2.楠葉

「なんて顔してんのよ」


 声をかけられて顔を上げると、いつの間に部屋に入ってきたのか桜橋家の長女・楠葉が立っていた。

 膝丈までの白いパンツに鮮やかなオレンジのタンクトップという軽装で、足元は白いスニーカーだ。


「楠葉、いつ来たの」


 いつもならば先触れがあって、うたたが案内してくるのだが。


「さっき。うたたが案内してくれたんだけど、あんた心ここにあらずだったもんね。そんなことより、あんたなんでそんな顔をしてるのよ」


 二度重ねられて櫻子はようやく顔に手を当てた。もう頬の涙は乾いているが、熱っぽい。目のあたりもなんだか腫れぼったい気がする。


「聞いたわよ。兄貴に婚約破棄を叩きつけたって」


 勧められる前に楠葉は櫻子の斜向かいに座った。


「兄貴、真っ青になってた」

「……知りません」


 そっぽを向きつつ櫻子はちらりと楠葉を盗み見る。

 肩にかからないほどに短く切った茶色の髪の毛は天然パーマであちこちにうねり、小顔で身長も低い。とはいえ櫻子よりは大きいのだが、それでも成人しているようには見えないのは、格好のせいだけではあるまい。

 同い年の楠葉は今年大学四年になる。短大を二年前に卒業した櫻子に比べて活動的で、なんとかという体育会系のクラブにも所属している。

 花嫁修業まっしぐらの櫻子に比べるとなんと眩しいことか。

 幼い頃から一緒に遊び、学んで来た。

 気の置けない間柄であるのは確かだが、そうは言っても総次郎の妹なのだ。

 彼女はどちらの味方なのだろう。


「ま、自業自得だよね。櫻子がいるっていうのに、よりによって猫星の成人の儀式だもん」


 楠葉は肩をすくめた。

 うたたが入ってきて、紅茶の準備を始めた。いい匂いが広がる。


「それにしても、まさか受けるとは思わなかったんだよね。あたしも」


 テーブルに出されたクッキーに手を伸ばして楠葉は続けた。


「確かにさぁ、儀式に付随するおまけが欲しかったっていうのは分かるよ。兄貴、流通の要の星間ゲートを八割方抑えてる猫星との直接的なコネクションを何としてでも作りたがってたから」


 儀式のおまけ、とは儀式の相方となってくれた人への謝礼である。

 櫻子はざっくりとしか知らなかったが、総次郎の件を聞いたあと、こっそりとネットでの情報を調べた。

 公に情報を集めればよかったのだろうが、すでに婚約破棄を伝えたあとで調べていることを知られると、未練があるのだろうと思われそうで、うたたにも報せなかった。

 信ぴょう性は定かではないが、ざっと把握したのは、猫星人が逗留する間の費用に加え、必要だと望めば家も世話役も準備してもらえること、そしてなにより儀式を行った者とのつながり。

 猫星の人々は儀式で世話になった家を大事にするらしい。そこを第二の故郷ととらえ、世話になった一家が大変なときには必ず助けてくれるというのだ。

 それは経済的な側面だけにとどまらない。就職がなければ就職口を、結婚相手が見つからなければ結婚相手を探すことまでしてくれるというのだ。

 ゆえに、その恩恵を受けたくてたまらない者達を束ねる意味合いで、猫星協会はできた。

 最近は年に数件あるかないかの成人の儀式の情報は、猫星協会に伝えられる。

 猫星協会は会員に受け入れの希望を募り、どの会員がホストファミリーとなるかを見定めるのだとか。

 総次郎が選ばれた理由は分からないが、猫星協会が様々な条件を加味した上で選び、総次郎はそれを受け入れたのだ。


「でも、儀式の内容がさぁ……あれだもん。正直、兄貴が猫星協会に加入したって聞いた時にはひいたわぁ」


 楠葉はそう言ってティーカップを取り上げた。

 櫻子は手にしていたカップをテーブルに戻し、顔を上げた。


「楠葉……わたくし、あの方を許すつもりはありません。もし、仲裁のつもりで来られたのなら、お帰りになって」


 櫻子の気迫に気圧されたのか楠葉は手を止め、あわてて首を横に振った。


「違う違う! 勘違いしないでよ、あたしは櫻子の味方だよ。あたしだって兄貴には呆れてるんだから」


 そこまで言って、楠葉もカップをテーブルに戻して居住まいを正した。


「これを先に言うべきだった。――馬鹿兄が本当にごめん。あんな馬鹿だとは思わなかったよ。櫻子が傷つくぐらい、想像つくだろうに……。許してくれとは言わないよ。できることならあんな馬鹿兄と縁を切りたいくらい。あ、あたしの顔、見るのも嫌なら遠慮なくそう言ってね。直接会えなくなるのは寂しいけど」


