第45話 水皇の島
霧の晴れた辺りに、大きな浮島があった。
「あそこが、
そこに近づくにつれ、周翼は空気に違和感を感じた。この島を囲むように、誰かの結界が張られている。その縁をなぞる様に、稜鳳は船を回して、そこから少し離れた小さな浮島に船を付けた。
そこに降り立った稜鳳の後に付いて、周翼も浮島の茂みへ入り込む。稜鳳が用心深く茂みを書き分けていくと、その先に、水鳥の巣があった。そこに親鳥の姿はなく、卵が数個、放置されたままになっていた。稜鳳の言った通り、この卵はもう孵らないだろう。そう思って視線をずらした周翼の目に、茂みの隙間から、先程の島が見えた。何かに引き寄せられる様に、そこに視線を止めた。
……水鳥ではなくて……この男は、これを見ていたのではないか……
「何か、気になりますか?」
横で稜鳳が言った。見る内に、また霧が湧いてきて、島が消えていく。
「……あそこに上陸したことは、ありますか?」
「したいな、とは思うんですがね。あの島には、船を付けられる場所がないんですよ。この天候は水皇の祟りのせいだなんて言う輩がいるものでね、ならば、そこにあると言う、祠でも新築してやろうと思ったんだが……」
成る程、その上陸方法を探して、彼はここへ来たのだ。
「あんな場所に、どうやって祠なんか建てたんだか……っても、そこに祠自体があるのかも、分からないんだけどな」
「え?分からないんですか?」
「ああ。誰も見た事がないものでね。古くから、伝承としてこの地に伝わっているだけで」
「……伝承ですか」
「年寄りに昔話をせがむと、あの島の話が出てくる。あれは、水皇さまの島だから、人間は近づいてはならない、とね」
「……そこに『宝』が?」
周翼の言葉に、稜鳳が苦笑いをする。
「あるのかな……とね。他は全て調べ尽くしてしまったからな」
「宝というのは、この霧を晴らすことの出来る何か……という事ですか?」
「そんなものがあるのなら、ぜひ手に入れてみたいものだがね」
冗談めかして稜鳳が答える。だが、周翼は稜鳳と向き合うと、その目を見据えた。自分の本心を探ろうとするその鋭い視線に、稜鳳は少し戸惑った表情を浮かべる。
「そのためには、八卦師の力が必要だと、そうお考えになったのですね……」
周翼が言うと、稜鳳は自分の心中を見透かされた事に、決まり悪そうに頭を掻いた。
「参ったな……流石は八卦師さま、といった所かな。でも、誤解するなよ。端から、そんな事を考えて、お前さんを助けた訳じゃない。ただ、助けたお礼に、何かをしてもらえるかも……という期待を、全くしていなかったのかと言われると何とも……」
稜鳳は周翼の様子を伺って、諦めた様に言った。
「ああ、止めだ。八卦師相手に、駆け引きなんて、出きっこないんだから。要するに、俺は、岐水の領官だ。だから、この岐水の領民の為になると思えば、何だってする」
稜鳳が勢い良く頭を下げた。
「頼む。お前さんの力を貸してくれ」
周翼の返答を待つように、稜鳳は頭を下げたままだ。
「……あの島に、行ってくればいいんですか?」
確認する様に周翼がそう言った途端に、稜鳳が嬉色に満ちた顔を上げて、その両手を取った。
「行ってくれるか」
「……」
その人の良さそうな顔を見ながら、周翼の頭にある考えが浮かぶ。
……これは……使えるかもしれない……
「……私の力を使う、というのであれば、そう安いものではないのですよ。命を助けて頂いたお礼の分、割り引くとしても、あなたには大きな借りが出来ます。いずれ、それを返して頂くことになりますが、それでも構いませんか?」
「……随分と吹っ掛けるもんだな」
周翼の言い様に、稜鳳が呆れ顔をする。
「当然です。私は、その辺の八卦師とは訳が違うんですよ。匠師の称号を持っているのですから」
「……匠師!?……まじかよ」
この少年は、この年で、八卦師の最高の称号を持っているのか。目の前の少年の中に、何か得体の知れないものを感じて、稜鳳は思わず身震いをした。
……俺は、一体、誰と話をしているんだ……
「……俺なんかに返せるのか、その借りを」
呆然としている稜鳳に、周翼がにこやかに言う。
「そんなに大げさになものでは、ありませんよ。いずれ河南の李炎様の為に、働いていただく。それだけです」
……大げさじゃないって、それって燎宛宮を裏切れって、ことだろう……
稜鳳は、周翼の顔を見る。選ぶのは、俺ってことか。稜鳳は唾を飲み込んだ。
……子猫だと思ったら、獅子の子を拾っちまったってことか……
この威圧感は、半端ではない。その気に押さえつけられる様に、稜鳳はそこに跪いて頭を垂れた。
「この身不肖ながら、河南の為に、働かせて頂きます」
そこで出会ってしまったのだから、その星に手を伸ばしてしまったのだから、それが自分に示された道なのだろう。そう思った。
周翼は茂みの外に出て、少し開けた場所に立った。両手を広げて地に向ける。そこから流れ出る気が地面に光の方位陣を描いた。その小さな陣の中に、水皇の島の気配を取りこむ。そこに絡み付いている結界の呪文を一つずつ丁寧に解体していく。しかし、幾重にも張り巡らされた結界は、複雑に絡み合い、なかなかその全容を見せない。
……随分と厳重だな……一体、誰が、何を封じた……
