第49話 茉莉双花(まつりそうか)

 屋敷の中庭には、大きな池があった。その池の中には、いくつもの大きな岩が浮島を見立てて配されており、それはどうやら、秋白湖周辺の地形を模して作られたものの様だった。その浮島には全て橋が掛けられており、順繰りに歩くと、池を余すところなく一周出来るという趣向のものらしかった。


 その浮島の大きいものの一つに、東屋がしつらえてあり、そこにお茶の席が設けられていた。門前の騒々しさから隔絶されたその場所は、水面を渡る風の音さえも聞こえる程の静けさに包まれていた。


「まだ、少し風が寒いですけれど、ちょうど黄梅が見ごろなの。お茶を飲みながら、観梅というのも、宜しいでしょう?」

「見事なものですね」

「広陵は春が遅いので、少しでも早く春を感じたくてね。ここには春の兆しを運んでくれる梅の木が多く植えられているのですよ。白や紅も清楚で好きですけど、私は、この黄梅が一番好き。あの陽の光の色に、春の温もりまでも感じられる気がして……まあ、黄梅とはいっても、あれは正確には梅ではないのですけど」

 話しながら茉那がお茶を注いだ茶器から、芳しい香りが立ち上って来る。

「これは、春の香りでございますね」

 華梨が言うと、茉那が嬉しそうに答える。

「そういう感想は、殿方の口からは聞けませんわ。やはり、女同士のお茶は楽しいわね」

 華梨にすっかり懐いてしまった鳳花が、その横に並んで座っている。その様子をほほえましい感じで見ている茉那の視線が少し影を帯びた。


「……私には、莉那りなという双子の姉がいたのです。仲の良い姉妹で、よくこんな風に、ふたりでお茶を飲みながら、色々な話をしたものなのですよ」

「……」

 茉那を見据えている華梨とは目を合わさず、茉那の目は鳳花を見ていた。

「……鳳花は、莉那の子なのです」

「……莉那さまは……」

「亡くなりました。鳳花を産んで程なく……」


 多分、ずっと長い間、誰かに聞いて欲しかったのだろう。その心の重荷になっているものの事を。だが、その話は、傍目には、仲むつまじく見える夫には、話すことが出来なかった――そういう類の話だ。

 華梨は、敏感にその事を感じ取った。ほとんど初対面の自分が、そんな話を聞いてもいいのか。その話を聞く事に、少しの後ろめたさを感じながら、華梨は、茉那の話に引き込まれていった。




 先の内乱の時、璋家は大公の側に付いた。広陵公のお膝元である西畔の名家なのであるから、それは当然の成り行きだったとも言える。当時、璋翔は、車騎兵軍の元帥に就任したばかりだった。だが、兄が大公の側に立つと言うのならと、その任を辞して郷里へ戻ろうとしたのである。だが、これを兄は認めなかった。


 この戦は、どちらが勝つのか見通しが立たない。万が一、大公軍が破れる事になれば、璋家は断絶してしまうだろう。だから、お前は皇帝の側に立ち、万が一の時には、お前が璋家の名を継ぐ様にと。そう言われたのだ。そうして璋翔は、皇帝軍に留まった。


 だが、兄が大公軍に加わったせいで、璋翔はその忠誠を、目に見える形で示す事を求められた。つまり、広陵攻略の先鋒を命じられたのである。結果、璋翔がその兄の首を取る事で、璋家は辛うじて断絶を免れた。


 こうして璋家の当主になった璋翔であるが、実は、彼は璋家の血筋のものではなかった。璋翔の実の父親は、璋家の先々代当主、璋桓しょうかんに右腕として使えた武人だった。

 天河の戦いの時に、璋桓を守って命を落とし、その子であった陵河は、璋桓に引き取られ、璋家の三男として育てられたのである。以後、陵河は、璋家の人間として生きてきたが、家名を守るためとはいえ、璋家の正当な跡継ぎである兄の命を絶ってしまったことは、璋翔の中で、大きなしこりとして残った。


「陵河様は、ご自分のなされた事に、罪の意識をお持ちなのです。そして私も……」

 茉那が静かな声で言った。


 星陵城落城の折、璋鎧しょうがいの妻、莉那は、奇跡的にその命を救われた。

 莉那は茉那の双子の姉であり、その顔が元帥夫人と同じであったことで、落城の混乱の最中、辛うじて救い出されたのだという。


「……私は、出陣する陵河さまに、莉那の救出を懇願いたしました。そして、その私の願いは聞き届けられました。でも、陵河さまが、ご自身で莉那を抱きかかえて戻って来られた時に、私は、莉那の無事を本 心から喜んで居ない自分に気づいてしまったのです」

