第10話 reading while reading

「もよちゃん、もよちゃん」

 ちづちゃんが、ふふふ、といういかにも女の子と言った感じの笑顔でわたしに手招きをする。

 はいはい、という感じで教室のちづちゃんの席の所へ行き、ちづちゃんの前の席が空いてたので、すとっ、と座る。

「なになに?」

 わたしも少し女の子っぽい反応でちづちゃんに絡む。

「これ」

 ちづちゃんが差し出したのは本屋のブックカバーがかかった文庫本だ。

「前に話してた本だよ。もよちゃんは走るのが好きだからこの本いいかもって言ってたやつ」

 あー、思い出した。全然売れてないけれどもちょっといい感じの本を見つけたってちづちゃん確かに言ってた。

「一応、恋愛ものっぽい感じもあるし、走るシーンも結構あるし、わたしは好きなんだけど、もよちゃん読んでみる?」

 ちづちゃんから本を受け取ってタイトルを見る。

”月影浴2”

 げつえいよく。ちょっといい感じのタイトルだと思う。けれども、”2”となっているってことは、第二巻ということなんだろうか。

「ちづちゃん、これって2冊目?1巻目は?」

「ごめんね。どうやら余りにも売れてない本だからそもそも本屋さんに置いてないみたいで。たまたま2巻だけ置いてあって手に取ってぱらぱら読んでみたら結構面白かったから迷ったけれどもいいかな、って思って2巻目を買っちゃったの」

 ふーん。どうなんだろう。

「でもね、一応1巻目のあらすじと登場人物の解説はあるから何とか読めるよ」

「そっか。じゃあ、大丈夫かな」

「あの。もよちゃん、わたし本当は本を人に勧めるのってちょっと申し訳ないかな、って思ったりもするんだけど」

「え、何で?」

「だって、自分の主義主張を押し付けるみたいな感じにならないかな?」

「わたしは、ちづちゃんの主義主張なんだったら是非読んでみたい」

「ありがとう」

 ちづちゃん、照れてる。やっぱり、可愛い。


「さて、と。夜も更けてきたし、今日のとっておきの楽しみを始めるかな」

 わたしはちづちゃんから借りた”月影浴2”を布団の中に持ち込み、パラパラと読み始める。今日は金曜日、明日は学校は休み。けれども、

 あらすじはこんな感じ。

 主人公は小田かおるくん、高校2年生。1巻は1年生からスタートするらしいのだけれども、1巻で彼は以前から気になっていた同じクラスの日向さつきちゃんに「日向さんが、好きだ」と告白する。学生だから、という古風な理由から、付き合うのではなくって16歳、っていう年齢を真摯に生きていくために、2人は人間としての成長を互いに目指す同志のような関係になる。そして、2人が高校2年生になったのが、この本。

 こんな感じの、物語が進む。

 申し訳ないけれども、これはわたしの読書なので、わたしのペースで読み進める。なので、いきなり途中の章から始まったり、章を飛ばして読んだり、新登場人物がぶつっ、と脈絡なくいきなり出て来たり、といったことがないとも限らない。

 他人の読書の実況中継のごときものなんて、多分おそろしくつまらないものかもしれないけれども、どうかご事情をお察しいただき、お付き合いいただけると、わたしとしては嬉しいなー、って感じなんだけれども。


・・・・・・・・・・・・


第2章  新しい季節


その1


 高校2年生のスタートは本当に順調だった。高1の終業式に皆で告白し合った今後の目標も意識しながら、学業にも部活にもそれ以外の17歳・16歳の人生の語らいにも、とても朗らかに取り組めた。

 陸上部走り幅跳びチームは3年生でチームリーダーとなった武田さんをはじめ、2年生は相変わらず僕1人だけだけれども、新1年生が3人加わり、毎日賑やかにジャンプしている。

 なんだかゴールデンウイークに入るのが惜しいくらいの充実した日々だった。それでもやはり待ち遠しかった5月1日の朝を迎えると、僕は目覚まし時計が鳴る直前にぱっと起きた。

 お母さんはさつきちゃんのおばあちゃんのお通夜以来、さつきちゃんのことがいたく気に入ったようだ。今時珍しい子だ、としきりに言っている。ただ、そのさつきちゃんとは言え、僕が女の子と2人だけで遠出するという、今まであり得なかったことに戸惑いはあるようだ。僕はあくまでも‘自主トレ系マラソン部’の活動であり、純粋にジョギングをしに行くのだ、と少しでも安心させようと努力した。


 鷹井駅で待ち合わせて僕とさつきちゃんは始発電車に乗り込んだ。白井駅までは去年のロードレースの時と同じ行程だ。白井駅からはトロッコ電車に乗り換えた。朝早い時間だったけれども、観光客もぱらぱらと見える。僕とさつきちゃんはトロッコ電車の座席に並んで座り、窓も何もないむき出しの車両から下に見える美しい峡谷を眺めた。

‘連れてって’と一応お願いされたのだから、と、僕はちょっと恰好をつけようとネットで下調べをしていた。ジョギングコースの話をあれこれとさつきちゃんに教えるつもりで話していたのだが、

