第58話 羅綺のゆくえ

 星陵城せいりょうしょうを望む丘陵に立てられた天幕の中から、華梨は目の前に広がる平原を見ていた。遠くの方で、騎馬が五騎ほど、戯れるようにして疾走している。遠目に見ても、そのうちの一騎だけが動きが違う。その滑らかな人馬一体の動きに見入っていると、横から声が掛かった。


「演習前だっていうのに、あんなに馬を走らせて。あれでは、途中でばててしまうぞ」

 苦笑混じりにそう言いながら、璋翔しょうしょうが天幕に入って来た。

「準備運動だとおっしゃっていましたよ、劉飛様は。まあ……やっている内に、夢中になって、全力疾走になってしまった様ですけれども……」

 華梨が言うと、璋翔が笑う。

「いつまでも、子供っぽさが抜けぬよなあ。しかし、あれの足が速いのは、驪驥りきのお陰かと思っていたが、初めて乗る馬でもあれほどに扱うとはな……うちの精鋭四将が、いとも容易く抜かれおるわ」

「劉飛様は、きっと馬と心を通わせることがお出来になるのですわ」

「心を通わせる……?」

「ええ。先刻も、あのお馬さんに、初対面のご挨拶をなさっていましたもの。今日はよろしくな……から始まって、世間話を色々と」

 それを聞いて、璋翔が吹き出した。

「……いや、失礼。そうか、あいつにそんな才がな……」

 笑いが抜けないまま、璋翔は華梨の隣に腰を下ろした。

「華梨殿のその観察眼も、大したものだな」

「いえ、私などは。まだまだ至らず……」

「周翼は……あれも特別な才を持っていた。だから、あれと御身を比べることなど、せぬ方が良いぞ。うちの参謀共に比べたら、そなたはかなり優秀だ」

「恐れ入ります」

 恐縮して頭を下げた華梨に、璋翔が付け加えて言う。

「世辞ではないぞ。俺は、そういうのは好きではないからな……これを、読ませてもらった」


 璋翔が、部下に書類の束をもって来させた。それは、先日、華梨が提出した演習の計画書である。

車騎兵軍しゃきへいぐんの中心は、しゃと呼ばれる攻城兵器だ。車騎兵軍の騎兵の役目は、第一に、攻略目標である城への道を切り開き、車の設置場所を確保する事。第二には、車を所定の位置に設置するまで、その場所を防衛することだ。その騎兵を、独立して先鋒に使うという事は、普通は考えない」

「はい。通常は、皇騎兵軍こうきへいぐんとの連係がございますから、先鋒は、皇騎兵軍が努めます。しかし、車騎兵軍の騎兵に、今以上の機動力を持たせれば、相手の不意を突く事が出来ます。それに、車騎の騎兵が皇騎と同じ動きをする事で、相手に思いがけない重圧を掛けることが出来ると考えます」

「成る程。理屈は通るが……」

「折角、皇騎の優秀な指揮官がここにいるのですし、璋翔様が皇騎の元帥であられる今ならば、車騎への騎兵の増員もさほど難しくないと存じます」

「ふむ」

「次に戦があるとすれば、恐らくそれは、総力戦となりましょう。そういう状況で、二軍連携という定石を維持するのも、容易たやすいことではこざいません。車騎兵軍が単独で行動する事態というのを、想定しておくのも無駄ではないかと考えます」

「……劉飛なんぞの副官にしておくのは、実に惜しい」

「は?」

「どうだ?俺の副官にならぬか?階級も格段に上がるし、年俸も倍以上にしてやるぞ」


 天幕の前方で、兵士が隊列を組んで行く――それは、華梨が上申した計画書の通りの隊列だ。璋翔はすでに、この演習で華梨の案を試すと決めていたのだ。どうやら璋翔は、気乗りしない風を装って、華梨の考えを聞きだし、その力量を測っていたらしかった。その事に気づいて、華梨は、わざとらしく作った様な笑みを見せ、しとやかぶって答えた。


