2.覚醒

 目をあけるといつもののっぺりした白い天井が見える。

 思わずため息をついた。

 なんていうか、ひどい夢だった。

 でも、すこしいい夢だった気もする。

 よく覚えてないけど。

 寝返りを打って左腕の腕輪に触れる。まだ午前六時だ。

 今日は麻紀姉が出張に行く日のはずだ。

 昨日から夏休みだし、こんなに早く起きる必要はなかったのに、なんで目が覚めたんだろう。

 二度寝を決め込むことにして、僕は毛布を引きずり上げ、目を閉じると右に寝返りを打った。

 途端にふわりといい匂いがした。

 ああ、夢の中でも嗅いだ匂いだ。ストロベリーの匂い。

 美味しそうな匂いに目を開けると、そこには茶色と言うには赤すぎる、くりんくりんの髪の中から三角耳が立っていた。


「え……?」


 何?

 夢で見た天使?

 なんで?

 がばっと体を起こすと、つられて毛布もめくれ上がった。

 気持ち良さそうにくるりと丸まって寝てるのが見えた。

 長いまつげにピンク色の唇。

 夢に見たとおりの女の子だ。

 肩は日に焼けた小麦色で、タンクトップの肩紐が緩んでいる。紺色の布を下から押し上げてるものに気がついて、僕はあわてて顔を逸らした。

 今の今まで、僕と一緒にベッドで寝てた?

 そう思った途端、頭のてっぺんまで血が昇ったのが分かった。

 あわててベッドから飛び退く。


「うわ、あ……」


 目を逸らそうとしてもつい彼女に視線が釘付けされてしまう。

 とりあえず、僕はトイレに飛び込んだ。


◇◇◇◇


 諸々を妄想だということで脳内処理をして、キッチンでコーヒー牛乳を作ってダイニングの椅子に腰を下ろした。

 まだちらちらと脳裏で白い肌がちらつくけど、もう大丈夫、落ち着いた。

 あれは夢で、妄想しすぎたに違いない。

 それより、朝ごはん作って麻紀姉を起こさないと。出発はいつもより早いって言ってた。

 冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、フライパンをヒーターに載せる。パンは堅焼きパンしかなかったから薄くスライスしてトースターに放り込む。

 親父たちが仕事で他星に出かけていってからもう八年。料理担当も六年目。慣れたもんだ。

 当時就職したばかりだった麻紀姉が僕の世話役を買って出てくれて、一人にならずに済んだけど、料理だけは壊滅的なんだよな、麻紀姉。

 だから、朝食も夕食も僕の担当だ。お昼は学校の学食か、途中で買って持っていく。

 ベーコンエッグを焼いたパンの上に載せ、パック詰めのお手軽サラダを器に盛り付ける。

 ジュースは確かオレンジのがあったはずだけど、半分以上減ってた。僕が飲んだ記憶はないから麻紀姉だろう。

 グラスに注ぎ、テーブルにセッティングすると、麻紀姉の部屋に向かった。

 彼女の部屋は二階の一番手前だ。奥の方は両親の部屋だし、色々な研究資料が山積みされてて鍵もかかってる。この八年、開けたこともない。

 階段を登りきって麻紀姉の部屋のノブに手をかけた。


「麻紀姉、おはよう。今日から出張だろ? ご飯できてるから……」


 そう声をかけてから、部屋の中がもぬけの空なのに気がついた。

 あれ?

 なんで?

 いつもならギリギリまで粘るのに、なんで? もう出かけたのかな。

 それなら伝言でも残してくれればよかったのに。

 二人分作っちゃったのになぁ。

 仕方ない。

 今日の昼ごはんに回そう。

 扉を閉めて、階段を降りたところで僕の部屋の扉が開いた。


「あ、おはようございまう……」


 眠そうに目をこすりながら、赤毛の猫耳がそこに立っていた。


◇◇◇◇


 夢じゃ、なかった。

 それにしても。

 僕はおもわず視線を逸らした。逸らす前にばっちり見たけど。

 白いホットパンツと紺のタンクトップしか身につけてない。すらりとした白い足が太ももまで見えてて……。


「あの」

「ごめんなさい!」


 彼女は勢いよくそう言った。横向いてるから見えないけどきっと頭を下げてるんだと思う。


「よくわからないんだけど……だれ? なんで僕のうちにいるの?」

「あの、それは、その、昨日事故で……」


 事故。

 ああ、嫌な夢を思い出した。

 町外れに向かってる時に、いきなり何かにぶつかって、体が動かなくなって……。

 でも、夢だろ?