「かおるくん、あんまり喋ると疲れるよ」

 突然、さつきちゃんからそう言われ、え、僕、何かさつきちゃんの気に障ることでもしたかな、と一瞬焦った。僕の狼狽した顔を見てさつきちゃんはにっこり笑った。

「ごめんね、ちょっとぞんざいな言い方で。でも、本当に電車の中では極力体力を温存しておいた方がいいと思うから・・・」

 なんだか、プロっぽい発言だ。確かにさつきちゃんほどのランナーならばジョギングとはいえ、万全の状態で今日のコースに臨みたいということなのかもしれないけれども。


その2


 トロッコ電車沿線の中間地点、‘欅が原’はその名の通り、欅林が清涼感溢れる雰囲気を作り出している美しい駅だった。クラブハウスはその駅を出た目の前にあった。

 クラブハウスの入り口に男性が立って手を振っている。その男性が僕たちに声を掛けて来た。

「よく来たね。待ってたよ」

 ん?予約でも入れたのだろうか?僕らが来ることを事前に知っている?

「こんにちは、今日はよろしくお願いします」

 さつきちゃんもやけに親しげに答えている。

 男性は僕たちのお父さんくらいの年齢に見える。またこちらに声をかけてきた。

「さつき、元気だったか?ばあちゃんの葬式以来だな」

 え?さつきちゃんの親戚?どういうことだろう。

「伯父さん、こちらは同じクラスの小田かおるくん。いつも一緒に走ってくれてるんだよ」

 僕は、思わずどう反応していいか分からなかったけれども、とりあえず、こんにちは、よろしくお願いします、と挨拶した。

「小田くんか。よろしくお願いします。陸上部なんだってね?」

 事情があまり呑み込めない状態だが、会話は続く。

「はい、走り幅跳びやってます。今日は楽しみにしてきました」

 さつきちゃんが、ふふっ、と笑ってようやく解説をしてくれた。

「伯父さんはわたしのお母さんのお兄さんでここのクラブハウスの管理人なんだよ。わたし、中学校の頃から自主トレでよくここに来て、コースを走らせて貰ってて。ちょっと、かおるくんを驚かせてみたくて」

 さつきちゃんも人が悪い。でも、伯父さんの方がもっと人が悪かった。

「小田くんはさつきの彼氏なのかな?」

 さつきちゃんはこの程度では特に動じることもなく、欅の木々を眩しそうに見ている。

「いえ、あの、そんなんじゃありません・・・・」

 僕の歯切れの悪い答えに伯父さんは、え?そうなの?と残念そうな顔をする。

「小田くんよ。自分の姪の自慢になって申し訳ないが、さつきはいいよ。料理も上手いししっかりしてる。それに、結構可愛いだろ?小田くんもそう思わないかい?」

 正直、ちょっと困った伯父さんだな、と思う。ここまで伯父さんが言うと、さすがにさつきちゃんも困ったようで、伯父さん、ちょっとちょっと、という感じのことを言った。

 でも、なぜか僕はなんだかとてもストレートに会話をしてみたい気分になった。

「あの・・・さつきさんは、料理も上手だし、性格もとても清々しいし、素晴らしい女性だな、と思います。普段から見ててそう、思います」

 伯父さんは、おっ?という感じで僕をじっと見る。さつきちゃんは、えっ?という感じでびっくりしてしまって反応が止まってしまっている。僕は一旦口に出したことなので最後まで言い切ろうと腹を決めた。

「だから、彼とか彼女とかそんなんじゃなくて、さつきさんを人間として尊敬してます。同じ高校で良かったな、って思ってます」

 伯父さんは、ふーん、と唸って僕の答えに感心しているようだ。でも叔父さんはそこで終わらずに更に意地悪を仕掛けてくる。

「小田くん、なかなか男らしいな。感心したよ。

 ところで、さつきが‘可愛い’ってところには何のコメントも無しかい?」

 うっ、と僕は一瞬躊躇したが、えーい、はっきりついでに言ってしまえ、と勢いに任せた。

「とても可愛い、と思います」

 さつきちゃんはびっくりしたまま顔から首の辺りまで真っ赤にしている。

 そこへ伯父さんが追い打ちをかける。

「さつき、小田くんはこんな風に言ってくれてるぞ。何か言ってあげたらどうかな?」

 さつきちゃんは珍しくもじもじした女の子らしい表情と仕草をしている。ようやく喋れるようになったのか、俯き加減で小声で言った。

「かおるくん、ありがとう・・・」

 それから、顔を少し上げて、赤らめた表情でそっと僕を見てほほ笑んだ。

 伯父さんは僕たちの青春ぽい佇まいを見て、豪快に笑った。

「小田くん、君はいい男だな。安心したよ。白状すると妹から電話があってね。大丈夫だとは思うけれど若い2人だから、間違いが無いように気を付けてやってくれ、って頼まれてね。さつきの色香に迷ったふにゃふにゃした男だったらどうしようかと思ってたんだよ。でも、2人の初心な様子を見てると俺たち大人の方がよっぽど厭らしい心持だよな。許してくれよ、小田くんよ」


その3


 着替えてストレッチを始める。さつきちゃんが今までに見たことの無いくらい入念にストレッチをしている。僕はちょっと面喰った。

「かおるくん、きっちりアップしておいてね。それから、財布は要らないけど小銭を少し持って行ってね」

 コースの途中に自販機でもあるのだろうか?


