第50話 片想いの終わらせ方

 そんな事があって、茉那の結婚話は白紙に戻った。

 事情を知らなかったとはいえ、自分は陵河の心を傷つけた。その思いは、失恋の痛みと共に、茉那の心をずっと苛んでいた。時がその心の痛みを薄めていくまで、ただ、耐えるしかないと、そう思っていた。


 ところが半年ほどして、思いがけず陵河が茉那の元を訪れた。会ったら、まず謝罪したいと思っていた茉那を制して、陵河が彼女に告げたのは、求婚の言葉だった。


「……もう、忘れたと思っていた。あの恋はもう過去のもの。終わったものだと。だが、あの時、莉那様の顔を見て、そうではなかったと気づいた。私は、今でも、莉那様への思いを引きずっている。あの時、その事実を、目の前に突きつけられた。私はすでに兄の嫁である、莉那様への思いをまだ絶ち切れずにいるのだと……」

「その陵河さまが、この私と結婚なさりたいとおっしゃるのは、私に、姉の代わりをせよと、そういう事なのでしょうか……」

 平静を装っていたが、自分の声が震え、上ずっているのを感じた。

「……都合のいい話なのは、承知している。情けない男だと哂ってくれても構わない。だが、こんな愚かな俺を救ってくれるものがあるとすれば、それはこの世で、そなたしかおらぬ……そう思った」


 あれ程までに颯爽としていた陵河の、その憔悴した様子に、心が締め付けられた。その秘めた苦しい胸の内をさらして、今その全てを、こんな自分に委ねようとする。その痛々しい姿に、心を動かされた。


……このお方の心は……こんなにも傷だらけなのだ……


 それを癒してあげたいと。

 ただ、そう思った。


 莉那が陵河さまを愛しているのか、憎んでいるのか、それは分からない。だた、確かな事は、自分がすでに陵河さまを愛してるということ。いつか、陵河さまに心からの笑顔を取り戻してあげられるのなら。それが、自分にしか出来ないというのなら。喜んでその役目を負おう。何よりも、陵河さまを元の陵河さまに戻してあげたい……幸せにして差し上げたいから――そう思った。



 そこまでの大決心をしたにも関わらず、茉那は陵河の中に残っている莉那への思いがどれ程のものか分からずに、時折、訳もなく嫉妬して苦しんだ。そんな自分の暗い思いに疲れた時には、いっそ、莉那という存在がこの世から消えてくれたら、どんなに楽だろうかと、密かに願ったこともあった。


 そして莉那が戦禍に巻き込まれて、助け出された時、安堵と同時に、その生存を疎ましく思う自分を、間違いなく感じたのだ。

 陵河に抱きかかえられていた莉那に、自分は嫉妬していた。陵河が莉那を助けたのは、自分の願いを聞き届けたからではなく、未だその心に莉那への思いを残していたからではないのか。茉那の心は、その時、そんな猜疑心に満たされた。そして、そんな自分の心の醜さに、打ちのめされた。


 だが、そんな茉那の苦しみを鎮めるかの様に、莉那はすでにその心を失っていた。璋鎧と共に、莉那の心は、すでに別の世に旅立ってしまっていたのだ。莉那は、間違いなく璋鎧を愛していた。そう気づいた時、茉那は自分の醜い心が浄化されていく様な気がした。


 自分は陵河さまを愛している――

 ただ、それだけなのだと、気づいた。その心の在り処を問うことなど、無用なのだと。その名を呼べば、返される笑顔。その笑顔の裏に何があるのかなど知る必要などない。ただ、信じていればいい。初めは陽炎のような頼りないものであっても、信じ続ければ、長い時を経て、幸せは確かにそこに根付く。人の気持ちはそうして、移ろっていくものなのだから。



 星陵城落城の時、莉那は身籠っていた。そして正気を取り戻さないまま、鳳花を残し、この世を去った。そして、陵河が鳳花を璋家の嫡子として育てると、そう決めた時、反対はしなかった。茉那もまた、莉那に対する償いの気持ちから、鳳花を自分の子供ではなく、莉那の子供として育てようと決心していたのだから。