「まことに光栄なお申し出にございますけど、私は、深窓しんそう育ちでございますので、何分、田舎暮らしは馴染めぬ様ですの……」

「これは、一本取られたな。成る程、噂どおりの面白い姫君だ」


 二人の見ている前で、兵が滑らかに動いていく。この演習で総指揮を執っているのは劉飛だ。前もって渡された兵の記録に目を通してはいるが、実際に兵と顔を合わせ指揮をするのは、今日が初めてである。にも関わらず、劉飛は、中隊、小隊の指揮官に、的確に指示を与え、華梨の計画書にある通りに、きれいに兵を動かしていく。


「さすがに上手いな。役立たずの皇宮警備の兵を用いて、河南の奇襲を阻止しただけの事はある」

「鍛えあげられた車騎の精鋭ですから、ご自分が命じたままに、ああまで迅速に動いてくれるというのが、嬉しいのでしょうね。皇宮警備の兵は、重い、とよく愚痴をこぼしていらっしゃいましたから」

「水を得た魚というのか……いい顔をしているよな」

「……竹は伸びる場所を選ばず、と申しますが、水の合う場所の方が、より高く伸びて行くものかと存じます」

 華梨の言葉に、璋翔が自嘲ぎみに笑う。

「俺も、たいがい子離れ出来てないんだよな。あいつ、側で見ていると、飽きないだろう。だから、つい手元に置いておきたくてな……」

 劉飛の姿を目で追いながら、璋翔が残念そうに呟く。

「璋翔様……」

「劉飛には、西畔領官よりも、皇騎兵軍首位大将の方が似合う。そなたは、そう言いたいのだろう」

「……恐れ入ります」

 華梨の演習計画は、劉飛の長所が余すところ無く発揮される様に、実に上手く作られていた。そして璋翔は、そこから、自分に劉飛の才能を再認識させようという華梨の意図を感じ取っていたのだ。

「で、そもそも宰相閣下のご意向も、そういう事なのだろう?」

「はい」

「ならば、俺がとやかく言う筋ではないよな。茉那まなは残念がるであろうが……いよいよ本腰を入れて、あれの嫁の世話をするのだと張り切っていたからな」

「……」

 どう相槌を打って良いか分からずに、華梨は苦笑する。

「もし、あいつに少しでもその気が起きたら、華梨殿のその智恵を駆使して、尻を叩きまくって、とっととくっ付けてやってくれ」

「……はい。まあ、善処はしてみますが……」

 そう答えるしかない華梨である。

 そういう訳で、僅か半月ほどの滞在で、劉飛と華梨は西畔を後にする事となった。




 絹の海の中で、透けるように白い女体が、物憂げに身を起こした。

 閉じた窓の前に屏風を置かせてもなお、そこから部屋に入り込んでくる明るい春の陽の光を、女は不機嫌そうに見やる。

「……翠狐すいこ

 女が呟くようにその名を呼んだ。

「御前に」

 女が乱れた髪を掻き揚げる間もないうちに、窓を背にして、男が頭を垂れてそこに姿を見せた。


「今朝の朝議はいかがであった……」

「はい、つつがなく……」

「そうか……」

 ため息を付くようにして、言葉を吐き出すと、女はまた、寝所に身を横たえた。

「陛下におかれましては、太后様のご機嫌伺いに参りたいとのお言葉でございましたが……」

「ふふ……」

 翠狐の言葉に、太后は笑みを漏らす。

「見舞いなど、不要じゃ。そなたには、他にやるべきことがあろうと、そう申し伝えよ」

「御意」

「……もう良い。下がりゃ」

 翠狐は無言のまま頭を下げると、そのまま姿を消した。太后は思うにならない体を呪う言葉を呟きながら、精魂尽きた様にまた眠りに落ちて行った。




 自分の部屋に戻った翠狐は、後手に扉を閉じると大きくため息を付いた。そろそろ見切り時かと思う。そもそも彼が、太后に八卦師として仕えていたのは、前宰相蒼羽そううが使っていた八卦師、緋燕ひえんの動向を監視する為だった。


