第11話 今は柚葉として
お母さんに料理を習い始めて半月ほど経った。
まだまだ未熟ではあるが、ある程度料理をすることにも慣れてきた。基本的な事はだいたい出来るはずである。
最近ではメインの料理だけでなく、味噌汁やスープなどの汁物系やポテトサラダなど野菜系について、色味や栄養バランスのことを簡単に教えて貰ったりした。
魚の捌き方や調理方も教わったので、自分で朝昼夕食の品を一通り作れなくもない。基礎は一応終了である。
そういうわけで、今日はご飯ではなく、前に頼んでおいたお菓子作りをすることになっていた。
そろそろちょうど良い時間になったので、家から出て隣の部屋である元自宅に向かう。インターホンを鳴らすと、お母さんがすぐに開けてくれた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
さすがに慣れてきたので、ただいまと言い間違えそうになることはないが、それでも違和感がなくなったわけではないが。
中に入って、いつも使っている悠輝用のエプロンを身につける。このエプロンにもすっかり馴染んできて、これをつけると料理をするぞという気分になる。
「今日はお菓子を作ることになってたけど、クッキーで良かった?」
「はい、クッキーで良かったです」
お母さんに聞かれたので返事をする。難しいものよりはクッキーの方が多分やりやすいだろう。
「クッキーって言っても色々と工夫や一手間で変わるんだけど、今日はシンプルなのを作りましょうか」
お母さんの言葉にはい、と頷く。
用意されていた材料をすぐに使えるように並べておく。こうすると少し作業スペースが狭くなってしまうが、初心者なので分かりやすさ優先だ。
バターや卵、小麦粉などを使って生地を作っていく。ここでココアパウダーを入れたりとか、色々とアレンジ出来るみたいだが、今日は作って貰ったレシピ通りにする。
生地が出来上がったので、型を取ることになった。
「用意してあるのがこれだけなんだけど」
四角や三角、丸に星形やハート型などがある。一瞬星形を取りかけて、女の子はハート型の方が好きかもしれないと思い、そっちを取る。
伸ばした生地の上をハートでくりぬいていく。ハートにした生地を今度はオーブンに入れて時間を設定する。後は待つだけ。
中が気になってオーブンの中をのぞき込む。少しずつ生地が焼かれているのが見えた。しばらくそうしていると、香ばしい匂いがしてきた。完成に近づいてるのを感じて胸が高鳴る。
「……柚葉ちゃん」
「はい、何ですか?」
オーブンの前でクッキーを待っているとお母さんに声を掛けられた。
「今日でこの料理教室は終りにしましょう」
「えっ」
「もう、基本は大体出来るようになったし、後はレシピとかを調べれば自分で出来ると思うわ」
元々少しの間だけと言われていたのだ。そろそろ終わりと言われるような気はしていた。
「で、でもまだ……」
まだ教えて貰いたいことは一杯あるのだ。ううん、もっと一緒に料理をしていたいのだ。
「ありがとうね」
言いつのろうとする私にお母さんが言った。その意味が分からなくて首を傾げる。
「柚葉ちゃんは、責任を感じて私を元気づけようとしてくれてたのよね」
「え、あのっそういうわけじゃ……」
「私その好意に甘えちゃって……柚葉ちゃんが家の中にいると、悠輝も家に居るみたいで……」
お母さんの目が涙ぐむ。そこで気づいた。私はただお母さんを余計に悲しませていただけだったのだ。
お母さんに料理を教わるのは楽しかった。お母さんの子供に戻れたようで、家族に戻れたみたいで。
でも、お母さんは違うのだ。気分転換になっていたわけでもないし、ましてや私から悠輝を感じ取ってくれていたわけでもない。ただ息子の所に幼馴染みの女の子が遊びに来ていた頃を思い出していただけだったのだ。
「毎日悠輝のところに通うだけじゃ駄目だって、やっと踏ん切りが付いたわ」
お母さんが優しく微笑む。それはいつも息子の幼馴染みに向けていたものだ。
「パートを始めることにしたの。悠輝の入院費もかかるし、目が覚めたときにも色々かかるかもしれないから、その時のために何かしようって。待ってるだけじゃ駄目だから」
やっぱり駄目だったのだ。柚葉のままじゃお母さんを励ますことなんて出来ない。だって、自分にとってはたった一人の母親でも、お母さんにとっては息子の幼馴染みに、他人にすぎないのだ。
「そうですか……」
ぐっと息を飲み込む。泣き出しそうな気分だった。でも、お母さんの前で泣くわけにはいかない。
そこでオーブンが音をたてる。クッキーが焼き上がったのだろう。さっきまではワクワクしながら待っていたのに、もうそういう気分ではなくなってしまった。
お母さんが完成したクッキーをオーブンから取り出す。
「ちゃんと焼けてるわね。せっかく作ったんだし食べてみたら?」
「……はい」
クッキーを一つ摘んで口に入れる。サクッとしていて甘くて美味しい。それなのに、何故か胸の内がムカムカとした。
「ただいま」
玄関の方で声がする。多分お兄ちゃんが帰ってきたのだろうが、今は出迎える気分じゃない。部屋のベッドで布団を頭まで被った。
「柚葉」
「……何?」
何故か部屋にやってきたお兄ちゃんに声を掛けられる。私は布団を被ったまま返事をした。
「元気なさそうだな。おばさんと何かあったのか?」
「……どうして?」
帰ってきたばかりなのに、元気がないなんて何で分かるのか。
「どうしてって、おばさんの所行ってきた日は、いつも玄関まで来て色々言ってくるのに、今日は部屋に籠もってるじゃないか」
そういえば、そんなことをしていたかもしれない。お兄ちゃんくらいにしか悠輝としての気持ちは言えないから、お母さんとの楽しかった時間を話したかったのだ。でも。
「今日は、話すことない」
「何で?」
「何でも……」
今日は人に話したくなるような楽しい気分じゃないのだ。
「ほっといてよ……」
こんな気分の時くらい一人にして欲しい。
「ほっとかないよ」
そう言ってお兄ちゃんが布団を奪い取る。慌てて顔を隠す。
「お願いだから、ほっといてよ」
「ほっとかない。妹が泣いてるんだから心配するだろ」
「……泣いてないもん」
布団を被って顔も隠していたのにどうして気づかれるんだ。
「それに、妹って言ったって体だけだろ! 俺は本物の柚葉じゃないんだから!」
起き上がってお兄ちゃんを睨む。睨んでいるのにお兄ちゃんは優しげな視線をこちらに向ける。
「それでも、今は俺の妹だ。それにお前が悠輝だって知ってるのは俺だけなんだから、楽しいことだけじゃなくて辛いこともちゃんと言えよ。話を聞くくらいなら出来るからさ。な?」
お兄ちゃんが優しく私の頭を撫でる。涙が溢れて頬を伝った。
「……お兄ちゃんっ」
堪えきれなくなってしがみついて泣き出す。
「私っ……おれっ……」
「よしよし。話すのは落ち着いてからで良いからさ」
「うん……うんっ」
そのまましばらく泣き続けた。お兄ちゃんの制服のワイシャツが涙と鼻水でびちょびちょになるくらいに。
「……ありがとう」
「おう」
我慢するのを止めて泣きじゃくったおかげか、少しは落ち着いた。
さっきまでの自分を思い出すと恥ずかしくてお兄ちゃんが直視できない。
「何で横向いてんだよ」
一瞬目が合ってしまって、慌てて顔を背けるとお兄ちゃんが呆れた調子で言った。
「……何か恥ずかしくて」
「大泣きしたからか? 事故の後、目が覚めた時だって大泣きしてたじゃないか」
そういえば、あのときも泣き出してしまった。やっぱり柚葉(おんなのこ)になったから涙もろくなったのだろうか。いやそうであって欲しい。さすがに男でも大泣きするような自分だと恥ずかしすぎるし。