「それでね、陵河さまは、鳳花には、飛び切りいい男を娶わせるのだと、はりきっておいでなのですよ」

「それで、劉飛様に白羽の矢を……」

「陵河さまには、元々、劉飛どのを自分の跡継ぎにしようという心積もりがあったのです。でも、璋家の跡目を継ぎ、当主となってしまった今、それは叶わない事になってしまった。だから、璋家の血を引く鳳花どのと、劉飛どのが夫婦になってくれれば……と、そうお考えなのですよ」

「それにしても、鳳花様は御年二歳。お気の早い事ではございますね」

「……それが、親心と言うものでございますよ。血の繋がりはなくとも、劉飛どのは、私たちの息子には違いないのですから。劉飛どのは、あの通り、色恋ごとにはのんびりでございましょう。行く末が心配なのですよ」

「……お察しいたします」

「とは言え……」

 茉那が、華梨の顔を正面から見据える。その目に妙に力の入っているのを感じて、華梨が不審に思う間もなく、茉那が告げる。

「私とて、もう少し早く、孫の顔が見たいと思わなくもないのですよ」

「……?」

「ああいう御仁は、お好みではいらっしゃらない?」

 華梨の反応を伺う様に、茉那がその顔を覗きこむ。その意図を察して、華梨が素っ頓狂な声を上げた。

「私が、ですかっ?」

「あら……動揺するところを見ると、満更、脈なしという訳でもないのかしら?」

「とんでもございません、私は……」

 口ごもった華梨の代わりに、茉那が言う。

「まだ、周翼どのを思い切れないと」

「……茉那様」

「思いを一途に貫き通すのもいいかも知れないけれど、それで、失うものは少なくないわ。私のように、余計な悩みの種を抱え込むこともある」

「……だからと言って、手近なところで、手を打てというのは…」

「失ったものを追いかけ続けているよりは、間違いなく、心穏やかに生きられるわ……人は、それ程強くいられるものではないもの。その様に、自分を追い詰める様な生き方をすべきじゃないと思うのよ」

「……私は……」

「まあ、今すぐにどうという話ではないのですけどね。あの子ももう少し、おなごの扱い方を覚えないとなりませんし……」

 茉那が苦笑混じりに言う。

「……でももし、行き場を失った思いに疲れたら、違う道を選ぶこともできるのだと、それだけは心に留め置くといいわ」


 違う道を選ぶ。その言葉が心に波紋を広げる。考えた事もなかった。

 物心ついた時から、華梨の目は、ずっと周翼を、周翼だけを見ていた。


 思いが通じたと思ったこともあった。

 その心が見えないと悩んだ事もあった。


 そんな長い時を経て、片思いもここまで年季が入ってくると、もう呼吸するのと同じ要領で、周翼という存在は、華梨の心の一部に同化している。


 その思いを信じ続けても、幸せには繋がらないのかも知れない。時にそうして絶望に苛まれることもある。その絶望を憎しみに転化させない為に、心を締め上げている自分が確かにいる。確かに自分は、自分を追い詰めるような生き方をしているのかも知れない……


「……今更どうすれば、この恋を終わらせる事ができるのか……分からないんです。手を伸ばせば、届きそうな気がして、いつまでも、ずるずると……思い切れないんです……」


 手の中の茶碗を揺らしながら、気づけば、華梨はぽつりぽつりとそう呟いていた。

「あら、そんな事」

 茉那がほほほと、明るい声を上げて笑った。

「簡単なことですよ。新しい恋をすれば、いいのです」

 思わず顔を上げた華梨は、満面の笑みを浮かべて自分を見据えている茉那に気づく。

「そういうご心境になられているのなら……ぜひ、うちの劉……」

「いえ、そのお話はっ……」

 詰まるところ、どう話を持って行っても、この話の終着点はそこへ行き着くことになっている。華梨はようやく、その事に気づいた。


……この話術の巧みさは、侮れない……


 世話好きそうなこの璋家の夫人に、思わず心の内をさらけだしてしまった事を、ただ狼狽するばかりの華梨なのであった。




 八卦師がその技を使うと、そこにはしばらくの間、その余波が残る。八卦師が飛空術という瞬間移動の技を滅多に使わないのは、それによって、自らの足跡を辿られるのを避ける為だ。