 翠狐は羅刹族の者である。羅刹にある三族の一つ、羅綺らきを王に頂く一族の出である。彼らの王である羅綺が、いわれの無い罪を着せられて、地上へ追放された。その追放劇に加担したのが、今一人の羅刹王、緋燕であるという。羅綺の盟友でもあった緋燕の裏切りは、羅綺の一族に大きな禍根を残した。


 その裏切りによって、緋燕は羅刹王の座を追われたが、羅綺を追放した手柄によって、冥王に取り入り、冥王府でそれなりの地位を得たという話であった。

 ところが、しばらくして、その緋燕が地上にいるという報がもたらされた。そして、翠狐は一族の長老から、その不可解な動向を監視せよとの命を受け、また同時に、地上で消息を絶った羅綺の手掛かりを探すべく地上にやって来たのだ。


 来て見れば、緋燕は宰相の八卦師となり、燎宛宮に入り込んでいた。その目的を探るべく、翠狐もまた八卦師と称し、燎宛宮に入り込んだ。

 やがて、その才を太后に気にいられ、これに仕える事になった。燎宛宮で権勢を誇っていた太后に仕えたことで、翠狐は燎宛宮の情報に明るくなった。


 だが、宰相蒼羽が失脚し、太后の命を受けて河南へ向かった緋燕は消息を絶ち、河南との戦がひと区切り付いて、世の中が平穏になっていくのとは裏腹に、太后が体の不調を訴えて、政の一線から退いてしまい、翠狐の行動は、ごく限られた範囲に限定される様になってしまった。


 緋燕が燎宛宮で何をしようとしていたのかは、今となっては分からない。だが、翠狐が探った限りにおいて、ここに羅綺の手掛かりはなかった。それに太后の状態もあんな具合では、もうここにいる必然もない気がしている。

 この先をどうするか……翠狐は考えながら、両手を開いてそこに水晶球を導き出した。そしてそこに、羅綺の気配が最後に残っていた場所……西畔のその時の星の配置を再現する。


 その時――即ち、七年前の秋の夕刻……


 これまでにも、同じ事を何度も試みてみた。そして、いつもの様に、明るく輝く三つの星がそこに現れるのを見据える。翠狐は、その星の動きを追って、その星が誰のものであるのかを、ずっと調べ続けていた。

 そのうちの一つは、当時西畔の領官であった楊蘭。そして今一つは、その姪に当たる麗妃と分かった。だが、楊蘭の側に常に付き従っていた天暮てんぼの星の主だけが、未だ分からない。恐らく、それは八卦を使う者の星なのだと思う。大抵の八卦師は、自分の正体を他の術者に捕らえられない様に、星に細工を施している。


……羅綺様の手掛かりを握っているとすれば、恐らくこいつなのだがな……


 ふと思い立って、翠狐はその星の現在の位置を占ってみた。前に試した時は、その星は現れなかった。だが今度は、水晶球の中心に、何のためらいも無く、一つの光点が現れた。


……よもや、これは、あの時の天暮か……


 しかも、この燎宛宮にいる。翠狐は肌が粟立つのを感じた。これを美水びすい天光てんこうにぶつけてみれば、あるいは、何か変化をもたらすかもしれない……

 楊蘭はすでにこの世にはいないが、あの時西畔にいた麗妃ならば、今、美水にいる。どういう訳か、この天暮は無防備だ。これならば、捕まえられるかも知れない。翠狐は水晶球を床に置くと、その球を中心に、光の方位陣を描き出した。


「……星換術せいかんじゅつ……東は青龍が示す雷光の道筋、行きし方は、美水、天光の元へ」

 天暮の星を捕らえた水晶球が、吸い込まれるようにして、陣の中に消えていった。

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