第59話 二つの封魔球

 天祥てんしょうは、牢へ下りる薄暗い階段を下りて行く。その入り口にいる看守に僅かばかりの金を渡して、彼は牢の中に入って行った。


 目当ての牢の前に来ると、天祥は小声で中に声を掛けた。

「お師匠様……」

 天祥の声に反応して、格子の向こうの暗がりでうずくまっていた棋鶯子が、ゆっくりと身を起こした。

「具合はどう?」

「大分いい。お前が差し入れてくれた薬が効いた様だ。礼を言う」

 大分いいとは言うものの、顔色などはまだ優れず、やつれた感は否めない。そんな棋鶯子を気遣う様に、天祥が言う。

「いつまでもこんな所にいたら、治るものも治んないよ。始末書を書けば、ここから出してくれるって話は付けたんだからさあ……」

「身に覚えのないものを、始末書など書けるか」

「仕様がないなあ、もう……」

 天祥は、その融通の利かない性格にため息を付いた。



――ひと月程前のことである。

 天祥の八卦の師として、屋敷に招き入れた棋鶯子が、何も言わずに姿を消した。


 梗琳こうりんには、八卦師など気まぐれなものであるから、弟子の面倒など見なくても済む、もっと条件のいい屋敷でも見つけてそちらへ行ったのだろうから、放っておけばいいと言われた。だが、天祥にしてみれば、折角見つけた師匠である。諦め切れずに、つたない星見を駆使して、四苦八苦しながら、ようやくその居場所を付き止めた。突き止めてみれば、何と棋鶯子は、燎宛宮の牢に囚われの身になっていたのだ。


 その数日前に、星見の宮に夜半、八卦師が侵入し、皇宮警備は大騒ぎだったという噂は、近衛の天祥の耳にも届いていた。その下手人として囚われたのが、棋鶯子だったのだ。

 慌てて牢に駆けつけてみれば、棋鶯子は意識のないまま、そこに放置されていた。すぐに薬師の手配をし、手当てをさせたが、棋鶯子が意識を取り戻すまでに、半月もの時間を要した。

 その間、天祥はあちこち奔走して、本人が非を認め、始末書を書くならば、という条件で赦免までも取り付けた。今回ほど、宰相の子息という身分が役に立ったことはない。しかし、ようやく意識の戻った棋鶯子は、始末書を書くことに、頑として首を縦に振らなかったのだ。以来、二人の間で押し問答が続いている。


「あのさ……」

 天祥が何事か言いかけた時、棋鶯子の座っている床面が不意に光を帯びた。そこに、方位陣が記されていく。

「……星換術か」

 棋鶯子が、冷静な声で言う。しかし、まだ体力が回復していない棋鶯子には、八卦は使えない。抗う術もなく、その体は方位陣の中に吸い込まれて行く。

「お師匠さまっ」

 目の前で起きている事に、天祥は慌てるばかりで、なす術が無い。その姿が光に飲み込まれていくのを、呆然と見ているばかりである。棋鶯子の姿が消え、光が消え、再びそこが薄闇に戻って初めて、天祥は事の重大さに気づいて、慌てて牢から飛び出して行った。


 それが本人の意思で行われたのではなくとも、脱獄は有無を言わさず、死罪だ。見つかる前に、棋鶯子を牢に連れ戻さなければならない。外に飛び出してみたはいいが、棋鶯子を連れ戻す術など、天祥に思いつく筈もなかった。走っていた足が次第に歩く速度に変わり、その歩みもやがて止まった。


……どうすればいいんだ……


 ただ、気があせるばかりで、何も思いつかない。天祥は絶望のあまり、その場に座り込んでしまった。


……俺には、何もできないのか……


 自分の無力さに、涙が出てくる。義父の名を使いまくって、自分には何でも出来る様な錯覚をしていた。でもそれは、自分の力ではない。自分は、こんなにも無力だ。絶望に暮れる天祥の上から、不意に懐かしい声がした。


「何やってんだよ、お前、そんな所に座り込んで。腹でも痛いのか?」

 天の助けとは、こういう事をいうのだろう。顔を上げた天祥は、そこに劉飛と華梨が立っているのを見つけた。ちょうど、西畔から帰還し、天海にその報告をしに来た二人である。

「兄さんっ」

 久しぶりに会った義弟が、その顔を涙でぐしゃぐしゃにして、飛びついて来たのを見て、劉飛は、帰った早々に、何か厄介事に出くわしたのだと察して、思わず華梨と顔を見合わせた。




 初めに、風を感じた。

 その風は、潮の香りがした。


 薄暗い牢にひと月近くいた目が、その場の明るさに馴染むまで、棋鶯子は辺りに気配を探りながら、片膝を付いた姿勢で、身を丸めていた。と、潮の香りの中に、覚えのある香の香が混じった。そして……

「棋鶯子……?」

 懐かしい声で、名を呼ばれた。

 棋鶯子は弾かれる様に、その顔を上げた。


「麗妃……さま……」

 目の前に、驚いた顔をして麗妃が佇んでいた。河南の城で別れてから、半年ほどが経っていた。鎧に身を固め、勇ましいばかりの麗妃しか知らない棋鶯子にとって、華美ではないものの、女人服を纏い、化粧をしている麗妃は、何か別の人間の様な気さえする。かつて麗妃から感じていた、何事にも揺ぎ無い強さはもはや感じられず、どこか儚げで、そこからはただ、吹く風に身を任せるばかりの虚無感を感じるだけだった。


