……
その台詞を実際に言ったのかどうか……棋鶯子の記憶は、そこからもう曖昧になっている。
「だから、始末書で済ませてくれるって言うんなら、書いちゃえよ。いくら天祥が、宰相の息子だからって、そこまで根回しするのは、大変だったと思うぞ。そういう弟子の気持ちをさ、お前は……」
牢の格子越しに、劉飛が延々と説教をしている。
棋鶯子は、そこで覚醒した。
美水での事は、夢だったのか、と一瞬考えて、懐に手を入れる。手に触れたのは、そこに入れていた筈の蓬莱の球ではなく、薄青い色を帯びた水晶玉だった。
「……どうして、これがここに。これは、麗妃様にお預けして来た筈なのに……」
棋鶯子の呟きに、劉飛が不思議そうな顔をする。
「自分が持っていた方がいいからって、お前が持って来たんじゃないか……覚えてないのか?」
「私たちは、どうやって、ここに戻って来た?」
狐につままれた様な顔をして問う棋鶯子に、劉飛も顔をしかめる。
「……まさか、本当に覚えていないのか?お前が八卦を使って、二人ともここに戻って来たんだぞ。つい、さっきだ」
「……そうか」
自分は、また、何者かに操られたのか。
……このままでは、そなたは、黒き影に飲み込まれようぞ……
黒き影とは、一体何だ。自分の意思の及ばない所で、自分は何かに捕らえられている。棋鶯子はそう確信した。この体を、力を、好き勝手に使っている者がいる。
……冗談ではないぞ……
棋鶯子は唇を噛む。この球に封じたのは、羅刹王だ。その力は計り知れない。そんな大きな力を自分の意思とは別の所で使う訳にはいかない……勝手に使わせる訳にはいかない……
「……済まないが、お前に頼みがある」
「何だ?」
「この封魔球を、預かって貰えぬだろうか」
「封魔球を?八卦師でもない俺が?」
「だから良いのだ。それから、ゆめゆめ、これの封印を解こうとしてはならぬぞ」
「封印を解くったって、中に入ってる羅刹の名前も分からないんじゃ、解きようがないじゃないか」
『名なら、羅綺(らき)だ』
一瞬、別の者の声がした気がした。
「え?」
「封印を解いてはならぬぞ、良いな」
「あ、ああ……分かったけど……」
「守り玉として持っているだけでも、魔よけにはなる。大事に扱えよ」
棋鶯子が劉飛の手に、封魔球を乗せる。手の上に乗せられた封魔球の、その思いがけない存在感の大きさに、劉飛は思わず身震いした。
……何だ、これは……
また、厄介な物を掴まされたかも知れない。そんな気がした。だが、心ではそれを手放したいと思うのに、彼の手は、その力の存在を歓迎するかの様に、その球をしっかりと握り締めていた。
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