第8話 大好きなカレー
学校が終わって、マンションの508号室にやってきた。久々の我が家だった。
「今日からよろしくお願いします!」
扉を開けてくれたお母さんに元気よく言った。朝から楽しみで仕方がなかった。
「どうぞ」
「たっ、お邪魔します」
家の中が視界に入ると同時に懐かしさがこみ上げてくる。涙が出そうになるのを何とかこらえる。
ただいまと言いたくなるが、我慢してお邪魔しますと呟く。自分にとってはここが自宅だが、お母さんから見たら違うのだ。
「はい、これ着けて」
紺と青のチェック柄のエプロンを差し出された。何となく男の子向けっぽい。
「これって、もしかして……」
「悠輝が料理やってみたいって言ったら、使って貰おうって思ってたんだけど、当分なさそうだから。可愛いのじゃなくて悪いんだけど」
「いえ、全然良いです。嬉しいです」
「そ、そう?」
お母さんから見たら、違うのかもしれないが中身悠輝が料理を教えて欲しいと言っているのだから、本来の目的に合っているだろう。
「じゃあ、今日はカレーライス作ってみようか」
「はい!」
受け取ったエプロンを身につけて一緒に台所に向かう。
「えっと、まずは何から始めましょうか」
「まずは手を洗ってね。料理の前には必ず洗うように」
「はい!」
元気よく返事をし、手を濡らしてから石けんをつけて念入りに洗う。お母さんが手を洗い終えるのを待って、いよいよ調理開始だ。
「とりあえず、野菜の皮を剥きましょうか」
返事をして、すぐに渡されたジャガイモの皮を剥こうとする。
「ちょっと待って。えっと、そうね最初から説明するわ」
お母さんの方を向いて、言葉の続きを待つ。どうやらいきなり間違えてしまったらしい。
「ジャガイモは最初に軽く水洗いしてから皮を剥くの」
言いながら、ジャガイモを一つ取って軽く水で洗う。
「それと皮を剥くときだけど、包丁を立てると危ないから寝かせるようにして当てて」
言われたとおり、軽く水洗いしてから包丁をジャガイモに当てて待機する。
「それで皮を剥くときは、包丁じゃなくて剥く方を動かしてね。こんな風に」
お母さんが慣れた手つきで皮を剥いていく。なるほどと思い自分でもやってみる。
しかし、お母さんのように上手くいかなかった。見ているよりもずっと難しい。自分で思ったように出来ない。無駄に身を削いでしまっている気もする。
「えっと……一緒にするから貸して」
言いながら後ろから、私の手を持って動かしてくれる。
「こんな感じでやってみて」
「はっはい……」
匂いを感じられるほど近い距離にお母さんがいる。とても懐かしい匂いだ。柚葉になってから1ヶ月足らずなのに、もうずいぶんと感じていなかった気がする。
「どうかした?」
「い、いえ何でもないです」
考えるのをやめて集中する。せっかくお母さんが料理を教えてくれているのだ。真面目にやらなくてはならない。
「気を付けてね。包丁で手を切ったりしたら大変だから」
「……ごめんなさい」
確かに刃物を扱っているのだから慎重にならなくてはならない。しかも、今は柚葉の体だ。間違っても怪我などさせられない。
「気をつけてね。じゃあ一人でやってみようか」
そう言ってお母さんが離れてまた横に移動する。何でか少し寂しい。
ジャガイモに向き直る。今一緒にやったように皮を剥いていく。相変わらずお母さんがやるみたいに上手く出来ないが、先程よりはマシになった。時間はかかるが一応出来ている。
「慣れれば上手に出来るようになるから、頑張って」
「が、頑張ります」
返事をしてジャガイモの皮をひたすらに剥く。少しの時間を掛けて用意されたジャガイモを全て剥き終えた。
「ふう」
「まだ、ジャガイモの皮むきだけだからね」
「あ、はい」
思わず一息吐くと気づかれてしまった。慣れていないとジャガイモの皮むきだけでも時間がかかる。この分だと完成するのは何時間後だろうか。結局半分以上お母さんにやって貰ったし。
「あと、ジャガイモの芽には毒素があるから、取るのを忘れないでね」
包丁の角でさっと取っていく。真似をしてみるが、どうしても危なっかしい手つきになる。
「どうしても難しかったら。ピーラーを使ってもいいからね」
お母さんが引き出しから、ピーラーを取り出して渡してくれる。確か、野菜の皮を剥くための道具だ。
「おかっ……じゃなくておばさんは使わないんですか?」
「私はこっちの方が慣れてて早いから」
「……じゃあ、私も包丁で頑張ります」
どうせならお母さんと同じように出来るようになりたい。慣れれば出来るようになるらしいし、このまま包丁で頑張ろう。
受け取ったピーラーを置いて、もう一度包丁で芽を取っていく。
「このっ……痛っ!」
包丁がジャガイモから外れて抑えていた親指に少し刺さった。吃驚してジャガイモを落としてしまう。
「大丈夫!?」
気づいたお母さんが私の手を取る。そして血が出る指をくわえた。
「絆創膏持ってくるから待っててね」
お母さんは私の指を離すとリビングの方へと走っていく。救急箱から絆創膏を取り出すと、戻ってきて指に巻いてくれた。
「気をつけてって言ったのに」
「ごめんなさい……」
大人しくピーラーを使っておいた方が良かったかもしれない。
「まあ、最初のうちは仕方がないかもしれないけどね」
お母さんはそう言って小さく笑う。
「おっおばさんも最初は指を切ったりとかしたんですか?」
「勿論、誰だって最初は失敗するわ」
「そうなんだ……」
