第7話 悠輝の気持ち
「また明日学校でね」
「うん。また明日」
自宅マンション前で薫子と別れる。離れては振り返って手を振る薫子が見えなくなるまで手を振り返して見送った。
正面玄関から入ってエレベーターに乗る。前は階段で上ることも多かったが、今は体力的に無謀。エレベーターがあって本当に良かった。
まだ、お兄ちゃんも帰ってないだろうな。そんなことを考えながらエレベーターが到着するのを待つ。少しして目的の5階に辿り着いた。
「ととっ、すいませ……」
エレベーターを降りようとして誰かにぶつかりそうになった。確認すると、目の前に見知った女性が、
「あら、柚葉ちゃん。そういえば退院したのよね。おめでとう」
「あ、……ありがとうございます」
やっぱり、お母さん相手に敬語で話すのは変な感じがする。今は柚葉だから仕方がないとはいえ、違和感が大きい。
「これから悠輝のところに行くから、失礼するわね」
そう言って、お母さんは入れ替わりでエレベーターに乗り込む。
「あっあの、ゆずっ悠輝はまだ目覚めませんか?」
「残念ながら、まだなの。でもきっとすぐに目を覚ますわ」
「そっそうですね。絶対すぐ目覚めます! 私もまたお見舞いに行きます」
「ええ、悠輝もきっと喜ぶわ」
そう言って母さんは1階に降りていった。しばらくそこに留まってから、気を取り直して507号室の自宅へと帰った。
「お母さん、元気なさそうだったな……」
本来ならおばさんと呼ばないといけないところだが、今は誰も家にいないので気にしなかった。それに、お母さんをおばさんと呼ぶことにどうしても抵抗があった。自分でもどうしてそう思ってしまうのかは分からないが。
「今は、考えても仕方ないか」
お母さんを元気づけるには悠輝が目を覚ますしかない。それは自分でも望んでいることだが、何か出来ることがあるかと言われればどうしようもないのが現実である。かといって柚葉になっている自分が励ましても、あまり意味はないだろう。
考えるのを止めて別のことをする。とりあえず今日出た宿題を片付ける。一時間も経たずに終わってしまった。
まだ時間的にお兄ちゃんも帰ってこない。リビングでテレビを見ていても怒られないだろうが、特に見たい番組があるわけでも、面白そうな番組がやっているわけでもない。
「あ、そうだ」
本棚を確認する。あまり勝手にいじりたくはないが、今回は必要なことである。漁っていくと目的の物が見つかった。
「これが、シックスティーンとかいう雑誌か……」
今日の昼休みに話題に出ていた雑誌である。柚葉も普段から会話に参加しているなら持っていると思ったのだ。
バックナンバーを引っ張り出して、ベッドに寝転がって読んでいく。分からなかった会話の内容をがようやく分かってきた。
ページの隅々逃さず読み込んでいく。どの辺りが話題に上がるか分からない。ちゃんと理解しておかないと。いつまでも今日の調子では、分かっていないのがいつかはばれるだろう。最悪の場合、それが原因ではぶられる可能性もある。自分が柚葉になっている間に友人関係を崩す訳にはいかないのだ。
そうやって、しばらくの間雑誌を読み続けた。
「何やってんだ?」
声を掛けられて、視線を上げるとお兄ちゃんがいた。
「あれ? いつの間に帰ってきたの?」
「さっきだよ。声かけても反応がないから寝てるのかと思って、入ってきたら何か読んでるし。そういうの興味あったのか?」
そう言ってお兄ちゃんが読み終えて積み上げた雑誌を指さした。
「興味がある訳じゃないけど、分かってないと会話についていけないというか」
「苦労してるんだな」
お兄ちゃんが頭をぽんぽんしてくる。
「大変だったんだよ! 分からないこと分かってる体で話さないとだし」
「お疲れさん。まあ、戻るまでの辛抱だろ」
そう言ってまた頭をぽんぽんされる。さすがに少しうっとうしいので手を払いのけた。
「パパとママはまだ?」
「どうだろう。母さんはそろそろ来るんじゃないの。柚葉に栄養あるもの食べさせるって張り切ってたし」
「それってつまり……」
「また、あのレベルの手料理が出てくる」
思い出しただけで吐き気がした。毎日あんな物を出されたのでは堪ったものではない。
「どうにかならないの?」
「こればっかりはどうしようもない。今はここの家の子なんだから諦めろ」
そう言ってお兄ちゃんは部屋から出て行った。
