第43話 天暮を宿す者

 胸を剣で刺し貫かれる夢を見て、目が覚めた。


 目を覚ましてもなお、生臭い血の匂いが体に纏わり付いている。鶯子おうしは吐き気を押さえて、水辺へ走った。


……気持ち悪い……


 その不快感から逃れる様に、躊躇いもなく水の中に足を踏み入れる。腰の辺りまで水に浸かり、両の手で水をすくい上げては体に浴びせた。

 まだ初春の湖の水は、氷の様に冷たかったが、その冷たさが血の穢れを削ぎ落としてくれる様な気がした。その感覚にすがる様に、無心に体を洗った。


 やがて、体中が冷気で麻痺してしまうと、棋鶯子はようやくのろのろと岸辺に戻り、その場に倒れこんだ。

 ここは秋白湖の湖岸である。天は、棋鶯子をそこに封じ込めようとしているかの様に、白く重い霧に塗りこめられていた。


――誓いを立てた。

 あの血の匂いを忘れないという。


 その誓いを忘れない様に、時折こうして、あの時の血の匂いを体に纏う。これは、自らが課した戒めである。

 因縁深き天暮てんぼの星を、その内に宿す、忌わしいこの身を戒める為に。そして、その心に宿った憎しみと、復讐の為に……

「……楊蘭ようらんさま……」

 その名を口にすると、悲しみが溢れだしてくる。棋鶯子は白い天を仰ぎながら、その悲しみに身を委ねて、ただ涙を流した。




 棋鶯子が楊蘭に出会ったのは、六年前のことである。彼女が九つの年だった。


 父である棋扇ぎせんが、西畔領官であった楊蘭に八卦師として仕えた。その父に同行して、棋鶯子も楊蘭の居城、星陵城せいりょうじょうに出入りする様になった。


 その頃の楊蘭は、病気がちなせいで肌は透ける様に白く、痩せて小柄な少年だった。その美貌のせいもあって、初対面でと言いのけた棋鶯子に、楊蘭は面白そうに声を上げて笑った。


 皇帝の第四皇子という立場と、その健康状態から、彼の周りには、常に彼に気を配る大人たちが大勢控えており、当然のことながら、こんな無礼な事をいう人間は一人としていなかった。でも、そのことがきっかけになり、棋鶯子は皇子の話し相手として、城に出入りする事を許される事になった。それまで常に大人に囲まれて暮らしていた楊蘭には、棋鶯子という子供の存在が、無防備な自分をさらけ出せる、唯一、かけがえのないものとなった様だった。


 ところで、父から、楊蘭様のお声掛かりでお前は楊蘭様に小姓としてお仕えする事になった、と言われた時、実は、棋鶯子は頭を抱えた。自分の軽口を死ぬ程後悔もした。日がな一日、あのなよなよとした女の子の様な皇子様のお相手をしなければならない。そう考えただけで、気分はどこまでも深い穴の中に堕ちていった。


 おまけに、楊蘭に仕える為に、八卦師として修行を始めてからずっと肌身離さず持っていた光玉ひかりだまを封じると言われた。

 お前の持つ力は大きすぎて、楊蘭様にあだをなすことがあるかも知れないからと。八卦の師でもあった父の言葉には逆らえなかった。棋鶯子は、渋々光玉を手放した。自分の八卦師としての力が目に見えて落ちた事に、すぐに気づいた。その事が無性に悔しかった。今まで苦しい修行を耐えてきたのは、ただ目指す高みに上りつめる為だ。


 自分は天暮星という、類まれな星を持って生まれた。八卦師として、唯一、八奥義を極める事が出来ると言われる、特別な星を持って。だから、物心ついた時から、その高みを目指した。


 自分にはその力がある。

 その資格があるのだ。

 自分は選ばれた人間なのだから……と。


 それなのに、その高みを目指す道を閉ざされた。そう思った。あんな皇子さまの相手をしなければならないせいでだ。ただただ、憂鬱だった。


 だが、そんな憂鬱な気分は、初登城の日にすぐに吹き飛んてしまった。城へ上がった棋鶯子は、西畔領官として楊蘭が大人の官吏たちと、堂々と渡りあう様を目の当たりにして、このお方は、唯の置物の皇子様ではないと、そう悟ったのだ。


