4.プールの時間

「ひょー、いい眺め」


 そんなことを言いながらプールを眺めてるのはもちろん真壁だ。


「真壁、鼻の下伸びてる」

「うっせ。お前こそなんで眼鏡はめたままなんだよ。そんなに見たいのか? むっつりスケベ」

「真壁と一緒にしないでくれる? ないと何も見えないからだよ」


 真壁の言葉に眼鏡をはめたままの遊真はむっとしてじろりとにらみつける。


「そんなところで止まるな、さっさと準備運動してプールに入れ」


 野太い声に振り返ると、ごっつい壁が立っていた。れお兄と、れお兄とるかのお父さん、早瀬のおじさんだ。相変わらずでっかくて筋肉むきむきだ。肩幅も広いし、大人の男って感じ。胸毛も髭もすごい。

 おじさんは麻紀姉と同じ警察機構の人だから、毎日体を鍛えてるって言ってた。振り返って自分の体を見ると、生っ白くてひょろひょろだ。

 ちらりと真壁を見る。真壁は成長期がもう来たのか背も伸びたし、筋肉もついてきてる。体格と力じゃもう全然太刀打ちできないんだよな。

 早く大人になりたい。

 れお兄もおじさんほどむきむきじゃないけど、引き締まってて無駄なぜい肉は一つもない。


「ほれ、理仁も」

「はーい」


 二人に並んで体を動かして、プールサイドに出る。

 るかたちはまだ出てきてないみたい。女の子は準備がいるとか言ってたっけ。


「るかたち遅いな」

「仕方ないよ。先に泳いでよう」


 プールを見回す。流水プールとスライダーがあって、天井がすっごく高い。屋根はあるけど天井と壁には南の島をイメージした映像が投影されていた。

 前にここに来たのっていつだろう。まだ両親がいたころだから、六年以上前だ。あの時も早瀬のおじさんと麻紀姉と、るかとれお兄もいたっけ。

 あのころから改装されてるみたいで、記憶とは全然違う。


「懐かしいな」


 気が付けば隣にれお兄がいた。真壁はすでにプールに飛び込んだあとで、遊真はプールサイドに腰かけて足をつけてる。


「うん、久しぶりに来た」


 泳ぐだけなら学校のプールだけで済むし、市民プールは前にるかも言ったように高い。麻紀姉は忙しいから、わがままも言えないし、一人で来たって面白くないから来たことはなかった。


「僕も久しぶりだ。……夏はずっと忙しかったしね」


 そういえばそうだ。昔かられお兄は夏になると毎年うちの二階でずっと研究してた。時々勉強も見てもらったりした。でも、プールに行くとか遊びに行くとかはなかったように思う。


「麻紀姉も来られればよかったのに」

「まあ……仕事だから仕方ないだろ」


 苦笑を浮かべてれお兄がちょっと寂しそうに笑う。麻紀姉がいないときによくする顔だ。

 本当に仕事かどうかも怪しいと実は思ってる。だって、あんな格好して、お弁当四人前持って、いったいどこに仕事しに行くわけ?


「ねえ、れお兄」

「ん?」


 プールサイドに向かいながら、僕は口を開いた。


「僕は大丈夫だから」

「えっ」

「……れお兄に初めて会った年になったんだ。だから」


 一人でも大丈夫。

 そう言おうとしたけれど、れお兄は隣にいなくて。後ろを振り向くと、眉根を寄せて寂しそうに僕を見ていた。


「れお兄?」


 首をかしげて見つめていたら、れお兄は一度視線を外してから僕の方に歩いてきて、頭の上に手をのせた。


「お前はまだ子供だよ。六年前の僕がそうだったように」

「でも」


 言い募ろうとした僕を押しとどめるように、れお兄はぽんぽんと僕の頭の上で手を弾ませて、微笑んだ。


「……理仁は心配しなくていい。大丈夫、自分でなんとかするから」


 なんとかって。ちゃんと自力で捕まえるって言ってよ。麻紀姉の横に立つのがれお兄以外なんて、僕、認めないから。


「女性陣が出てくる前にひと泳ぎしよう」


 促されて、プールに飛び込む。にぎやかな声に水しぶきの音が加わった。


 ◇◇◇◇


「ねえ、これ、ちょっと派手じゃない?」

「何言ってんの、これくら普通よ」


 思い切って買った白いワンピ型の水着。少し胸元が広く開いてて、心もとない。まさかこれを理仁の前で着ることになるとは思わなかったのに。

 姿見に映る自分を見て、思わず胸を隠す。確かにかわいいけど……見せるのはやっぱり怖い。

 後ろに立っているのは天音さん。遊真のお姉さん。大人の女の人ってこんな感じなんだ。

 すらりと背が高くて、出るところは出てるけど引き締まった体。ビキニではないけど、背中と脇腹部分が大きく開いた競泳水着らしい。紺色とオレンジのツートンカラーで、全然いやらしくないのに、色気たっぷり。