「えっと、昨日は出かけてないけど」


 昨日は夏休みの初日だ。

 家にこもっていっぱい出た宿題をやっつけてたから出かけてない。

 というか麻紀姉が監視してて、出られなかった。

 今日から出張だっていうんで、僕が宿題せずに遊ばないようにきっちりスケジュール組まれて。

 大変だったよ、ほんと。トイレに行くのもついてきたんだから。

 まったく、麻紀姉は過保護なんだ。

 風呂だって一緒に入ろうかとか言ってくるし。冗談じゃないよ、まったく。

 僕をまだ六歳の子供だと思ってるに違いない。

 目の前の女の子は首を傾げてきょとんとした顔を僕に向けてくる。

 僕の言ってること、通じてないのかな。


「え? ……あの、昨日って七月二十二日、ですよね?」

「え? 何言ってんの。昨日は七月二十一日だろ?」


 思わず彼女の方を見かけてあわててそっぽを向き、左腕の輪っかに手をやった。

 ディスプレイに映ったのは、彼女のいう通り七月二十三日の文字。


「ウソだろ……」


 なんで?

 なんで一日分、記憶が飛んでんの?

 昨日はどこいったんだ?

 だから麻紀姉はいなかったのか?

 昨日もう出張に出たから。

 でもそこんとこ、よく覚えてない。

 昨日、何があった?


「あの、だから、ごめんなさい……」


 彼女はその場にぺったり座り込んで泣き出した。

 僕のほうが泣きたいよ。

 でも、一緒に泣いてたって仕方がない。

 夢に出てきた天使が彼女で、彼女は現実にここにいて。

 僕は昨日の記憶がなくて――。

 覚えてるのは、ひどい夢を見たこと。夢に彼女が出てきて、泣いてた。今みたいに。


「昨日……もしかして助けてくれた……?」


 ぱっと彼女は顔を上げた。泣きはらした顔だけど大きな目が僕を見てる。


「はいっ、あの、わたしのせいで、あなたを巻き込んじゃって……ごめんなさい」


 でもすぐ開いた花がしぼむように、彼女は耳を伏せ、うつむいた。

 なんか、よくわからなくなってきた。

 ぺったり座り込んだ彼女をとりあえず立たせようとして、白い太ももに目が行く。

 いかん、この姿のままじゃ、まともに話せなくなる。


「ちょっと待ってて」


 冷たい床に座らせたままなのも気になってたし、手を引いて立たせると僕は麻紀姉の部屋に取って返した。

 多分、彼女のほうが麻紀姉よりは背が低い。胸は……どうだろ。わかんないけど、彼女のほうが大きく見える。

 ぼん、とタンクトップの胸元が脳裏に浮かんで、思わず前かがみになる。

 頭を振って、麻紀姉の部屋のクロゼットから長めのジーンズ生地のワンピースと、Tシャツを何枚か引っ張り出す。いつも洗った服を片付けるのは僕の役目だったから、在り処も知ってる。

 ……下着ぐらいは自分で仕舞ってほしいんだけどな。

 一階に降りると彼女は立ち上がらせた場所でじっと僕を待ってた。

 涙に濡れた目が深い緑色で、とても綺麗に見える。


「あの……?」


 首を傾げた彼女が口を開くまで、どれぐらいじっと見つめてたんだろう。

 

「えっと……ごめん、これ着て」

「え? 服なら着てるけど……」


 自分の姿を見下ろして、彼女は首を傾げた。


「いや、その、目のやり場が……」


 ぐいぐいと押し付けて彼女の手に服を握らせると、くるりと後ろを向かせて僕の部屋に押し込んだ。


「とりあえず、それに着替えて来て。朝ごはん作ったから」


 あの、とかでも、とか言って振り向こうとする彼女を押し込むと扉を閉め、僕はキッチンに向かった。

 とりあえず、顔を洗ってこよう……。

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