 僕たちが準備を終える頃までに何人もクラブハウスにやって来たが、皆ジョギングをするといった軽い雰囲気ではない。服装もそうだけれども、腕や足の筋肉の付き方が、長距離走を専門とするアスリートのそれだ。この間見せて貰ったパンフレットの長閑さに対し違和感を覚える。

 そして、コースの入り口に立った時、僕は自分の甘さと同時にさつきちゃんのストイックさを知ることとなる。

「・・・これは、上級コース?」

 それはどうみてもジョギングコースではない。いわゆるトレイルランニングと呼ばれる競技のコースにしか見えない。人が走れる幅は確保されてはいるが、‘道なき道を行く’といった雰囲気の険しさだ。しかも、コースの入り口からして勾配がかなりきつい。

「これはね、番外編というかエクストラコースだよ。ガイドブックにも載らない裏メニューというか。ちょっときついけど、とてもきれいな自然を体感して走る、っていうコース。さっきクラブハウスに来てた人たちはここじゃなくて上級コースを走るみたいだったね」

 さつきちゃん話が違うよ、と言いたくなったが僕は心を静め、冷静に質問を続けた。

「さつきちゃんは、中学生の時にここを走ってたの?」

「うん。ソフトボール部の自主トレとか、あと、落ち込むことがあった時とか・・・正確に言うと小学校の時からだよ。伯父さんに先導してもらって。小学校の時は歩くことから始めて徐々に走れるようになったけど・・・」

 これでよく分かった。さつきちゃんがあんなにきれいなフォームで走れるのはここを繰り返し走り込んだからなのだ。平坦な道よりも、階段や上り坂を走る方がきれいなフォームが身に着くというのは本当らしい。

「かおるくん、行こう?」


その4


‘どこまで続くんだろう・・・・’

 延々と続く急勾配になんだか頭が朦朧としてくる。先を走るさつきちゃんは時折振り返って僕のペースを確認する。

「かおるくん、後もう少しで勾配が緩くなるから頑張って」

 そう声をかけるさつきちゃんも額に汗を滲ませ、息が上がっている。けれども、さつきちゃんは本当に楽しそうに走る。振り返るその顔は常に笑顔だった。

 確かに、素晴らしい、まさしく自然と一体となって走る美しいコースだ。何というか、‘人間用の、けもの道’といった感じで、自分が狸かなにか小動物になって野山を駆け巡るようなユーモラスな楽しさも感じる。ただ、トレーニングのためのコースとしては度を過ぎるかどうかといった境目のぎりぎりのレベルだと思う。

 鳥のさえずりがかえって静けさを深め、木漏れ日がさつきちゃんの背中にまだら模様の光と影を作っている。今日は現代の5月1日、という認識も曖昧になり、過去と未来とが混在するのが当然のような気すらしてくる、そんな場所だ。僕のおじいちゃん・おばあちゃんやさつきちゃんのおばあちゃん、古い木造の家のおばあちゃん、そして掛け軸のあの人。今この瞬間、過去に別れたはずの人たちも山道のどこかを歩いているんじゃないだろうかと想像する。

「かおるくん、あそこが最後の難関。頑張ろ!」

 さつきちゃんが視線を向けた先に、石段が見えて来た。


その5


 苔の生した石段はほぼ垂直ではないかと思えるくらいに急だった。さっきまでの自然に近い木立ちとは違い、階段の両隣には樹齢数百年をゆうに超えるであろう真っ直ぐに伸びた杉の木が立ち並ぶ。そして、石段の登り口には木で作った鳥居があった。こんなところに神社があるなんて、ちょっと不思議な感じがした。

「かおるくん、気を付けて」

 と言いながら、さつきちゃんはもう階段を駆け上がっている。僕も遅れまいと続くがおっかなびっくりで思うように足が出ない。けれども、無理やりにさつきちゃんに着いて行くうちに、リズムが出てきてちょっとだけ足が軽やかになった。

 ただ、この石段もどこまで続くのだろう、というくらいに長かった。頂上は見えているのに、着きそうで着かない。さすがのさつきちゃんもややペースが落ちてきたかな、と思った瞬間、たっ、と一歩大きく踏み出してさつきちゃんの姿が見えなくなった。

‘消えた?・・・’

 何が起こったのか、と思考を巡らすうちに、突然目の前に石畳の参道が現れ、あっ、という間に僕も‘着地’した。

 何のことはない。石段があまりにも急なので、登りきって平坦な参道に入った瞬間、下からは消えたように見えただけなのだ。でも、それはこの神社ができた頃の古の人たちにとってとても神秘的な光景だったろうと思う。僕自身にとってもやはりさつきちゃんが‘消えた’ことは驚きであり、神秘に触れたような瞬間だった。