「これは驚いたこと。棋鶯子、お前、どうしてここに?」

 自分を見据えたまま、身じろぎ一つしない棋鶯子の傍らに膝を付き、麗妃が優しい声で言う。何でもない言葉の、その音色に棋鶯子の心は癒されていく。


 西畔でのこと、河南でのこと、楊蘭と麗妃の仲睦まじい様を、微笑ましく間近で見ていた幸せな時。ただ、懐かしさが込み上げて来て、棋鶯子の目からは、涙が零れ落ちた。その棋鶯子の涙を、麗妃の細く綺麗な指がそっと拭う。

「そうね。あなたも辛い思いをしたのね……」

 麗妃が棋鶯子をそっと抱き寄せた。その温もりにまた癒されながら、しかし棋鶯子の心には、河南の城で見た幻影が浮かびあがっていた。あの時、楊蘭が命を落とした時、麗妃はその場にいたのだ。麗妃は、その最後を見取った。そして、楊蘭を殺害した者の顔も見ている筈……そう思うと、いたたまれなくなって、棋鶯子は思わず口走っていた。


「麗妃様……楊蘭様は……そのご最期は……」


 棋鶯子の問いに、麗妃は顔を曇らせた。

「楊蘭様がお亡くなりになった時の事は……覚えていないのです。あの日、河南の城で何があったのか……そこだけ切り取られた様に、記憶がないのです。ただ、とても悲しかったという事だけ……それだけを覚えているだけで……」

「……そう……ですか」

 麗妃の記憶がないのなら、楊蘭を殺した者の手掛かりは得られない。棋鶯子は肩を落とした。


「ああ、そうだ。お前に会うことがあったら、渡そうと思っていて……」

 麗妃が懐から皮袋を取り出した。その中から、銀色の封魔球を取り出す。

「これは、伽羅からの?」

「ええ。この地に来てから、伽羅の様子が思わしくなくて。術も上手く使えなくなって、次第に衰弱し始めたものだから。前に、お前が、傷ついた羅刹を助けるのに、封魔球を使ったのを思い出して。これに封じれば、伽羅を癒せるのではないかと思って、球に戻してみたのだけど……」

 封魔球を受け取った棋鶯子が、それを丹念に観察しているのを、麗妃は心配そうに見ている。


 七年前、笙騎しょうきの乱の折、河南落城を知らせる使者として、麗妃は西畔の楊蘭の元にやって来た。数日の滞在の後、麗妃は河南へ帰って行ったのだが、その帰途で、拾い物をしたと言って、途中から引き返し、再び西畔に戻って来たのだ。


 麗妃が拾ったのは、見慣れぬ衣服を纏った、傷だらけの女人だった。その様子に只ならぬものを感じた楊蘭は、城の薬師くすしを呼ばずに、密かに棋鶯子を呼んだ。八卦師であった棋鶯子には、ひと目でそれが羅刹だと分かった。


 体の至るところに深手を負い、随分と衰弱していて、これはもう助からないだろうと思った。何より、その羅刹からは、生命力が感じられない。いかなる理由があるのか、その心は、生きる事を放棄し、ただそのまま消え行くことのみを願っている。そんな状態では、棋鶯子といえども助けようがなかった。


 ただ、棋鶯子ならば何とかしてくれる、という楊蘭と麗妃の期待に応えたくて、棋鶯子は、一計を案じ、その羅刹を封魔球に封じる事にした。


 棋鶯子は、まず、その心のみを一つの球に封じ、そして、心のない体のみをいま一つの球に封じた。

 生きる事を放棄している心は、体を癒すのに邪魔になる。ならば、その心を体から引き抜いて、体とは別に封じれば何とかなるかもしれない。そう考えたのだ。理屈ではそういう事になるのだが、何しろ初めての試みであるから、上手くいくかどうかは分からなかった。


 心を封じた球を、伽羅から

 体を封じた球を、蓬莱ほうらい


 そう名付けて、棋鶯子は、その羅刹をしもべとした。そして、その光に癒しの力があるという天光星を守護に持つ麗妃に、この球を預け、守り玉として肌身離さず持ち歩いてもらう事にしたのだ。


 それから四年の後、楊蘭と共に河南へ行った棋鶯子は、麗妃に預けてあった封魔球を開封してみて驚くことになる。


 そこから出てきたのは、あの羅刹とは別の二人の羅刹の娘であったのだ。

 体を封じた球から現れた蓬莱は、その面差しは元の羅刹に似てはいるが、生まれたばかりの赤子の様に、何の記憶も持っていなかった。

 心を封じた球から現れた伽羅には、冥府の記憶こそあるものの、あの羅刹にまつわる記憶はなかった。


 そうして現れた二人の羅刹であるが、まず、麗妃がこの娘たちを気に入り、楊蘭もまた、この羅刹を麗妃の護衛として側に置きたいと願った為、棋鶯子は麗妃への忠誠を誓う事を条件に、彼女たちをしもべの契約から解き放った。こうして、二人の羅刹娘は、麗妃の側に仕える事になったのである。


 そもそも伽羅は、あの羅刹の心の一部を切り取って生まれたものである。その体を受け継いだであろう蓬莱の影とも言うべき存在なのだ。だから、その本体である蓬莱がいなくては、その存在は希薄になっていく。

 河南にいた時は、麗妃の天光の力が強かったせいで、蓬莱がいなくとも、その存在に揺らぎが出る事はなかったのだろう。だが、今の麗妃には、楊蘭を失った悲しみのせいか、かつてのように、強い力が感じられない。その力の衰退も、伽羅の存在を希薄なものにしていく要因になっているのだろうと思われた。

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