 いつかこんな大人の女になれるんだろうか。思わず自分の体を見下ろして、やっぱりがっかりする。


「るか、そろそろいい? もうずいぶん経ってるし、理仁くんたちとはぐれちゃう」


 理仁とはぐれる、と言われて慌ててるかは振り向いた。


「ま、待って」

「だめ。パティさんもずっと待ってもらってるんだから。そんなに恥ずかしいなら、パーカー着ていけばいいでしょ?」


 はい、と薄黄色のパーカーを渡されて、ぐいぐい引っ張られる。


「ちょっと、待ってよ、めぐっ」

「もう十分待ったもの。 パティさん、天音さん、行きましょ」


 パーカーを着る時間ももらえずに、引っ張られるままに通路を通って、出たところでめぐがようやく手を離してくれた。


「ほら」

「わぁ……」


 嬉しそうなパティの声が聞こえた。顔を上げると、青い空が天井に広がっている。

 太陽は出ているけど、暑くない。室内だから。

 最後にここに来たのはいつだったっけ。ずいぶん前の話だったように思う。


「ちょっと高いけど、やっぱりいいよね、市民プール」

「う、うん」

「るか?」


 不意に呼ばれて声の方を向くと、理仁がプールの中から手を振っていた。


「り、理仁」

「遅かったね。一回りしてきちゃった」

「えっと、お父さんは?」


 ざばっとプールから上がってきた理仁は、探すようにぐるりとプール全体を見回して、奥の方を指さした。


「あっち。屋台が出てるんだ。そこでビール飲んでる」

「ええっ! もう、保護者の意味ないじゃないのっ」


 慌てて後ろを振り向くと、パティの隣で天音が苦笑していた。


「まったくもう、あてにならないわね。パティさん、行きましょ。めぐちゃんも」

「はい」


 天音が先導してプールサイドを歩いていく。ついていこうとしたるかの手を理仁が引っ張った。


「えっ?」

「るか、泳ごう」

「理仁、でもっ」

「前に一緒に来たのって六年前だろ?」

「……覚えてたの?」


 そうだった、あの時はまだ理仁の両親もいて、みんなで遊びに来たんだった。あれが多分最後。


「競争したの、覚えてる?」

「そりゃ、覚えてるわよ」


 昔の記憶がよみがえって来て、るかはほっぺたを膨らませた。

 当時はまだ幼かったから、子供用のスライダーと子供用プールでしか泳がせてもらえなかった。

 はじめはたわいない比べっこだった。それがなぜかムキになって勝ち負けにこだわるようになって。

 帰る直前に負けたのだ。水中じゃんけん五番勝負で。


「も、もうやらないわよっ、子供じゃないんだしっ」

「えー、残念。せっかく大人用プールで泳げるようになったからやりたかったのに」

「やりませんっ。それに今日はパティの護衛も兼ねてるんだからっ」


 天音はとみれば、ずいぶん向こうに行ってしまっている。パティはスイムキャップで耳を隠してはいるものの、しっぽを隠せる水着がなくて、水着の上からパーカーを羽織っている。


「じゃあ、一回だけ。一緒に泳ごう。それならいい?」

「……し、仕方ないわっ――」


 最後まで言い切る前にぐいと引っ張られてそのままプールに飛び込んだ。慌てて顔を出すと、理仁がにかっと嬉しそうに笑っている。


「ちょっとっ、パーカー濡れちゃうっ」

「え? 着てないし」

「じゃなくて、持ってたでしょ?」

「え? さっきめぐが回収してったよ?」

「えっ!」


 はっとしてめぐを探すと、父がいると言っていた当たりをめぐたちが歩いているのが見えた。その手には確かに、渡されたはずのパーカーがある。


「嘘っ」

「るか」

「な、なによっ」


 胸元を慌てて隠すと、理仁はにっこり微笑んだ。


「かわいい水着だね。よく似合ってる」

「かっ……」


 顔が熱い。理仁の目が見てられなくてうつむく。なんで、こんなに何でもないようにさらっと言っちゃうのよ、ばか理仁っ。


「じゃ、おじさんのいるところまで競争ね」

「えっ?」


 理仁の言葉に顔を上げると、すでに理仁は流れるプールをさかのぼるように泳ぎ始めていた。


「ちょ、ちょっとまってよっ、ずるいっ!」


 人と水をかき分けて、少し先を行く背中を追いかける。、顔のほてりは、逆流して泳いだことで監視員に怒られても消えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る