うう、お母さんの料理が懐かしい。子供が言うのも何だが、お母さんは調理師の資格も持っていて、作る料理も美味しかった。悠輝が目を覚ましていれば幼馴染みとして夕飯を一緒に頂くことも出来ただろうか、現状では無理だろう。
「せめて、自分で作ろうかな」
しかし、調理実習以外でまともに料理などしたことはない。ちゃんとしたものを作れる気はしなかった。
いや、やるだけやってみよう。帰ってきたとき料理が出来ていれば作るのを諦めてくれるかもしれないし。
決意して部屋から飛び出し、柚葉の部屋の正面にあるお兄ちゃんの部屋に入る。
「どうした?」
お兄ちゃんが不思議そうな顔でこっちを見てきた。
「一緒に夕飯作ろう!」
「…………本気か?」
勢いよく言うと、お兄ちゃんがしばらく固まってから聞いてくる。
「本気だよ。 調理実習くらいしか料理したことないけど、多分あれよりは美味しく作れるよ!」
聞いてから、お兄ちゃんはしばらく考え込んでいるような様子だったが、頷いてくれた。
二人で台所まで移動して、冷蔵庫を漁る。昨日たくさんの食材を買い込んでいただけあって十分揃っている。
「簡単そうなところでカレーかな?」
「まあ、それくらいなら作れるか……」
棚からカレー粉を取り出す。箱の裏面に簡単な作り方が書いてあった。
「はっ始めるよお兄ちゃん」
「おう、怪我しないようにな」
二人でたどたどしく調理を開始した。
「えっと、まずは……」
箱の裏面に書かれている通りに進めようとする。先に野菜の皮を剥いて適当な大きさに切る。鍋の方はとりあえずお兄ちゃんに任せて具の用意をする。
鍋が温まってきたので順々に切り分けた具材やカレー粉を入れていく。時々味見をしながら出来る範囲で調整。慣れない手つきでどうにか作っていく。
そして、長い時間を掛けて一応カレーは完成した。
「これって成功……?」
「まあ、食べられるだろ……」
味の調整やルーのとろみを増やすために、水を足したりカレー粉を足したりと繰り返している内に、用意した大きめの鍋からこぼれ落ちそうな量になってしまった。
人参が硬いと煮込んでいる間に、ジャガイモは崩れてしまい跡形もない。味の方も不味くは無いのだが、何となく味気ない。隠し味的な物が必要だったのかもしれない。
「昨日の料理よりは全然良いけどさ……」
何だろう求めていた味と全然違う。お母さんのカレーはもっと美味しかった。それに自分で作ってみると、料理を用意する大変さを痛感した。今まで当たり前に用意されていた美味しい料理は手の届かない所にある。
「また食べたいなぁ……」
小さな声で呟く。せめて、自分で再現できたら。
「……お母さんに教えて貰えないかな」
頼んだら教えてくれるだろうか。自分のことを、悠輝のことを心配して疲れ切っているお母さん。そうだ、気分転換になるかもしれない。もしかしたら、自分と居ることで少しは気持ちが楽になるかもしれない。だって、体はどうあれ心は悠輝なんだから。きっと、お母さんも何かを感じ取ってくれるはずだ。
そう考えて、一度頼んでみることを決意した。
「料理を習いたい?」
「はい、お願いします!」
勢いよく頭を下げる。
翌朝、少し早く家を出て元自宅である508号室を尋ねた。目的は、お母さんに料理を教えて貰えるように頼むことだ。
朝から押しかけるのは良くないと思ったが、今の勢いで頼まないと、尻込みしてしまいそうだったので朝から訪れた。学校帰りだと、入れ違いになってしまう可能性もあったし。
「ごめんなさい。悠輝のところにも行かないといけないし……」
「空いてる時間だけでも良いので!」
もう一度頭を下げる。目を合わせるのが怖くて、足下に視線がいっているのでお母さんの表情は見えない。やっぱり断られてしまうだろうか。駄目元ではあっても断られるのは悲しい。
「うーん……分かったわ」
「えっ!? じゃあ」
勢いよく頭を上げる。
「少しの間だけでいいなら、夕方とか学校が休みの日とかに少しだけ教えてあげる」
「あ、ありがとうございます」
お母さんに料理を教えて貰える。そのことが何故か凄く嬉しかった。
「材料とか用意しておくから、学校が終わったら来て」
はいっと、大きな声で返事をした。学校が終わるまで待てそうにない。夕方がとても楽しみだ。
「柚葉ちゃん今日は機嫌が良いね」
隣の席に座る薫子に声を掛けられる。
「何か良いことあったの?」
