3.逃げられた男

 森ノ宮櫻子の来訪が告げられた時、桜橋総次郎は本邸の執務室で書類に目を通しているところだった。

 総次郎は書類から顔を上げて銀縁眼鏡を外し、来訪を告げた若い執事を見上げた。


「そうか。では、応接室の方へご案内さしあげろ」

「いえ、それが」


 身に纏う黒服に一筋の乱れもない若い執事は言葉を濁す。


「どうかしたのか、伊織。またあの馬鹿メイドつきか?」


 伊織と呼ばれた執事は主の言葉に逡巡したが、結局うなずいた。

 総次郎は顔を歪めた。以前あの馬鹿メイドが暴れてくれたおかげで、祖父から引き継いだ骨董品の壷を粉々にされたのだ。森ノ宮家から賠償はされたが、壊れたものは戻らない。また同じことをされてはたまらない。


「こちらにお通ししたほうが被害が少ないかと思いますが、構いませんか?」


 額に手を当てて総次郎はため息をついた。


「仕方ない。こちらに通してくれ」

「かしこまりました」


 執事が退室したのを確認すると、机の上の書類を引き出しに仕舞って鍵をかけた。それから部屋をぐるりと見回して、割れ物がないか確認する。破損してはまずいものについては基本的には強化ガラスで覆ってあるが、あの馬鹿力はこの間来た時にぶち割って帰った。

 おかげで強化ガラスを二重にするなど馬鹿メイド対策費用がかさんで仕方がない。

 櫻子が嫁いでくるときにはあのメイドもついてくると言っていた。どこまで対策すればいいやら、頭の痛い話である。

 ソファサイドにガラスの灰皿があるのを見つけて取り上げたところでノックの音が響き、反応する間もなく分厚い扉が勢い良く開いた。

 扉を蹴り開けたのであろう、片足を上げたメイドが立っている。

 総次郎は顔をしかめた。


「ノックしたのならちゃんと手で開けて入ればいいだろう? 足で蹴り開けるな」

「問答無用でございます。総次郎坊っちゃん」


 慇懃無礼な風を装いながら、メイドは足を床につけるとスカートの誇りを払うしぐさをした。

 俺より遥かに若いのに相変わらず不躾な態度を取る奴だ、と眉根を寄せ、手にしていたガラスの灰皿を元の場所に戻した。

 今から退避させたところでもう遅い。壊れるときには壊れるのだ。

 執務机に戻ると、メイドの後ろに櫻子が立っているのが見えた。

 相変わらず表情は乏しいが、長いつきあいだ。大体の感情は読み取れる。

 にこやかに招き入れようとした総次郎は、彼女の表情がいつもになく固いことに気がついた。


「そんなところに立っていないで、入ってきたらどうだい? 婚約者殿」

「お嬢様は貴様ごときと同じ部屋で同じ空気を吸うのが嫌だと申されております」


 メイドの言葉を完全無視して、総次郎は戸口まで歩み寄った。櫻子の横には伊織が茶の準備を整えたワゴンを押してスタンバイしているのが見える。


「さあ、中へ。ちょうど連絡しようとしていたところでね。いい報せがあるんだ」


 そう言った途端、櫻子の肩が震えたのが見えた。


「お嬢様は総次郎坊っちゃんの裏切りをもうご存知ですよ」


 裏切り? 何の話だ。

 メイドのたわごとを無視して総次郎はいつものように櫻子の肩を抱こうと手を伸ばした。が、彼女は逃げるように後ずさった。追いかけようとした手首を横から握り込まれて思わず素が出そうになる。


「何のつもりだ、馬鹿メイド」

「そのお言葉はそっくりそのままお返しいたします。お嬢様に何をなさるおつもりですか」

「部屋の中へエスコートしようとしただけだ。何がいけない?」


 じろりと睨みつけるとメイドは負けじと睨み返してきた。


「お嬢様から心を移した坊っちゃんにさわって頂きたくありません。大変不愉快です」

「何を馬鹿なことを言っている。やはりお前は馬鹿メイドだな。いいからその手を離せ」


 手をひねってメイドの拘束を外そうとするが、馬鹿力だけが取り柄のメイドの手は万力のように外れない。


「お嬢様に指一本触れないで頂きたい」

「婚約者に触れることが何かの法に抵触しているとでも言うつもりか?」

「お嬢様を目の前にしてよく言えますね。他の女を娶ることを決めた坊っちゃんに、お嬢様の手を取る資格があるとお思いですか?」

「なんだと?」


 低い声で総次郎は威圧するように言い放つ。櫻子が身じろぎしたのが見えて、内心舌打ちをしながら総次郎はメイドから櫻子に視線を移した。


「他の女を娶るだと? 俺の婚約者は櫻子ただ一人だ。それ以外の女を妻になどと考えたこともない。それはよく知っているだろう? 櫻子」


 だが、櫻子は固い表情のまま何も答えない。


「お嬢様」


 馬鹿メイドが窘めるように声をかけると、櫻子はようやく顔を上げた。だが、総次郎の方を見ようとはしない。少し腫れぼったい目元から、泣いたのだろうと推測をつけた。


「お前を悲しませるようなことは一切しない。なぜそんな顔をするのだ、櫻子」

「お嬢様」


 櫻子はメイドの声にちらりと顔を上げたが、小さく首を振るとまたうつむいた。メイドはため息をつくと口を開いた。


「総次郎坊っちゃん、猫星の成人の儀式の相方を勤めるそうですね」

「……なんだ、知っていたのか」


 総次郎はメイドの手を外そうと込めていた力を抜き、メイドを見た。メイドは眉を引き寄せ、総次郎を睨みつけている。


「のうのうと白々しい。猫星の成人の儀式の内容をご存知ないのですか?」

「そのことだが、櫻子に話そうと思っていたんだ。一般的に――」


 メイドの顔色や婚約者の様子に気づかず、総次郎はにこやかに微笑みをたたえて櫻子を振り返った。その刹那、頬に鋭い痛みが走った。


「櫻子……?」


 見下ろせば、櫻子は顔を真っ赤にして、目尻に溜まった涙を頬にこぼしながら総次郎を睨みつけていた。

 白いフリルのついた袖口から覗いた掌が真っ赤だ。今の痛みは、櫻子の平手打ちだったのだと気がついたものの、なぜ平手打ちを食らったのか分からずに総次郎が一歩距離を詰めると、櫻子は後ずさった。


「……裏切り者」

「櫻子?」

「貴方なんか……絶交よっ! 猫耳娘とでも結婚すればいいんだわっ!」

「何を言っているんだ、櫻子。落ちついて」


 総次郎は櫻子の剣幕に押されながらも距離を縮めようと歩を進めた。こんなに取り乱した櫻子を見るのは初めてだった。いつも感情を出さず冷たくすました表情しか見せない櫻子が感情のままに泣き叫んでいるのが衝撃だった。


「これが落ち着けるわけ無いでしょう!? わたくしとの婚約が障害だとおっしゃるのなら、今ここで婚約破棄してさしあげますわっ!」

「何を馬鹿なことを言っているんだ! お前以外の女を娶る気はないと言っただろう?」


 櫻子はいやいやをしながら泣き続けている。メイドに片手首握られているせいで泣く櫻子を抱き締めることもできない。苛々が募る。


「総次郎様」


 横から伊織の声が割って入る。ちらりと見ると、伊織は腕時計型端末から顔を上げたところだった。


「何だ、邪魔をするなっ、今取り込み中だ!」

「いえ、緊急連絡が入りました。猫星からのお客人が行方不明になったと」

「なんだと……?」


 総次郎は愕然として伊織に向き直った。

 その隙にメイドは総次郎の手首を解放して櫻子に駆け寄った。気がついた総次郎が振り向くと、メイドは櫻子を支えるように立ち、完璧な業務用スマイルを浮かべた。


「お取り込み中のようですから、お暇致します。二度とこの屋敷に来ることもありませんでしょう。当家を訪れることもお断りいたします。その猫耳の方とどうぞ末永くお幸せに」


 櫻子は顔を上げることもなく、メイドに支えられたままふらふらと玄関の方へ歩いていく。

 総次郎は追いすがろうと手を伸ばしかけたが、今はそれどころではない。

 手を握り込んで引き寄せると、足早に執務机に戻った。


「で、状況は」

「定時連絡がなかったため、猫星のご家族からこちらに連絡が入りました。なんでも乗り込んだ船がお粗末だったらしく、予定ポイントのずいぶん手前で彼女を降ろしたそうです。その後、位置表示信号マーカーの電波も把握できなくなったと」

「信号が途絶えた位置は把握しているのだな?」

「はい。情報を頂きました。とはいえ誤差半径百キロですから、あまりあてにはならないかと」


 総次郎は舌打ちした。猫星の高度な技術を持ってしても、たかだか一惑星である地球のどこに娘がいるのかを精密に把握するのは困難なのだ。だから、こちらに到着したら高精度のマーカーを渡すように準備してあったのだが、たどり着くまでに行方不明になることまでは想定していなかった。


「捜索隊は」

「千人規模で投入しております。ただ、エリアが広いですから時間がかかります」

「……ともかく無事を確認するのが最優先だ。変な輩に引っかかっていないことを祈るしかないが……」

「大都市の近くでないことだけが救いですかね」


 総次郎は眉根を寄せたまま首を振った。


「情報は逐次俺にも流してくれ。今から猫星協会へ行ってくる」

「かしこまりました。……森ノ宮へはいかがいたしますか?」


 伊織の言葉に総次郎はコートかけから取り上げた上衣を取り落とした。素早く拾い上げた伊織から受け取ると、総次郎はため息を吐いた。

 櫻子の誤解の理由はわかっている。こればかりは相手が落ち着いているときにきちんと一から説明しなければ納得はしないだろう。


「……しばらくは距離を置く。伊織」

「はい」

「花を送っておいてくれ」

「何の花にしましょうか?」

「……いや、いい。自分で手配する」

「かしこまりました」


 出ていく伊織の背を見送って、総次郎も重い心を抱えたまま部屋を出た。

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