「それで、何があったんだ?」
「……実は――」
お兄ちゃんに何があったかを説明した。お母さんに料理を教えて貰えなくなったこと。少しでも気持ちを楽にしてあげられたらと思っていたのに、かえって気を遣わせた上に、より辛い気持ちにさせてしまっていたこと。自分が悠輝だと全く感じて貰えていなかったこと。
「そっか。辛かったな」
「……うん。でも、お母さんも辛いと思う」
いつまで経っても目覚めない悠輝(むすこ)にお母さんは精神的に追い込まれていると思う。パートを始める理由も気持ちを切り替えるためとかではなく、入院費のためと言っていたし。
「そうだな。でもそれなら励ましてあげたらどうだ?」
「励まそうにも、柚葉のままじゃ……」
それでは駄目だったのだ。それもさっき説明したはずだけど。
「別に励ませるのが家族だけってわけじゃないだろ。少なくともお前はこの半月少しは一緒に過ごしてたわけだし」
「そうかもしれないけど……」
どうしたらいいかが分からない。何をすれば良いのか。
「何て言うか、料理を教えて貰った柚葉として励ませないのか?」
「……?」
料理を教えて貰った柚葉として? 柚葉として励ます?
「その、悠輝だって気づいて貰うのは無茶だと思うけど、励ますだけなら出来なくもないと俺は思うけど」
「……」
励ますだけなら。お兄ちゃんに言われたことをもう一度考えてみる。
「もしかして――」
一つの考えに辿り着く。
「――悠輝として励ますことに拘りすぎてたのかな……?」
自分は悠輝なんだからと、そこにばかり頭がいっていた気もする。
「…………考えてみる。お母さんのために何が出来るか」
「おう、頑張れ」
そう言ってお兄ちゃんがまた頭を撫でてくれる。そうだ考えよう。お母さんのために何をすればいいかを。
「あの、これ」
お母さんに料理教室終了を告げられた次の土曜日、私はまたお母さんを訪ねた。
「これは?」
「料理を教えて貰ったお礼です。この前習ったのを生かして、クッキーを作ってみました」
「気にしなくても良かったのに。ありがとうね」
そう言ってお母さんが受け取ってくれる。でも、今日の要件はこれだけじゃない。
「あのっ」
一声出してから一度息を整えて、今度はゆっくりと言う。
「悠輝が目を覚ますのは、私も待ってます。だから――」
一度言葉を切る。その続きを言うには、少しの決意が必要だから。
「――だから、一緒に待ちましょう真央さん」
ずっとおばさんとは呼びたくなかった。それは何だか距離を感じたから。でも、一緒に待つというなら、もう少し近い距離が良い。
「……えっと、あの名前で呼んだら不味いでしょうか?」
しばらく待っても返事がないので、慌てて確認する。もしかして怒らせたかな。
学校の先生を名前で呼ぶ女の子もいる。うちのクラスの担任なら光子先生とか。お母さんは料理の先生だ。だから、そういう呼び方もありだと思ったのだ。
「別に構わないけど。突然だったから吃驚しちゃって」
別に問題ないらしい。とりあえず一安心である。
「えっと、もう一度言います。悠輝が起きるのを一緒に待ちましょう。出来ることがあれば私も手伝いますから」
柚葉として一緒に悠輝が起きるのを待つ。そうすることで少しはお母さんの負担を減らしたり心を支えたり出来るんじゃないか。それが辿り着いた結論だった。
「……そうね、一緒にあの子が目覚めるのを待っていましょうね」
お母さんがそう言って微笑んでくれる。
今は柚葉として悠輝が目覚めるのを一緒に待つ。そして悠輝に戻れたなら、おばさんでも真央さんでもなく、お母さんと呼ぶんだ。
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