 石畳の向こうの社殿は、年月の流れによる綻びはややあるものの整然とした佇まいできちんと手入れが行き届いているという雰囲気がある。

「山奥のお宮さんなのにきれいにしてあるね」

 僕が何気なく言うとさつきちゃんからこんな返事が返って来た。

「伯父さんがたまに来て掃除させていただいてるよ。風の強い日の後なんかは折れた木を片付けさせて頂いたり。

 本当はお社も直したり普請したりできるといいんだけれど、お金がなかなか集まらないみたい」

 僕たちは社殿の前へ進み、お賽銭を上げた。小銭の意味がようやく分かった。

 2人して柏手を打ち、頭を垂れる。

「かおるくん、ちょっとこっちに来て」

 さつきちゃんに言われるままに境内の敷地を横切り木立ちの切れ間の辺りまでやって来た。僕は思わず感歎の声を上げた。

「おわっ・・・!」

 自分で出した声ながら素っ頓狂だとは思ったけれども、その景色はそれでも大げさではないほど見事なものだった。

 木立ちの切れ間から晴天の日差しが降り注ぐ崖の遥か向こうに、この場所と同じ日差しを浴びて煌めく海があった。

 隣県の半島から続く、僕たちの県の湾。まさかこんな所から見えるなんて!

 僕は本当に感動し、隣にさつきちゃんがいることも一瞬忘れて、

「凄い・・・」

と1人呟いていた。

「きれいでしょ?」

 珍しくさつきちゃんが自慢げに僕に語り掛ける。

 僕はさつきちゃんに顔も向けず、海を見つめたまま、うん、きれいだ、と返事をした。

「伯父さんは競歩の選手で国体にも出場したんだよ。大学時代のコーチからこのコースをトレーニング用に教えて貰ったんだって。昔は山伏や修験者が修行に使った古道なんだって」

 ああ、なるほど。

「やっぱり・・・とてもスポーツ用のコースには思えなかったよ」

 僕が呆れたように言うとさつきちゃんは、ふふっ、と笑って話を続けてくれた。

「小学校の時に初めて伯父さんに連れられて登りきった時、この景色を見てわたし本当に嬉しくなって。それからは落ち込んだ時なんかこの景色を見たくて何度も何度も走ったよ。

 かおるくんは景色のご褒美も知らないのに延々とよく一緒に走ってくれたね。偉い!」

 さつきちゃんは僕に秘蔵の景色を見せることができて多少興奮しているようだ。

 それから僕らは腰を下ろした。僕は胡坐で、さつきちゃんは体育座りで。2人で呆けたまま海をしばらく見続けた。去年市の大会で3位になった時は自分のその時点での全てを出し尽くすジャンプができて、30分程フィールドで呆然と座り呆けたが、その時と同じ感覚だ。

「かおるくん」

 さつきちゃんが不意に話しかけてきた。僕はまだ呆けたままだったので、ん?とよく分からない相槌を打った。

「さっきは伯父さんが色々と変なこと言ってごめんね」

 ああ、なんだ、そのことか。自分としては変なことというよりは、なんだか自分の心の内を代弁するようなことを伯父さんが言ってくれたので実はありがたいと思っていたのだけれど。

「ううん、伯父さん、面白い人だね。僕も腹の中をうまくひきだされてしまって」

 僕自身は、さつきちゃんが‘可愛い’というのがもっとも強く腹の中で思っていることなのだけれど、さつきちゃんはどう思っているのか。

 さつきちゃんにしばらくの沈黙があった。ぽつり、と語り出す。

「わたしね・・・おばあちゃんやお母さんの生き方を見て来て、やっぱり結婚して子供を産んで、っていうのが自分にとっては凄く大事なことで・・・

 でも、そのことと将来の目標とか部活とか友達との時間とかがどんな風に結びついて来るのかなって、分からなくなることもあって・・・」

 ちょっと意外な感じがした。そういうことを意識しないのがさつきちゃんらしさだと僕は勝手に思い込んでいたようだ。さつきちゃんだって、今日、17歳になったばかりだ。色んなものが確固として固まっていなくて当然だと、今、改めて認識する。僕は何か気の利いた言葉を選ぼうとしたけれど、無理だった。なので、さっき伯父さんと話した時のように、ストレートに話すことにした。

「全部、つながってると思うよ。今日、こうやってこの景色を見たことも含めて全部。

 もしかしたら、僕とさつきちゃんが結婚することだってあるかもしれないじゃない」

 当然、びっくりした顔をするだろうな、と思ったけれども、不思議なことにさつきちゃんは表情を変えていない。まるで変わりない日常会話のような調子で僕の話の後を繋いだ。

「・・・確かに、かおるくんとわたしが結婚する確率って、かなり高いと思う。

 どう考えても‘縁がある’としか思えないから・・・」

 驚愕したのは僕の方だった。ただ、さつきちゃんの冷静とも言えるような話しぶりを見て、僕の方にも胸ときめいたり舞い上がったりするような余地が全く与えられていないことも覚らざるを得なかった。