「……ううん、特に何もないよ」
薫子から見たら機嫌が良いように見えたのだろう。多分、お母さんに料理を教えて貰えることになったからだ。しかし、どうして嬉しいのかと聞かれると、上手く説明することが出来そうにない。なので黙っておくことにした。
「えー教えてよ」
「次は移動教室なんだから早く準備しよう」
今はちょうど1時間目の国語が終わったところで、次の時間までの小休憩である。2時間目は音楽なので、音楽室まで移動しなくてはならない。
「柚葉も薫子も早く行こう。音楽の佐久間先生遅れるとうるさいよ」
「ほら、薫子行こっ」
「ま、待ってよ!」
教室の入り口のところで田中が呼んでくれたので、上手く話を逸らすことが出来た。
5人で一緒に音楽室まで向かう。柚葉になってから、いつも薫子や他の3人と一緒で一人になれる時間もない。女の子は集団行動が好きだと何かで聞いたが、四六時中一緒だとさすがに疲れてしまう。トイレすら一人でいけないほどである。
音楽室に入ると、先に着いていたクラスメート一人がリコーダーの練習をしているのが目に入った。
「あっ!」
よくよく見れば、薫子達も持ってきている。入院前は使っていなかったので気づかなかった。
「どうしたの柚葉ちゃん?」
「リコーダー忘れてた……」
忘れたといっても教室のロッカーに入っているはずである。取ってくれば問題ない。
「私、取ってくる」
「一緒に行こうか?」
「ううん。遅れると悪いし、先生に聞かれたら説明しておいて」
薫子が同行を申し出てくれたが、断って一人で教室に戻る。同じ階なので別に体力的な心配はない。わざわざ一緒に遅れることもないだろう。
教室まで行って、自分のロッカーからリコーダーを取り出す。柚葉のリコーダーを勝手に使うのは、もしかしたら本人に怒られる気もしたが、今悠輝のリコーダーを使うわけにもいかないし仕方がない。逆に自分と間接キスになってしまうし。
「急がないと。……わっ!」
リコーダーを握りしめて教室から出ようとする。そこで入ってきた人物ぶつかってしまった。そのまま尻餅をついてしまう。
「いったぁ……」
「わりぃ。前見てなかった」
見上げてぶつかった相手を確認すると、同じクラスの男子だった。名前は石井当麻。悠輝の頃はよく一緒に遊んでいた。
当麻が手を差し出してくれたので、その手を取って立ち上がらせてもらう。
「ありがとう」
「……おう」
素直にお礼を言うと当麻は目線をこっちから逸らして返事をした。
「とうっ石井君まだ教室にいたんだね」
「まあ、ちょっとトイレ」
「そっか……急いだ方が良いよ。もう始まる時間だし」
「……ああ」
悠輝の時みたいに楽しく話せたら良かったのだが、さっきから目線すら合わせてくれないし、無理そうだ。まあ、今は友達でも男同士でもない間柄だから仕方ないといえば仕方がないかもしれない。
「じゃあ、私は先に行くから、石井君も早くしなよ」
会話を続けるのを諦めて教室から出ようとする。
「高木」
後ろから当麻に呼び止められる。まだ呼ばれ慣れていないので二人じゃなかったらそのまま行ってしまったかもしれない。
「何?」
「……悠輝って、そのどうなんだ? いつ頃治りそうというか。まだ寝たままなんだろ?」
「あっ……」
心配してくれてる人がいるというのが、とても嬉しかった。意識が戻っていないから仕方がないかもしれないけれど、両親以外でお見舞いに来ている人を見かけなかったので、内心少し寂しかったのだ。
「いつ起きるか分からないんだ。でも…………きっとすぐに起きてくれる」
悠輝の体が、柚葉がいつ目を覚ますのか。ちょっとだけ不安になってきている。すぐに起きてくれるというのは、自分自身の願いだ。
「……じゃあ、起きたら俺の方にも教えてくれよ。悠輝と高木は幼馴染みだし連絡早いだろ」
「うん。分かった」
そう言って今度こそ教室から出ようとする。そこで言っておきたいことに気づいて、もう一度振り返った。
「悠輝のこと心配してくれてありがとう」
言われた当麻は少し驚いた顔をしていたが、気にせずに今度こそ教室を後にする。
自分の口から、直接お礼は言えない。それでもどうしてもこの気持ちを伝えたかった。だから、今は柚葉の声を借りさせてもらった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます