2.メイド
「お嬢様、お気を落とさないでくださいませ」
桜橋邸に向かう車の中で、うたたは目の前に座す主――森ノ宮櫻子を慰めていた。
「気なんか落としてないわよ。あの馬鹿をぶっ叩いたら婚約破棄してやるんだからっ」
ぷん、と頬を膨らませて櫻子は息巻いた。
安岡は知らない。
ボディーガードであり、幼い頃より誰よりも櫻子の側にいたうたたの前では、櫻子のかぶっている冷たい面が外れるのを。
先ほどのドレスと打って変わって紺色のフレアスカートとゆったりしたフリルブラウスに身を包んだ櫻子は、流れるような黒髪をうたたと揃いのポニーテールにしている。
「桜橋総次郎様のご在宅は確認済みです。お嬢様の来訪も先触れを出しておきました」
「そう。……これであの馬鹿が居留守を使ったり逃げたりしたら、桜橋総次郎は婚約者を捨てて猫星の若い女に走った挙句逃げたヘタレだって言いふらしてやるわ」
「それはいいですね。ぜひやりましょう」
うたたは櫻子の言葉にガッツポーズを決める。
「そうでなくとも、最近はわたくしが行くと聞いた途端に仕事だと逃げ出す始末よ? これをヘタレと言わずに何と言える?」
「まったくです。ではネットに流しましょう。桜橋の二代目は色欲に狂い、ついに猫星のいたいけな少女に手を出した野蛮男だと」
「そ、そこまではっ……言い過ぎよっ」
むっとして櫻子は唇を尖らせた。
「でも、間違いではありませんでしょう? こんな可愛らしいお嬢様が婚約者でいらっしゃるのに、よりによって十八になったばかりの猫耳娘なんかにうつつを抜かしているのですよ?」
「そ、それをこれから確かめに行くんじゃないのっ」
「ですが、楠葉様のお手紙では」
「彼女の勘違いってこともあるじゃないのっ。だから確かめて」
「確かめて?」
「……本当だったらぶちのめして股間蹴り上げて再起不能にしてやるんだからっ」
櫻子は肩を震わせた。半泣きで目のまわりを赤くした櫻子に、うたたは化粧箱を差し出した。
「泣くのは早いですよ、お嬢様。総次郎様と対峙なさるのに目が真っ赤では様になりませんよ」
「わ、わかってるわよっ」
化粧直しを始める櫻子をうたたはじっと見つめる。
普段は気高く聡明で感情を表に表さない、氷の美姫とも称される櫻子が感情を露わにするのは、自分の前と楠葉様の前だけだ。
櫻子と総次郎の婚約は家同士が決めたもので、まだ幼い時分だったと聞いている。
うたたが彼女のボディーガードに着いた時点で、櫻子様があの馬鹿のものになることが決まっていたのだ。
だが、こんな可愛らしい櫻子様をあの馬鹿は知らない。
知らなくて良いのだ。
拗ねたり微笑んだり大笑いしたり泣いたりする、こんな可愛らしい櫻子様を知ったらあの馬鹿はそれこそすぐにでも櫻子様を奪っていくだろう。
そんなことはさせない。
そうでなくともあの馬鹿の女の噂は櫻子様のお耳にまで入っているのだ。
櫻子様は男性によくある一時的な気の迷いだからと言って涼やかな顔で許してきたが、内心どれだけ傷ついてきたのか、うたたは知っている。
だからこそ、今度のことだけは許せない。
今までさんざん翻弄されて傷つけられてきた櫻子様がお可哀想ではないか。
「玉を潰すだけでよいのですか? いっそのこと棒も折ってしまえば」
「いいの。……いっそ殺したいくらいだけど」
まだすんすんと鼻をすする櫻子にティッシュを差し出す。
あれだけ傷つけられ、裏切られてきたというのに、櫻子様はあの馬鹿がお好きなのだ。
猫耳女にあの馬鹿を奪われて心を乱すくらいに。
「……ありがとう、うたた。貴女だけが頼りよ。」
「もったいのうございます」
でもやっぱりその時になったらお優しい櫻子様は躊躇なさるに違いない。
うたたは自分が確実に手を下そうと心に決めるのであった。
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