「……それは、どういう」

 茉那が遠くを見るようにして呟くように言う。

「陵河さまが、初めに思いを寄せたのは、莉那の方だったのですから……」



 ある宴の折に、陵河が見初めたのは、姉の莉那の方だった。

 多分、初めて男性にそういう思いを寄せられて、莉那の方も、憎からず思っていたのだろうと思う。

 だが、家柄こそ璋家という名家の人間であるが、三男という不確かな境遇で、おまけに自分は正統な璋家の人間ではない。その事を気にしたのか、結局、陵河から求婚の話が出る事はなかった。

 そして程なく、陵河は皇帝軍に士官し都へ上ってしまったのだ。貴族でも、嫡子でない者は、そうして身を立てる必要があったのである。多分、功を立て、ある程度の地位を手にすれば、莉那に結婚を申し込むことが出来ると考えての事だろう。だが、時は待ってはくれなかった。


 それから少しして、莉那は、陵河の兄、璋鎧の元に輿入れすることが決まった。それを抗いもせず受け入れた莉那の真意は分からない。ただ、何の約束もしていない陵河を待ち続ける事は、現実的に考えても難しい話であったのだろうと思う。



 茉那がそんな二人の秘めた恋に気づいたのは、陵河が皇帝軍の中でそれなりの地位を手にし、その結婚話が持ち上がった時の事だった。その頃の陵河は、颯爽とした容姿に加え、武人としても卓越した器量を持ち、またその出世の早さから、姫を持つ貴族の中では、最上級の婿候補として噂に上る人物になっていた。


 陵河は、莉那の嫁ぎ先の璋家の人間であるから、茉那は幾度か顔を合わせたことはあった。実はその時感じた、その人となりに、密かに、憧れの様な感情を抱いていた。

 だから、その陵河の見合い相手として、自分が選ばれたと聞かされた時、その耳を疑いながらも、単純に嬉しく思った。その見合い話は、姉の莉那が璋鎧に強く勧めたのだと言う事は、後になって知った。ただ、その時は、都でも噂の御仁とお見合いということだけで、茉那は舞い上がっていたのだ。



 そのお見合いの前に、莉那が茉那に一つの提案をした。陵河が、双子の自分たちを見分ける事が出来るか、試してみようと言い出したのだ。もし、陵河が、自分たちを見分ける事が出来なければ、この話はなかった事にしようと。そう言った。

 大切な妹を託すのだから、ちゃんと茉那を茉那として見てくれている者でなくては……と。莉那はそう言った。


 その言い分を茉那は素直に納得した。双子として自分達は、いつも一対として見られていた。お付きの者たちも、度々二人を取り違える程に、その容貌は酷似している。だから、自分たちの夫となる者は、自分たちをきちんと見分ける事ができる者でなければ、嫌よね……と、随分と幼い頃から、二人でそういう話をしていたからだ。


 まあ、子供の頃の話はさておき、茉那の心には、ちょっとした好奇心も湧いていた。あの陵河さまが、自分を見分けてくれるという夢想は、実に心地のよいものだったのだ。思い返せば、それほどまでに舞い上がっていた。その時すでに、自分は恋に落ちていたのだろう。

 だから、莉那のその真意を知ることもなく、茉那自身が陵河がこの悪戯に対して、どういう反応をするのか、見て見たいと思ってしまったのだ。


 その時――

 入れ替わった二人を一目見て、陵河は瞬時に眉をひそめた。そして、茉那のふりをして上座に座っていた莉那に向かって、言葉を掛けた。

「随分と、残酷な仕打ちをなさるものですね……」

 ただ一言、それだけを言い捨てて、陵河は帰ってしまった。


 その言葉を聞いた時の、莉那の凍りついた様な顔を見て、茉那はこの二人の間にある、只ならぬ感情に気づいた。そして、悟ったのだ。結ばれなかった恋が、そこにあった事を。その思いは決着を見ぬまま、行く先を失って、二人の心の中に、未ださ迷っているのだと言う事を。


 そしてそこで、莉那の真意に初めて思い至る。莉那は、茉那の見合い話を利用して、陵河の心の在り処を知ろうとしたのだと。その一途な思いがただ怖かった。莉那はもう、自分の知っている莉那ではないのだと、そう感じた。

 

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