 楠葉の寂しそうな微笑みに、櫻子は目を伏せて首を横に振った。


「……楠葉に罪はありません。ごめんなさい、八つ当たりです」

「八つ当たりどんとこいよ。櫻子はそうするだけのことをされたんだから。あたしでよければいくらでもどうぞ。愚痴でもなんでも聞くわよ」


 そう言う楠葉の笑顔に曇りはない。

 櫻子はぎこちないながらも口元をゆるめた。

 人生の半分以上を一緒に過ごしてきた幼なじみは、いつも、誰よりも櫻子を大事にしてくれている。

 楠葉の心が何よりありがたかった。

 叶うことならば、同じ時を過ごしてきた総次郎の側に居たかった。

 だが、それももう叶わぬ夢。


「ありがとう、楠葉」


 櫻子は戸惑うことなく思いを言葉にして返した。


◇◇◇◇


「ありがとうございました」


 櫻子の部屋を出て、玄関まで案内されている合間に、前を行く執事の安岡が楠葉を振り返って頭を下げた。

 結局どれぐらい喋っただろう。

 大学の話や後輩たちの馬鹿話を交えてしゃべり、そろそろ館を辞すという頃には、泣き顔だった櫻子もようやく声を上げて笑った。


「礼を言われるようなことじゃないよ。あの馬鹿兄のしでかしたことのせいだもん。櫻子のせいじゃない」

「いえ……あれ以来すっかりふさぎ込んでいらっしゃいまして、今朝もずっと泣き続けだったものですから、助かりました」

「うん……兄貴も魂が抜けたような顔をしてるから、櫻子はもっとひどいんじゃないかなと思ってたの」


 安岡はおや、と顔を上げた。


「総次郎坊っちゃんが、でございますか?」

「あっはっは、その呼び方、懐かしいねえ。安岡さんにとっては兄貴も坊っちゃんなんだね」

「まあ、長いつきあいでございますから」

「そうだよね。……兄貴、今日も花束抱えて来たでしょ」

「はい。ご存知でいらっしゃいましたか」

「兄貴は誰にも知られていないと思ってるみたいだけどね。でも、あの調子だと櫻子には伝わってないよね」

「一応今朝方、花言葉のことをお知らせしておいたのですが」


 安岡の言葉に、楠葉は腕を組んで頭を横に振った。


「だめだね……たぶん信じられないんだろうな。ま、分かるよ。何年も婚約者として共にあったのに、いきなり手のひらを返してこの裏切りだもん。……あたしでも信じないよ」

「で、ございましょうね」

「そういえば安岡さん、知ってる? 猫星の女の子、行方不明なんだって」

「ええ、うたたから報告を受けております」

「あたし、このままその子が行方不明でいてくれたらいいな、なんて思っちゃったんだよね。……身勝手だってわかってるけど、もしこのままいなくなっちゃえば、兄貴と櫻子、元の鞘に戻るんじゃないかって」

「はい」

「……人の不幸を願うなんて、だめだなぁ、あたしも。まだまだだ」


 安岡はしかし首を横に振った。


「私も同じ思いでございましたから」


 安岡の言葉に楠葉はくすっと笑った。


「でもね、今日話してて思った。もしそうなったとしても櫻子は兄貴のもとには戻らないんだろうなって。……櫻子自身が兄貴を信じられるようにならないとダメなんだって」

「はい」

「このままじゃあ、兄貴も櫻子も幸せになれないよ。このまま別れたとしてもさ」

「……はい」

「一度、とことんやりあったほうがいいのかなあ……安岡さん、どう思う?」

「私には男女の機微はわかりかねますが、お嬢様はまだ総次郎坊っちゃんのことをどこかで信じていらっしゃるのだろうと思います。総次郎坊っちゃんはお嬢様に拒絶されるはずがないと思っていらっしゃったことは間違いないでしょうが」


 楠葉はじっと言葉を聞いたあと、何事か考えているようだったが、ふいに顔を上げて安岡を見た。


「兄貴さ、どんな顔して花束持ってきてる? 蒼白? 悲壮? それとも能面?」

「そうですね……最初は不機嫌そうに見えました。翌日、お嬢様が受け取りにならなかったことをお伝えすると気落ちされたように見えました」

「今日は?」


 安岡は今朝の総次郎の顔を思い起こした。

 花束を持参し始めてもう数日。日に日にやつれているようにも見えた。


「今日は悲壮、ですかね。おやつれになられたようで」

「うん、食事も喉を通らないみたい。まあ、たぶんダブルショックを受けてるからだろうけどさ」


 つまりは櫻子の婚約破棄と、猫星の女の行方不明の事件。どちらがどう影響しているかは分からない、ということだ。


「楠葉様」


 安岡は姿勢を正すと楠葉に向かい合った。


「総次郎坊っちゃんは無理をなさる方です。お倒れにならないよう、楠葉様からご進言くださいませ」


 そう言って頭を下げると、楠葉はくすくすと笑い出した。


「安岡さんってほんとにいい人よね。櫻子を傷つけた馬鹿兄貴のことまで心配してさ」

「いえ、もしこれで総次郎坊っちゃんがお倒れになられたら、お嬢様の心痛が増すだけでございますから」


 安岡はにこやかに応対する。


「いいよ、そういうことにしとく。じゃあ、櫻子のこと、よろしくお願いね。あたしもまたちょくちょく顔出すつもりだけど、安岡さんやうたたの手に負えないようなら遠慮なく呼んでね」

「はい、お気持ち感謝いたします」


 玄関まで見送られて、楠葉は車に乗り込んだ。

 一番厄介なのはおそらく、櫻子自身だ。

 馬鹿兄貴を見切るにしても、きちんと一度別れをしてからでないと引きずるのは目に見えている。


「どっかで時間、取りますか」


 楠葉はブレスレットの端末をいじりながら、つぶやいた。

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