「わたし、ほんとに、そう思う。だから、おばあちゃんは‘惚れた腫れたじゃ難しい’、って言ってくれたんだと思う。

 もし・・・今の内からわたしと結婚する、ってことが分かってるとしたら、かおるくんのこの後の人生って楽しい?それとも苦しい?」

 さつきちゃんの言っている意味は分かる。けれども、自分の凡庸な心は日向家の女性たちの真っ直ぐな感覚を今この瞬間に全面的に受け入れるには容れ物が小さすぎる。

「もし、わたしとかおるくんが結婚する、っていうことを将来の道しるべにしてこの先生きていくとしたら、色んなことを絡め合わせてその方向に持っていくように考えるよ、きっと。かおるくんはそれでもいい?」

 ストレートに答える前に、ストレートに聞いてみる。

「結婚を目指すために色んなことを我慢する、ってこと?たとえば、何も考えずに遊び呆けたりしないとか、職業的な将来の夢を諦めて現実的に家庭が成り立つような仕事を選んだりとか・・・」

「・・・ちょっと、違う・・・」

 さつきちゃんはそう言ってからしばらく膝におでこをくっつけて考え、こう続けた。

「価値観が同じ人と結婚する方がいい、ってよく言うけれど、でも、人間の価値観なんてその時々で変わるよね・・・そうじゃなくて、人間の考えとはまた別に有無を言わせないような流れというか・・・

 仮にわたしとかおるくんが‘ああ、生き方が違う’ってお互いに思う瞬間があったとしても、それでもこの人と‘縁’があるんだ、って感じ続けられるかどうか、ってこと・・・」

「そしたら、相手に‘合わせる’ってことも時に必要なんじゃない?」

 僕が発した言葉はさつきちゃんが求めている次元のものではなく、非常に心の中でも‘浅い’部分の問いかけだ。でも、僕は訊かずに後悔するよりはいいと思った。さつきちゃんは僕に回答を続ける。

「日々のささやかな事では合わせてなんとかなることもあるだろうけど、それを超えた部分は合わせ続けるのは難しいと思う。

 相手に合わせる程度で済む‘2人の世界’じゃなくって、もっと強力な‘縁’の流れに身を任せられるのかどうか、ってことかな・・・

 もしかしたら一緒にいて楽しくないどころか、苦しいことばっかりかも。

 それに、おばあちゃんが言う‘惚れた腫れた’を避けてそこに向かうとしたら、その途中では男の子が女の子にしたいこととか・・・女の子が男の子にしたいこととかも多分、できないと思う」

「何?・・・その・・・男の子が女の子にしたいこととかって・・・」

「・・・例えば・・・手をつないだりとかいうことすらできないかも・・・」

 さつきちゃんは恥ずかしいのか、‘手をつなぐ’というごく柔らかい例を挙げた。さつきちゃんはそこで僕の顔をふっ、と見上げる。

「わたしは、それでも構わないんだけれど、かおるくんはどう?・・・」

 僕は思ったままのことを言ってみた。

「もし、僕らに縁が無かったら?・・・」

 え・・・、とさつきちゃんは柔らかく寂しげな表情をあらわにする。

「その時は・・・とても悲しいけれど、諦めるしかない・・・」

 僕は胸が熱くなった。さつきちゃんはさっきからの話を‘女の子’としての感情を必死に押し殺しながらしていたに違いないのだ。‘悲しいけれど’というのが思わず漏れてしまった‘女の子’としての感情なのかもしれない。僕は、恥ずかしいので、すっと立ち上がり、わざと海の方へ遠い視線を向けて言葉を吐いた。

「縁は、あるよ、きっと。

 というか、僕は、縁があって欲しい」

 言ってしまった。真にこれが縁であることを願って。

 

その6


「もしかして・・・何かあった?」

 伯父さんはさっきまでの豪快さが嘘だったかのように心配げな顔で僕たちに訊いた。何か、2人の雰囲気に出発前とは違うものを感じたのだろうか。

「いえ、何も・・・」

 僕が答えると伯父さんは今度はさつきちゃんの顔をオロオロした目で見つめる。

 さつきちゃんは一旦、僕の顔をちらっと見て、ふっ、と軽く笑ってから、

「うん、なんにも」

と伯父さんに答える。

 僕たちがコースを下ってきて伯父さんにお昼をごちそうになっている時、他のお客さんのテーブルをそっちのけで、何度も僕たちの様子を見に来る。

 事実、僕たちの間に何か特別なことも無ければ、今までと違うこと何も無かったのだから。

 単に僕たちはさっき、

‘結婚する縁かもしれないね’

と言い合っただけなのだ。結婚しようとも結婚してとも言った訳ではない。

 今までと同じ、‘惚れた腫れたではなく、彼氏彼女でもないけれど、特別な間柄’という他人から見たらなんだかよく分からない関係のままであることに変わりはない。

 ただ、とてもさっぱりした。事実、僕もさつきちゃんも、仮に違う相手だったとしても、まだ結婚するかどうか分からない異性とは本当に手さえつながないだろうと思う。

 だから、さっきのことがあっても、浮かれることも何もない。それどころか、‘恋愛ではどうにもならない’ことが‘結婚’だとしたら、今自分達が学校や家で向かい合う‘なすべきこと’をおろそかにしていると、そこにはたどり着けないだろうことがはっきりと分かり、浮かれずしっかりやろう、と妙にストイックになってしまう。

「かおるくん、今日は晩御飯も一緒で大丈夫なんだよね?わたしも今日は晩御飯の用意はしなくていいから外で食べておいで、ってお母さんが言ってくれたから」

 さつきちゃんが念押ししてくる。

「うん、大丈夫。ところで、どこか行きたい店とかあるの?」

 僕がさつきちゃんに訊いたところで、また伯父さんがすすっ、と横に来ている。

「ん?夜は‘Tダイナー’に行くんじゃなかったのか?」

 さつきちゃんが、あー、というような顔をして伯父さんを軽く睨んだ。

「あ・・・言っちゃ駄目だったのか?」

 さつきちゃんが、しようがないな、という顔で解説してくれる。

「かおるくん、ごめんね。晩のお店も‘お目付け役’がいるんだけど・・・」

 こらっ、と伯父さんが割り込む。

「せっかくうちの子が誕生祝にごちそうしてやるって言ってるのにそんな言い方するなよ」

 ごめんなさい、と軽く伯父さんをあしらってから、さつきちゃんは僕に解説の続きをしてくれた。

「わたしのいとこが洋食屋さんに勤めててシェフの修行中で。駅北のクラシカルホールのすぐ近くのお店。お母さんが伯父さんを通じて早々と根回ししてしまって・・・

 かおるくんの好みとか無視してごめんね」

「ううん、Tダイナーはフリーペーパーでも紹介されてたの見たことあるよ。行ってみたかった」

 事実、Tダイナーは鷹井市では結構評判の店だ。何度か前を通ったこともあるが、今時洋食屋さんの個店でこんなに繁盛するものなのだろうかというくらいお客さんでいっぱいのようだった。

 僕らは伯父さんへのお礼に、クラブハウスの皿洗いやら掃除やらをして午後の時間を過ごし、Tダイナーの予約時間に間に合う頃合いの電車で鷹井市への帰路についた。


その7


「かおるくん、わたしの従姉の千夏(ちか)ちゃん。千夏ちゃん、いつも一緒に走ってくれる、かおるくん」

 シェフの真っ白な制服を着た‘伯父さんの子’は若い女性だった。

 僕と千夏さんは互いに挨拶を交わす。

「かおるくん、いつもさつきがお世話になってます。自分の店のことでなんだけど、ほんとにおいしいから、ゆっくり食べて行ってね」

 凛々しく僕たちへの応対をしてから千夏さんは厨房へ戻って行った。

「女の人だと思わなかった」

 シェフ、と聞いて、男性を想像するあたり、僕はやはりまだまだ古臭い人間なのだろうか。

「千夏ちゃんは高校出てすぐにこの店で修行を始めて。今年成人式だったんだよ。立派な社会人、かっこいいよね」

 長女であるさつきちゃんにとって千夏さんはお姉さんのような、憧れの存在らしい。実際、お盆や正月に本家である日向家に親戚が集まって大勢のための料理を作る時、さつきちゃんのお母さんはもっぱら千夏さんを自分の片腕として頼りにしてきたらしい。おばあちゃんが生きていた頃は、お母さん・千夏さんがメインの調理作業をする様子をおばあちゃんがどっしりと吟味し、3人で非常に高度かつ厳しい料理の打合せが繰り広げられたらしい。さつきちゃんですらその中に入り込むのがためらわれたそうだ。特に千夏さんがTダイナーに就職してからは、「さすがプロ」と唸るしかなく、自分が補佐役に徹するしか無いのがちょっと悔しかったそうだ。

「その内に独立したい、って千夏ちゃんは言ってるけど、ほんとにそうなったらいいな。わたしも雇って貰えるかもしれないし」

 多分、これはさつきちゃんの本音ではないかな、と思う。


「ところで」

 と僕は普段とは違う文脈でさつきちゃんに切り出してみる。

「なんか、今日は僕がエスコートするイメージのはずが、かえってさつきちゃんに招待されてしまって」

「ううん・・・‘ジョギングコース’も‘Tダイナー’もかおるくんだから一緒に来てくれたと思うから。みんな‘走る’ってきいただけで敬遠してたもんね」

 いや、さつきちゃん、それは別の意味で遠慮してたんだと思うけど。とにかく、僕は話を続けた。

「それで・・・実はプレゼントは一応用意してて・・・ちょっとこういうのって本人の好みも聞かずに選ぶのどうかな、っては思ったんだけど・・・」

 そう言って、僕は、風鈴の小さな絵柄の入った、‘それ’を買った店の封筒サイズの袋を渡す。

 さつきちゃんは受け取って、開けてもいい?と僕に訊いて来る。僕は、うん、と促す。


 さつきちゃんは封筒から、その小さなガラス玉のアクセサリーを取り出す。

「わー、きれい・・・」

 手に取って照明に透かすようにしてそれを色んな角度から見る。

「市のガラス工房、知ってる?若いガラス職人の人たちに作業場と販売スペースを提供してるんだけど。そこの女性職人さんの作品なんだって」

「つけてみてもいい?」

 それはビー玉よりもやや小ぶりで中に青を基調とした一輪の花のような模様が描かれている。上の方に茶色の紐を通してあり、それを首にペンダントのようにつけられる。さつきちゃんは首の後ろに手を回し、器用に紐のフックを止める。

