第44話 霧の中で
新しい河南領官は、
湖水からの返書を持って戻った
李炎は、棋鶯子が初めて出会った楊蘭と年の頃は同じであり、同じように君主の器を持っていると感じはしたが、棋鶯子は、この新しい領官の元で働きたいとは思わなかった。理由は分からないが、心が動かなかった。
棋鶯子は、楊蘭が息を引き取ったという私室に足を踏み入れた。事件からふた月が経っていた。楊蘭の遺体はすでに埋葬された後で、そこで流された血の痕跡も跡形もなく拭い去られていた。
自分の中の、何か大切なものを失った。事件の痕跡が消され、綺麗に整えられた部屋を無感動に眺めながら、そんな事を思った。
心の奥に疼く悲しみも、時が経てば次第に薄らいでいくのを知っている。失ったものを忘れたくない。そんな衝動が込み上げてきた。
……楊蘭様のお顔を……お声を……あの笑顔を……忘れたくはない……
決して忘れない様に、この気持ちを心に繋ぎ止める。それには、心に焼印を押さねばならない。楊蘭様の受けた苦しみを、この身に刻み込むのだ。そんな思いに囚えられた。
「……第八の奥義……星操術」
強い思いに引き摺られる様に、そう、呟いていた。
そんな力があるとは思っていなかった。光玉も持たない自分に……だが、棋鶯子の声と共に、空中に八卦の占術盤が浮かび、その中央に、漆黒の星がゆらりと現れた。棋鶯子は、夢中でその星を捕まえる様に両の手で包み込んだ。何かに突き動かされる様に、思いを更に強め、念じた。
……わが身が宿す、この天暮の星に誓って……あなた様の受けた苦しみを、この身に……
目の前に、幻影が現れる。
血にまみれて床に付す、楊蘭の姿が見えた。麗妃と伽羅が血刀を下げた男を相手に戦っているのが見えた。だが、麗妃たちの姿は鮮明に見えるものの、男の姿は、霞がかけられた様に、ぼやけてはっきりとしない。麗妃の剣が男を両断した。だが、男を捕らえるには至らない……
「あの者が楊蘭様を……」
そう呟いた瞬間、楊蘭が男の剣に刺し貫かれる幻影が浮かび、体に衝撃が来た。
「……っ」
棋鶯子はその苦痛を耐える様に唇を噛んだ。この身に宿る星に、この痛みを刻み込むのだ。その痛みと共に、楊蘭の思念が流れ込んでくる。果たせなかった思い。後に残していく者への心残り。それらが混然となって棋鶯子の中に流れ込む。その無念を感じ取った時に、棋鶯子の心は決まった。
……楊蘭様の仇を討つ……
痛みが体に馴染むまで、棋鶯子は息を止めてその場にうずくまっていた。やがて、その痛みを体の中に押し込めてしまうと、大きく息を付いた。その時ふと、そこに残る僅かな気配を感じ取った。そっと、楊蘭が倒れていた場所に手を伸ばす。八卦師としての棋鶯子が、そこに何か異質なものの痕跡を感じた。
……これは……水……の気配……か……
楊蘭を殺したあの八卦師は、水に守られている。この感覚には、覚えがある。そう、子供の頃に……棋鶯子は遠い記憶を辿った。父と共に訪れた
「……秋白湖の……岐水に近い……浮島……」
――そう思った。
棋鶯子は身を起こした。痛みも血の匂いも、体の中に押し込めたのを確認して、立ち上がった。
枯れ枝を拾い上げると、湖畔のぬかるんだ土の上に、いつもの様に方位陣を描く。その中央に立ち、陣の上に手をかざす。そこに自分の守護星である、天暮星を司る神を祀る祠の場所を探る。
以前には感じなかった大きな力が、この湖一帯を包み込んでいる。誰かの結界が幾重にも張り巡らされている。かつて光玉を封じた祠は、この霧の奥深くに隠されて、その所在が良く分からないのだ。棋鶯子は、この湖畔の小屋で、こんな風にもう数ヶ月もその在り処を探っていた。
ふと、その指先に、微かな気の変化を感じた。堅く閉じた結界のどこかに、綻びが生じている。その綻びの隙間から、懐かしい光玉の気配が漏れ出てくるのを感じた。その場所に意識を集中した。脳裏に何か光るものを感じた。
「……飛空術。わが身の分身……光玉の元へ」
棋鶯子の体は、その呟きと共に目指す所へ移動した。
霧が晴れていく。
桟橋に立つ周翼は、風に押しやられて、次々に遠のいていく霧を見ていた。
「予報が外れましたな」
背後で稜鳳の声がして、周翼は振り返った。
「風を読むのは、なかなか難しい……この分だと、逆に昼過ぎから曇りそうです」
言いながら稜鳳が小船に飛び乗って、手を差し出した。その手を取って、周翼は用心深く船縁に足を乗せる。船が周翼の重みに、傾ぐ。傾いだ方とは逆の方に反動を付けて、周翼は船の中へ下りた。稜鳳に促されるままに、後方に腰を下ろす。それを確認して、稜鳳が竿で桟橋を押しやった。
小船がゆるりと湖面に滑り出す。薄くなった霧の中に、幾つもの小さな浮島が浮かんでは消えていく。稜鳳は、前方が見えない事など気にも止めずに、正確に小船を操って進んでいく。
「……見事なものですね。まるで、この湖の地図が頭の中に入っている様だ」
周翼がそう言うと、稜鳳が肩越しに振り返って笑った。
「子どもの頃からの、遊び場でしたからね。昔はこんなに霧も出なかったし……」
稜鳳が遠くを見る様な目をした。
そもそも岐水は霧の多い村ではあったが、稜鳳が官吏となって都に行く前までは、ここまでひどくはなかったのだという。だが、仕事の多忙を理由に、彼の足が郷里から遠のいていた数年の間に、事態は一変していた。
霧に封じ込められ、領民の暮らしが困窮していく中で、岐水領官であった父、
あげく、この天候不順の原因は、この湖の守護神である水皇の祭礼を正しく執り行わなかった稜順にあるという風評まで流れて、稜順は失意の内に病没した。
その父の無念を晴らす為に、稜鳳は都での官吏の道を捨て、この岐水領官の職を志願したのである。すでに、岐水は面倒な事になっているという噂が都にまで届いており、この地への赴任を希望する者など他になかったから、程なく、稜鳳は岐水領官を拝命して帰郷した。
新しい領官が来たからと言って、湖の霧は晴れる事はなかったが、湖の地理を知り尽くしている稜鳳の指揮の元、湖での漁が再開されて、領民の暮らしは困窮を抜け出して落ち着いた。稜順の不名誉な噂は、その息子、稜鳳の働きにより払拭された。
以来、稜鳳は、宝探しと称して、湖の探索を日課にしている。
周翼がここに逗留していた間に、聞きかじった話を繋ぎ合わせると、そういう事らしい。
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