中身が分からない以上、下手に開封は出来ない。
……隙間を開けて、気だけを飛ばすか……
周翼は体をそこに残したまま、心だけを結界の中に潜り込ませた。
――空気が重かった。
湿り気を帯びて、上から圧し掛かってくる様な嫌な気配を感じた。何かに見張られている様な、そんな気がした。
先に進むと、朽ちかけた祠があった。
その前に、人影があった。
見ているとその人影は、祠の封印を解いて、中から光の塊を取り出した。
……あれは光玉……こいつは八卦師か……
光玉を手にしたその八卦師の姿が、不意にぼやけた。黒い霞がその人物に纏わる様に、その体を取りこんでいく。その黒い霞の中から、不意に何者かの顔が現れて、周翼を見て
目を開けると、目の前に稜鳳の心配そうな顔があった。
「大丈夫か?」
気遣う様に言われて、周翼は自分が額に汗を滲ませている事に気づいた。
体中から力が抜けていく。膝が折れ、周翼は手を付いて、その場に座り込んだ。寒気を感じる。自分の意思に反して、体が小刻みに震えている。
……わたしは何を見た……
あの気配は星王の気配。
水皇――それは、水を司る星王ということか……ならば、あれは黒星王――
「おい……」
稜鳳が慌てて膝を付き、その手を周翼の肩に乗せた。その手に触れられて、周翼は我を取り戻す。そしてようやく、その震えが収まった。
「もう大丈夫だ」
周翼は動揺を振り払う様に、無理矢理やり立ち上がった。
「顔色が良くないな……また寝込む羽目になったら、琳鈴に大目玉だぞ。周翼様にご無理をさせてって……」
稜鳳がそういう横で、周翼は島に張られていた結界が消えていくのを感じていた。結界に守られていたものが、持ち主の手に戻ったという事なのだろう。
「……島の奥に、祠があります。もう崩れ落ちそうになっていますから、建て替えをなさって下さい。島の南側に、木が倒れ掛かって、湖面に張り出している場所があります。そこを足がかりにすれば、島へ上れます」
「あ……ああ」
ほんの一時、この場所に佇んでいただけで、それだけの情報を得た周翼の力を、稜鳳は改めて凄いと感じた。先刻、半ば強制的に服従を言われたが、この者の側にいれば、何か凄いものが見られるのではないか……稜鳳の心に、そんな好奇心が湧いた。
「……この霧も、次第に晴れてくるでしょう」
周翼が白い空を仰ぎ見て言う。
「やっぱり凄いな、匠師ってのは……」
稜鳳の言葉に、周翼が複雑な顔をする。
「私は何もしていません。ただ……時が満ちて、星が動いた。それだけです。だから、あなたからお礼を頂く訳にはいかなくなってしまいました」
その言葉に稜鳳が笑う。
「お前が虚勢を張って悪ぶっていても、根は正直なんだって、よく分かった。安心しろ。借りはきっと返す」
「でも……」
「俺が、お前さんを気に入ったって、言ってんだ。お前になら、手駒として使われるのも悪くない」
周翼が驚いたように目を見開く。
「遠慮なんかしている場合じゃないぞ。欲しい物は、欲しい。俺みたいに、見つけたらすぐ拾っとかなきゃ、他の誰かが拾っちゃうぞ。天下を取るんだろ?そのぐらい貪欲に行け」
「稜鳳殿……」
「俺が駒に欲しいなら、そう言え。欲しいのか、欲しくないのか、どっちだ?」
稜鳳が、周翼の顔を覗き込んだ。
「……欲しい、です」
「上等だ」
周翼の答えに、稜鳳が豪快に笑った。
周翼は、夜明け近くに目を覚ました。何気なく見やった窓の外に、星空が見えた。岐水に来て、夜に星が見えたのは、初めての事である。久しぶりに見る星たちに、心臓が高鳴った。
……愛しいものに出会う様な気分……とでも言うのか……
周翼はそんな自分を笑った。自分はこんなにも、八卦に取り憑かれている。忘れようとしても、あいまみえれば、こんなにもわくわくしている。
所詮、捨てられはしないのだ。八卦に魅入られてしまった時から、その術を使う快感を覚えてしまってから、それを手放すことなど、もう出来ないと、自分でも分かっている。
吐息混じりに、天の星の輝きを見詰める。見慣れた北天七曜星をその瞳に映す。その煌きの中に、
「久しぶりの逢瀬だというのに、これは、手厳しいな……」
普段はほとんど見る事のない
……やはり、あの時の気配は……
天暮星……それは、水司の黒星王の支配する星である。黒星王は、冥王の異名を持つ星王でもある。あの星王が動き出し、この地上に干渉するというのなら、周翼もこんな所でのんびりしている訳にはいかない。
周翼が両の手のひらを上に向けると、その手の中に、小さな占術盤が浮かび上がった。黒い星が輝くその場所を見据える。
「ここより北西の方……西畔の方角か」
何かが、始まろうとしている。
天暮星という凶星を送りつけられては、周翼も、その重い腰を上げざるを得ない。
「分かりました。動け、というのですね」
天を仰いで呟く。
これは、藍星王からの催促だ。
それにしても、よりによって、天暮星とは。
「……全く、容赦がない」
さぼった分の埋め合わせは、大変そうだ。周翼は自嘲気味に哂う。その顔を、切れた雲の合い間から差し込んできた朝の光が照らし出す。
十日に一度の晴れ日。
これが出立の、ささやかな
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