 占術盤に浮かんだ天暮星を追って西畔へやってきていた周翼は、そこでその痕跡を完全に見失っていた。恐らく、周翼の追っていた八卦師は、その気配を消し、旅人の中に紛れ込んで、何処かへ移動しているのだろう。西畔まで来れば、街道が整備されているから、八卦を使わずとも、普通に旅は出来る。単純に考えれば、ここから都を目指すというのが、常道である。


 薄暗い宿の部屋で、手の中の占術盤を見据えて考え込んでいた周翼は、不意にその平面が波打つような波動を描いたのに気づいた。


……馬鹿な、この街中で、やりあっている者がいるのか……


 その気配を捕らえた場所へ駆けつけた周翼が目にしたものは、無残に破壊された小屋だけだった。その場所から飛空術で、移動した痕跡が幾つか残されている。その跡を、慎重に精査する。


……あの者、天暮を守護に持っているのだとすれば、その術系は、水司と光司…その合わせ業で行くとすると……


 その視線が、東の方へ向く。

「……やはり、都のかたか」

 そう結論を付けて、周翼は宿を引き払い、馬に乗って街道を東へ向かった。だが、街道をしばらくもいかない内に、そこに人だかりのあるのを見つけた。


 盗賊にでも襲われたものか、立派な馬車が街道の脇に引き倒されており、それを、数人の男たちが引き起こそうと懸命に格闘している。それを遠巻きに見物している野次馬たちの後ろを通過しながら、その様子を何げなく見ていると、馬車に描かれている家紋に目が止まった。

「あれは、河南の杜家の……」

 そう思って周翼が辺りを探すと、騒動の渦中から少し離れた木陰の、石の上に呆けた顔をして座り込んでいる杜狩を見つけた。


「杜狩か?」

 周翼が馬を寄せて、馬上から声を掛けると、杜狩が驚いた様に顔をあげた。

「しゅう……よく……様?」

 杜狩は、幻でも見ているかの様に、周翼を見て、数度瞬きをする。それが現実のものであると気づくや、杜狩は弾かれた様に立ち上がり、周翼の馬の手綱を握り締めた。


「ご無事でいらしたのですね」

 その目にはうっすらと、涙さえ浮かんでいる。その様子に、周翼は少し決まりが悪い。この人の良い男を、これ程心配させていたのかと思うと、少し心が痛んだ。

「どうして、この様な所に?」

「どうしてって、周翼様をお迎えに来たのですよ」

「私を迎えに……?」

 周翼が眉をひそめる。

「どうして、私がここにいると……」

「それは、楓弥が……」

 杜狩がそう言ったのを聞いて、周翼が険しい顔になる。

「楓弥が、私の居場所を、突き止めたというのか?」

 周翼は、楓弥が術者であり、何らかの事情によって、その力を封じている事を気づいていた。その楓弥が、自分を探す為に、訳あって封じていたその力を使ったということだ。嫌な予感がした。

「それで、楓弥は、どうしている?」

 そう聞かれて、杜狩の顔が途端に曇る。

「それが……」


 楓弥が姿を消した時の事を聞いて、周翼はため息を漏らす。恐らく楓弥は、杜狩を巻き込まない様にと、自ら姿を消したのだと、察しが付いた。だが、この辺りに、僅かに残っている八卦師の痕跡は、一つや二つではない。楓弥がその者たちに連れ去られたのだと言う事は、容易に想像が出来た。

「……杜狩、馬を用意しろ」

「は?」

「楓弥を迎えに行く」

「行く先が分かるのですか?」

「私は、八卦師だぞ」

 周翼の答えに、杜狩の顔に生気が戻る。杜狩は馬を連れに、急いで走っていった。楓弥の件は、どう考えても、その原因を作ったのは自分だ。捨て置く訳にもいかない。天暮の星は、後回しという事になりそうである。


……この私を、そうしてまでその地に導く。それは、単なる偶然か……それとも誰かの意思なのか……


 周翼は、背後を振り返り、その彼方にある、山頂を白い雪で覆われたままの険しい山脈に目をやった。


 その地は、あの山の奥深くにある。

 それは天望村てんぼうそんという、八卦師の村だった。

 そしてそれは、かつて周翼が、八卦の修行をした場所でもあった。 

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