 白い半袖のごくシンプルなブラウスを着たさつきちゃんの首に、青いガラス玉がとても涼やかな印象を与える。ブラウスの白とも、さつきちゃんの日焼けした首筋ともとても調和がとれている。

「あの・・・ほんとに安いんだ。千円しないから」

 僕は照れ隠しにまた余計なことを言ってしまう。

「ううん、凄くきれい。ありがとう。ほんとに嬉しい」

 さつきちゃんは大きくほほ笑み、右手の掌にガラス玉を乗せてみせる。

 そこへ、千夏さん自ら料理を運んできてくれた。僕たちの様子を見て、ふうん、という感じでにっこり笑う。

「2人とも、真面目なんだね・・・」

 なんでだか分からないけれども、僕はとても恥ずかしくなった。



・・・・・・・・・・・・

「うーん、結構、面白い」

 わたしは布団の中で1人つぶやく。

 途中途中ではかなり衝撃的なエピソードも出てくるのだけれども、なんだかこの、かおるくんとさつきちゃんがほんわかした感じもありで結構いいな、と思う。こんなエピソードも出て来た。


・・・・・・・・・・・・


第4章    コンクリートの海


その1

 

 4月から5月の最初の日、さつきちゃんの誕生日までは充実しきった毎日だったけれども、久木田の自殺の記事を読んだ朝から、僕はなんとも言えない重い気持ちのままで日々を過ごした。毎日神社へお参りさせていただくときも、事実とはいえ、久木田が死んでもういない、ということがつい脳裏に浮かんだ。初夏の新緑の中も、神前にスズメバチの死骸が、まるで神様にお参りするような姿勢で横たわっているのを見て、思わず眼を閉じ、そのスズメバチに手を合わせた。

 もちろん、二度と戻らない日々を過ごしている、という気持ちは持っている。

 学業にも、走り幅跳びにも、自主トレ系マラソン部にも、家の諸々のことにも、高校生らしく、17歳らしく、取り組んではいるつもりだ。

 けれども、言いようのない悲しみ、決して取り除くことのできない漠然とした寂しさというのものに、‘17歳’になった分、余計に真摯に向き合わざるを得ない、と感じることが増えた。これは、おそらく、自分が風邪をうつしたことでおばあちゃんが亡くなったさつきちゃんも、取り組んできたことだろうと思う。

 けれども・・・自分自身の意向というものはそんなに大したことではない、と感じざるを得ないようなことが続く。

 白井市のロードレースは、通常年のパターンで5月下旬の開催に戻り、僕は陸上部の春季大会、さつきちゃんは家庭科部の近県の‘ゼミ’の集まりが重なり、参加できなかった。

 そして、7月に入り、陸上部インターハイの予選で武田さんが県4位、僕は県7位、9位と10位に3年の先輩方2人が入り、大健闘ではあったものの、悲願のインターハイ出場はならず、武田さんも静かに引退した。バトンタッチリレーの日、武田さんは僕に、今年7位ならば来年はインターハイの可能性は十分ある、頼んだぞ、と、握手してくれた。

 走り幅跳びチームの2年生は僕1人。1年生が3人いるとはいいながらも、急に人の少なくなったフィールドを眺めると、寂しさが一層込み上げて来る。


 7月下旬、夏休みに入り、2年生である僕たちは、受験に向けた補習が早々と始まった。


その2


 補習はほぼ毎日ある。3年生はほとんど部活を引退しているので、夏休み中の部活が午前からか午後からか、あるいは一年生だけとするのかは、2年生の補習のスケジュールに合わせて調整している。

 僕は午前補習で午後から部活に出ることもあれば、午前・午後補習で、夕方になってから1人でグラウンドに出てジャンプを繰り返す日もある。

 補習期間に入ると、部活の部員同士よりもクラスの5人組で過ごす時間の方が長くなった。


「海に行きたいね」

 脇坂さんが突然言い出した。午後の補習前、5人組で弁当を食べながら、あまりの暑さに参ったね、と言い合っていた時のことだ。

「でも、行けないね・・・」

 言い出した脇坂さんが、自ら否定する。確かに、海に行っている時間すらない、という毎日だし、マンガやドラマのように僕らのような年代が仲良しグループで海に行くということが現実にはそうそうないのも知っている。それに、他の高校がどうなのかは分からないけれども、この鷹井高校には水泳の授業がない。一応、200Mほど離れた隣の高校のプールを共同で使って水泳の授業をやっていた時代もあったらしいのだけれども、今は廃止されている。だから、高校に入ってから、海やプールや水着といったものとは縁遠くなっている。

「あの、さ・・・」

 僕は提案しようかしまいか迷ったけれども、脇坂さんが可哀想なので、言うだけ言ってみることにした。一斉にみんな僕の方を見る。僕はちょっと照れてしまう。

「中学校の時に読んだ小説に出て来たエピソードなんだけど・・・主人公の高校生の男の子と女の子が、学校の屋上を海に見立てる、っていう話で・・・」

「屋上を海に?」

 脇坂さんが興味津々で訊いて来る。

「どうやって?」

 遠藤さんも続けて質問してくる。僕はまだ答えるタイミングじゃないな、と考え、話の順序を組み立てる。

「いや・・・とても単純な方法で、なんだけど・・・

 だから、午後の補習が終わったら、みんなで屋上に出てみない?

