第十話 猫星の技術(7/27)

1.泡立て器とメレンゲ

「え? 手に入りそう?」


 理仁の声にパティは振り向いた。


「パティさん、手を止めたらだめよ」


 途端に厳しいめぐの声が飛ぶ。るかは動かす手を止めずにちらりとパティと理仁を見やった。

 理仁は腕の端末で誰かと話してる。

 リビングのほうにいて理仁の背中で隠れてるのと、ボリュームがさほど大きくないから誰からかははっきりわからない。

 腕が疲れてきた。ちょっとだけ止めるとすぐめぐの厳しい指導が飛んでくる。

 白い液体はなかなか泡立ってくれない。

 これがふわふわの生クリームになるだなんて思えない。

 牛乳よりはちょっと粘度高いけど、どうやったらあんなになるのだろう。

 パティは視線を目の前の白いボウルに移して手を動かし始めた。

 でも、頭の上に乗っている耳がせわしなく動いている。

 きっと理仁の会話内容に集中してるんだろう。


「腕が疲れてるのはわかるけど、手は止めちゃダメ。ゆっくりでもかき回し続けて」


 そう言うめぐの手元にも同じような白いボウルがあって、すごいスピードで手が動いてる。

 カシャカシャという音もリズミカルで、疲れた風でもなんでもなく、なんだかうれしそうに口元を緩めて、鼻歌でも歌いだしそうだ。

 料理をしている時のめぐってたいていこんな感じだ。

 小さいころはお菓子職人になりたいってよく言ってたっけな。

 最近は言わなくなったけど、それでもお菓子作りの腕はきっとプロ級だろう。

 そんなめぐからみれば、るかやパティなんか、小学生のお遊びレベルなのだろう、とるかは気落ちする。

 でも、やらなければ上達はしない。

 今日はプリンにのっける生クリームだけじゃなく、このあとメレンゲとかいうのも作るらしい。

 それもひたすら腕を動かさなきゃならないのだ。

 昨日はるかの端末デバイスが故障して、修理に行ってたおかげで理仁の家に来るのがずいぶん遅くなった。結果、プリンを作るだけで終わってしまった。

 だから、今日はプリン作りはしない。その代わり、腕がしびれるまで泡立て器を振るうことになった。

 そういえば、昨日は初めて卵をぐじゃっとせずに割れた。

 茶こしが要らなかったのはるかにとっては初めてで、とてもうれしかった。

 めぐ曰く、卵を制すれば百の料理が作れるようになるらしい。その第一歩をようやく踏み出したということで、めぐに褒められたのだ。

 その時のことを思い出してるかは口元をゆるめた。


「パティ」


 顔を上げると理仁がすぐそばに来ていた。開いたままのモニターには兄貴の顔が映っている。


「パティさん、手は止めちゃだめだからね」

「は、はい」


 めぐの指摘で手だけは動かしながら、パティは理仁のほうに視線をやった。


「れお兄から連絡があって、知り合いが一つ送ってくれたらしい。夜までにはここに届くらしいから」

「あ、ありがとう」


 目を見張ったパティは嬉しそうに微笑んだ。


「ただ、緊急用だから五分ぐらいしかつながらないって」

「はい。前に聞いています」

「だから、つながらないようならご家族の連絡番号をとにかく書きだしておいてって」

「あ、はい。わかりました」

「それ、生クリーム?」

「理仁くん、邪魔しちゃだめ。手が止まっちゃうから」

「はいはい。……手伝おうか?」


 その言葉にぱっと喜んだ顔が一つ、こわばったのが一つ、怒り顔になったのが一つ。


「理仁くんがやっちゃったら二人の特訓にならないでしょ。二人の邪魔しちゃだめ。これくらい、普通なら二十分もかからないんだからね?」

「いや、でも電動ミキサー使えば……」

「あの惨事を再現したいわけ?」

「いや、そんなつもりは……」


 理仁の迂闊な言葉にめぐは本気で怒ったようだ。


「とにかく向こう行っといて。真壁くんの相手でもしておいてよ」

「わかった」


 すごすごと理仁はリビングに戻っていった。真壁はといえば、山積みされている本を片っ端から読み漁っている。


「さ、もうすこしがんばろ」

「う、うん」


 にっこりとほほ笑んだめぐに、るかもパティもうなずき、手を動かすスピードを上げた。





「疲れた……」

「腕が痛いです……」


 出来上がった生クリームはめぐが冷蔵庫に保存してくれた。

 るかとパティは右腕を抱え込んでキッチンの椅子に座った。


「お疲れさま。疲れたでしょ。お茶入れるわね。ひと休憩したら今度はメレンゲ作るからね」

「あはは、はぁい……」


 るかは弱弱しく笑うとテーブルに突っ伏した。右腕は上がらないくらい重く感じる。手を握ってみるが、あまり強く力を入れられない。

 紅茶のいい匂いがして、目の前にマグカップが置かれた。ミルクがすでに入っているらしく、白く濁っている。


「ありがと。ミルクティ?」

「そう、ロイヤルミルクティ。お砂糖も入れてあるからそのままで甘いわよ」


 体を動かして汗をかいた後とはいえ、甘くて優しいホットミルクティにほっと肩の力が抜けた。


「おいしいですぅ」


 パティもほわっと笑う。耳がへにゃっと倒れてて、しっぽもゆーらゆらと揺れている。


「そうだ、パティさん。端末の使い方、覚えました?」

「あ、はい。なんとか……」


 そう言ってパティは左腕のリボンをさすった。メニューが立ち上がって、あわてて閉じようと奮闘している。

 赤茶色のリボンはるかが選んだものだ。もちろん、パティの耳の色からの着想だった。

 布素材がよかったのだけれど、あいにくその色のものは革素材しかなかったんだよね。

 それを選んだ時にれおには笑われてしまったけれど。


「そういう時は手を振るといいよ」

「え、こう?」

「そうじゃなくてこう」


 るかは手についた水を振り払うようなしぐさをして見せた。パティは真似して手を振り、無事メニューが消える。


「よかった、消えたぁ。ありがとう、るかさん」


 るかは照れ隠しにそっぽを向くと、ミルクティを飲み干した。甘い甘いミルクティは、体に染み渡る気がした。

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