慣れれば上手に出来ると言っていたお母さんも慣れるまでは失敗したり指を切ったりしていたのか。簡単に料理を作ってしまうお母さんしか知らなかったから少し意外だった。
「それよりも指は大丈夫? 痛かったら今日は終わりにしても――」
「――やります! 最後までやらせてください!」
「そ、そう。じゃあ続けましょうか。無理はしないでね」
せっかくお母さんと一緒にいられるのだ。中途半端に止めたくはなかった。幸い少し痛むが我慢出来ない程ではない。
「じゃあ、芽を取るのは私がやるから、柚葉ちゃんはジャガイモを切ってくれる? だいたいこの位の大きさで」
そう言って、一つ切って見本に置いてくれる。
「大きく切るんですね」
「小さいとすぐに溶けちゃうからね」
なるほど大きめに切れば良かったのか。
「お兄ちゃんと作った時は食べる前にジャガイモが見る影もなかったんですけど、小さく切りすぎたからだったんですね」
「そうね。後は鍋に入れるタイミングが早かったとか、煮込みすぎたとか」
どれも心当たりがある。やはり素人二人では無理だったようだ。
見本と同じくらいの大きさにジャガイモを切ろうとする。
「危ないから指は立てない。折り曲げて抑えてね。後、安定するように最初に半分に切ったほうが良いよ」
頷いて言われた通りにする。これ以上柚葉の指を切るわけにはいかない。
「終わりました!」
「じゃあ、そのジャガイモはこのボールに水入れてつけておいてね」
言われたとおりにしてお母さんの方に向き直った。
「それじゃあ他もやっていきましょうか」
やり方を聞きながら、人参やタマネギなどの野菜を処理したり、豚肉を切ったりしていく。具材の用意だけでかなりの時間が掛かってしまった。
「料理ってこんなに時間が掛かるんですね」
「慣れれば早く作れるようになるわよ」
改めてお母さんの凄さを痛感する。今まで考えたことがなかったが作る側になったら本当に大変な作業だと分かる。
「今から続けてれば、柚葉ちゃんが大きくなって子供を持つ頃には上手くなってるわ」
「大きくなって……」
大きくなって自分の子供を持つというのは全く想像できない。もし万が一柚葉のまま大きくなって子供がいるのなら、それって誰か男の人のお嫁さんに……。
「うげっ……」
小さな声で呻く。少し想像してしまって気持ち悪くなった。男の人と結婚するとか絶対に嫌だ。
「どうかしたの変な顔して。もしかして、指か痛むとか?」
「い、いえ大丈夫です」
誤解されてしまいそうで慌てて返事をして否定する。
一瞬想像してしまったが、このまま柚葉のままなんてありえないし、心配することでもないだろう。
「それなら良いけど。じゃあ鍋に具材を入れていきましょうか」
先にタマネギを入れて透き通るまで炒めていく。その後に人参や豚肉、水を入れて温める。少し遅れてジャガイモ入れてアクを取りながら煮込んでいく。少し待ってからカレー粉を入れてとろみが出るまで煮込む。
「人によって少し違うけど、私はこんな感じ。後はこれを入れてから少し煮込んで完成」
「チョコレートですか?」
「うん。私のお母さん、悠輝のおばあちゃんの頃から、うちではカレーにビターチョコレートを入れてるの。コクが出て美味しくなるってよく言うわね」
今までお母さんのカレーを食べていたが、チョコレートが入っているのは初耳だった。しかもおばあちゃんの代からだったなんて。
「味見してみてくれる?」
チョコレートを入れてしばらく煮込んでからお母さんがスプーンを差し出しながら言ってきた。受け取って一口すくって口に入れる。
「……美味しい」
お母さんのカレーの味だった。いつも食べてきた味。再現したくても出来なかった味がそこにあった。
「良かった。このカレーは持って帰っていいから、和矢君と一緒に食べなさい」
「え、良いんですか?」
「柚葉ちゃんのママはお仕事で忙しくて大変でしょう。せっかく作ったんだからご家族で食べなさい」
「家族で……」
自分にとっての家族は目の前にいるお母さんと今は仕事に行っているはずのお父さんだ。でも、今は柚葉だからお兄ちゃん達が家族なのだ。出来ればお母さんと一緒に食べたかったが。
「それじゃあ、お言葉に甘えて持って帰ります。鍋は次に来たときに返せば良いですか?」
「それでいいわ」
持って行けるくらいに鍋が冷めるのを待って柚葉の家に戻ることにする。
「お邪魔しました。次は……」
「次は明後日の木曜日にしましょう。それでいい?」
「はい、お願いします」
家を出て、隣にある今の自宅に戻る。ドアが開けられなかったので肩でインターホンを鳴らす。
「はい」
「お兄ちゃん開けて」
お兄ちゃんに開けて貰って中に入り、鍋を台所のコンロの上まで持って行く。
「それどうしたんだ?」
「おかっおばさんと」
「俺しかいないから訂正しなくて良いよ」
「うん。お母さんと一緒に作ってきた」
「そっか」
そう言ってお兄ちゃんが鍋の蓋を開けて中身を確認する。
「カレーか。昨日も食べたよな……」
「違うよ」
お兄ちゃんの言葉を否定する。確かに昨日の夜は自分たちで作った微妙な味のカレーを食べた。でも。
「昨日のカレーとは違う。だって――」
昨日作った物とは全然違う。このカレーはお母さんと二人で作ったものだから。
「――これはお母さんの味の俺が大好きなカレーなんだから」
そう言って、私はお兄ちゃんに向かって微笑んだ。
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