第六話 森ノ宮家の事情(7/29)
1.花言葉
「お花が届きました」
いつものように午前のティータイムを楽しんでいる櫻子の元に、安岡がやってきた。
すでに花瓶に活けられた花はスターチス。紫色やピンクなどの色とりどりな綺麗な花だ。
「見たくないわ」
白い夏向きのガーゼ地のワンピースは、櫻子をより幼く見せた。
もういつでも総次郎のもとに嫁いでいける年齢になったというのに、こうして座っている姿はまるで中学生のようだ。
「では、処分させていただきます」
安岡は頭を下げ、抱えてきた花瓶をそのまま抱いて回れ右をした。
あの日から毎日欠かさず届くスターチスの花束は、総次郎が手ずから持って来たものだ。
忙しいはずなのに、必ず早朝、他の誰にも見られない時間帯にやってきて、安岡に手渡して帰る。
処分、と言いながら、これだけ立派なものだ。お嬢様の目に届かないところに飾るよう、うたたでないメイドに指示している。
うたたに渡したら間違いなく、即焼却炉行きだろう。
「安岡」
扉を開けようとしたところで櫻子に呼び止められた。
櫻子がこうと決めたことを気が変わって撤回することは滅多にない。
とすると、他の用事か、相談だろう。
「はい、なんでございましょう」
「……あの馬鹿は何しに来ているの」
櫻子の言葉に安岡は頭を傾げた。
「はて」
「知らないとでも思っているの? 毎日あの馬鹿の車が入ってきているのを知っているのよ」
「はい、左様で」
「……花を持ってきているだけじゃないのでしょう」
「いえ、花をお持ちになってそのままおかえりになられておりますが」
「っ……婚約は破棄したはずよ。何をしに来ているのよ」
「花をお届けくださっているだけです。婚約破棄については両家双方の合意が必要とのことで、まだ交渉の日取りも決まっておりません」
「な……」
櫻子の視線が揺れた。
あの日のことは安岡はうたたから聞いただけだが、肝心の時に緊急の事案が割り込んだ結果、決定的な話にまでは至っていないと理解している。
安岡は櫻子をじっと観察する。幼い頃から見知っている櫻子のこと、ほんの少しの仕草も読み取れる。
「……お祖父様に連絡して」
それは、伝家の宝刀である。
両家の婚約については櫻子の祖父である森ノ宮剛三の強い勧めがあったからであり、彼がだめだといえばこの縁談は壊れる。
「本当によろしいので?」
「……今回の件は決定的な裏切りじゃないの」
「承知いたしました。大旦那様に連絡を取ってみます。ただ、つい先日からアルファリの方へご旅行中ですので、少しお時間がかかるかと思いますが」
「……構わないわ」
櫻子の細い指がティーカップを持ち上げる。
安岡はこっそりとため息を吐いたのち、口を開いた。
「お嬢様はスターチスの花言葉をご存知ですか?」
「いいえ、知らないわ」
「そうですか。……僭越ながら、一度調べられることをお勧めいたします。では失礼いたします」
そう告げて、深々と腰を折ると安岡は今度こそ部屋を出ていった。
◇◇◇◇
安岡が出ていってしばらくして、うたたが入ってきた。
だが、櫻子はうたたに気がつかないようで、じっと展開したモニターを凝視している。
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「えっ? いいえ、なんでもないわ」
手早くモニターを閉じ、もう冷めきってしまった紅茶を取り上げた。
「うたた、花言葉というのを知っていて?」
「え? ええ。存じております。例えば赤い薔薇には愛にまつわる花言葉がございますね。男性が女性にプロポーズする際によく使われる花です」
「そう」
「珍しいですね、お嬢様が花言葉を気になさるなんて」
「そうね」
そう答えたものの、櫻子はどう言葉を続けようかと思案した。
あの花――スターチスはあの馬鹿が毎日持ってくる花だ。
それにどんな花言葉があろうとも、知らなければ意味はない。
それが――あんな意味だとは。色によって様々な意味があるとあったけれど、スターチスそのものの意味は『変わらぬ心』。
――何が『変わらぬ心』よ。おまけにつられて猫娘に心変わりしたくせに。信じられるわけがないでしょう? それに、あの馬鹿の心なんて、一度も聞いたことがないのに。
「ねえ、うたた」
「はい、お嬢様」
「あなた、恋をしたことはある?」
「わたしはお嬢様一筋です」
「……それは恋ではないわ」
「ええ、ですからお嬢様一筋です」
ニッコリと微笑む年下のメイドに櫻子はため息をついた。
「お嬢様、もしかしてあの馬鹿のことを考えておいでですか?」
「……いいえ」
少し間が開いたがきっぱりと否定する。これはあの馬鹿のことではない。一般的な話を聞いてみたかったのだ。が、うたたを相手に選んだのは間違いだった。
「お嬢様の素晴らしさを理解しない馬鹿なんて忘れてしまいましょう。大旦那様に掛け合って、もっと素敵なお相手を紹介していただきましょう」
「……そうね」
それでも、婚約解消の目処が立たないうちに動くわけには行かない。そんなことをすれば、婚約解消の理由を与えてしまうことになる。
「ところでお嬢様、今日はどうなさいますか?」
「紅茶のおかわりを持ってきて。それから、しばらく一人にして」
「かしこまりました」
メイドはそう言って頭を下げると茶器を手に下がっていった。その背中を見送ったあと、櫻子はもう一度先ほど閉じた画面を開いた。
総次郎と引き合わされたのは子どもの頃だ。総次郎の妹の楠葉が同い年だからと引き合わされたその場に居合わせた。
それ以来、楠葉に会いに行くと総次郎がもれなくついてきた。森ノ宮の家に遊びに来るときも、一人で楠葉が来たことはほとんどない。
だから、両家の親がそういう話を持ち出した時も、大して抵抗はしなかった。
家族と使用人以外で最も近くにいた異性。
それが、総次郎だったから。
恋だったか、と言われると自信がない。
総次郎以外に知らないのだから。
だが。
他の女を娶ろうとしていると知った時。
胸が痛かった。物理的に切り裂かれたわけでもないのに、痛かった。
自分のものだと思っていたのに。
裏切られたのだ。
そう思った途端、耐えられなかった。
この感情を……なんというのだろう。
どす黒い、もやもやとした、でもめちゃくちゃに暴れたくなる感情を。
こんな自分が嫌だった。
「お祖父様……」
このもやもやは、目の前から総次郎が消えれば収まるのだと思っていたのに。
一切姿を現さなくなって、花の形でほんの視界の片隅にあるだけになっても、もやもやした思いは消えない。
うたたの言ったように、お祖父様にお願いするべきなんだろう。
でも。
婚約解消をして、総次郎の隣に猫耳娘が立っていることに耐えられるだろうか。
きっと壊れてしまうだろう。
それくらいならいっそ……。
気がつけば頬を濡らすものがあった。
櫻子は千々に乱れる心を抱いたまま、声もなく泣き続けた。
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