 楊蘭に仕えるうちに、病弱な事を除けば、彼は実に聡明で何事にも良く気が回り、心根は優しく、下の者にも気配りの出来る、そんな大きな器を持っているのだということが分かった。そして何より、自分だけに時折見せる、その無防備な笑顔に棋鶯子は少しずつ心を奪われていった。


――初恋だった。


 棋鶯子が光玉を封じなければならなかった本当の理由を知ったのは、星陵城の戦の前夜の事だった。父、棋扇から告げられたその理由に、棋鶯子はただ動揺した。


 棋鶯子の持つ天暮星は、終焉しゅうえん、傾斜の意味を持つ凶星。この星を手にした者は、全てを失うという暗示を持つ星である。だが反面、この星を司る黒星王が冥府の王であることから、人の心を、また生死を操るという操星術そうせいじゅつを使う事が出来るという星でもある。その星自体に大きな力がある。


 実はその力を楊蘭は望んだのだと、父はそう言った。何も出来ずに、ただ自身の弱さを嘆く長き人生よりも、ほんの一時でもいい。自分の大切なものを、自分の手で守りたい。その為に、大きな力が欲しい。そう望んで、棋鶯子を側に置いたのだと。光玉を封じ、棋鶯子の力を削いだのは、楊蘭様に及ぶ、天暮星の凶気を少しでも弱めようとしたのだと。


「……だが、その星の力を御する事は容易ではなかった」

 父はそう言って、その顔に皮肉を込めた笑みを浮かべた。

「この城は、落ちる」

 父の言に、棋鶯子は言葉を失った。天暮に関わったものは、必ず終焉に向かう。その力と引き換えに、大切なものを失う。その宿命からは逃れられないのだ。それが、父の遺言ともなった。

 自分のせいで、楊蘭様に危害が及ぶ。その事実に棋鶯子は愕然とした。



 星陵城が落ちて、楊蘭が河南へ逃げ延びた後、棋鶯子は楊蘭に暇乞いとまごいを申し出た。このまま自分が側にいては、楊蘭の命までも危うくなる――そう思ったのだ。だが、楊蘭はその首を縦に振りはしなかった。


「棋鶯子、私にはお前が必要だ。この戦の劣勢を覆すには、お前のその力が必要なのだ……」


 その瞳に秘められた決意に、棋鶯子は、楊蘭は全てを承知で……自らの命を掛けているのだと知った。


「私は幼い頃より、色々な才に恵まれながら、病弱であるせいで、何一つ成し得る事ができなかった。その無念さともう決別したいのだ。この先、私の身に何があろうとも、お前は気に病んではいけないよ。この運命は、私が自分で選んだのだから」


 そういって穏やかな微笑みを見せた楊蘭に、棋鶯子はただ、頭を垂れるしかなかった。


……楊蘭様のお役に立とう……


 その時、そう決心した。そのお心のままに。ただお側に。この棋鶯子が、必ず楊蘭様をお守りするのだと。そう心に誓った。そして亡き父に代わって、今度は八卦師として仕え、身動きのままならない楊蘭の手足となって働いた。


 あの時も、棋鶯子は楊蘭の命で、南の辺境の湖水こすいへ親書を届けに行っていたのだ。その旅の途上で、棋鶯子は楊蘭暗殺の噂を聞いた。

 噂が間違いである事を願いながら河南へ取って返した棋鶯子は、楊蘭が闇の手の者に惨殺されたのだと知り、言葉を失った。自分が側に付いていれば、こんな事にはならなかった。運命はその手をすり抜けて、棋鶯子から楊蘭を奪い去って行った。

 天暮星という宿命の重さに打ちのめされた。


……その星の力を御する事は容易ではない……


 父の残した言葉が、心に突き刺さった。自分の力が足りなかったのだ。星を御し切れなかった。後悔と無力さに心が締め付けられた。

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