 種明かしはその時に、っていうことで」

 僕の提案に、ここ最近勉強ばかりの毎日だったみんなは、面白そう、と乗ってくれた。ちょっとだけ、プレッシャーがかかってくる。


その3


 補習は午後3時に終了。まだまだ暑い盛りの時間帯だ。みんなして学校の向かいのコンビニで夏っぽい炭酸飲料を買ってから校舎の屋上に向かう。今時屋上に自由に出られる学校も少ないだろうけれども、僕らの高校はそんな数少ない希少種だ。ぞろぞろと5人で階段を上がり屋上への鉄製のドアを開ける。

「わあ・・・・」

 みんな一斉に声をたてる。

 そこには白いコンクリートがずっと広がっていた。その上には夏の日の午後の入道雲が向こうに見える青空に乗っかっている。

「確かに、海っぽい雰囲気はあるね」

 太一がそう言って、コンクリートに一歩踏み出そうとした。

「ちょっと待って」

 僕が声をかけると、みんな一斉にこちらを向く。さつきちゃんもきょとんとして、ん?というような軽い笑みを含む表情で僕の方に顔を向ける。

 僕はドアの外に一歩出て、靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。それをドアの壁際に揃えて置く。

 裸足になってコンクリートの焼ける熱を足裏に感じながら2・3歩歩いてからみんなの方へ向き直った。

「これが種明かしなんだけど・・・」

 あまりにも単純な方法に、みんな‘なーんだ’という顔をしているけれども、さつきちゃんはなんだか楽しそうに笑っている。

「気持ちよさそう」

 そう言うと、さつきちゃんもコンクリートの上に出て、靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。

 僕はその様子にちょっと、どきっ、とした。

 見たいような、見てはいけないような。裸足になる、というただそれだけの動作がなんだかとても眩しいもののような気がした。

 考えてみたら、さつきちゃんの裸足というものを今まで一度も見たことが無かった。

 日向家にお邪魔した時も、いつも靴下を履いていた。だからどうした、ということだと自分では分かっているのだけれども。

 他のみんなも真似して裸足になった。

「確かに、これはいい感じ」

 太一が足裏をコンクリートに滑らすように何歩か歩いて、感触を確かめている。脇坂さん、遠藤さんも、「熱っ!」といいながらも笑顔でコンクリートの上をすたすたと歩く。

 ぐるっ、と屋上の中央あたりから四方を見渡す。

 僕のおばあちゃんがよく、「阿弥陀様の化身」と言っていた連峰がまず目に入る。

 3,000M級の山々には万年雪が山頂に残っており、僕たちのいる地点と連峰の間の熱の空気の層を無視して、視覚だけで僕らを冷やしてくれるような気分がする。

 今度は連峰を背に、海のある方角へ顔を向けると、入道雲のお手本のような大きな雲の塊が、中空までせりあがって、これも夏らしさを盛り上げてくれる。そして、連峰や雲の周囲には本当に真っ青な空がずっと広がっている。僕らの足の裏の下にあるコンクリートの‘砂浜’は、まだまだ午後の太陽に焼かれて熱を持続している。

 僕らは5人並んで屋上の縁近くに腰を下ろし、ぼうっ、と入道雲を見上げていた。

「あ、そうだった」

 思い出したように脇坂さんが買って来た炭酸飲料をコンビニの袋から取り出す。

「何、それ、クールミント味?」

 太一が脇坂さんの飲み物を見て、反応した。

「うん、新製品・・・日野くんのは?」

 脇坂さんに訊かれて太一はボトルをみんなに見せながら答える。

「オレンジッシュ。炭酸はそんなに好きじゃないんだけどこれだけは気に入ってて」

「わたしは、天然炭酸水。普段はお茶かミネラルウォーター派なんだけど、夏場は暑くてこののどごしが堪らなくて」

 遠藤さんがそう言うと、脇坂さんが、のど越しなんて、酔っ払いみたい、とからかう。

「小田くんとひなちゃんは?」

 遠藤さんに訊かれて、なぜか僕とさつきちゃんは同時にボトルを見せる。

「・・・2人とも、サイダー?」

 脇坂さんに言われて、あれっ?と僕とさつきちゃんはお互いのボトルを見合う。

「おばあちゃんの、サイダーを使った‘クリームソーダ’を思い出しちゃって」

 さつきちゃんが答えると、小田くんも?と脇坂さんが追加で訊く。みんなさつきちゃんのおばあちゃんのお通夜の時にお寺さんが話した‘サイダーのクリームソーダ’のことを覚えているのだ。

「僕は、それと、あとは木造の古い家のおばあちゃんの‘サイダー’を思い出して。あの時は実際にはグレープの炭酸だったけど・・・」

 この5人は、今では‘木造の古い家のおばあちゃん’の話も共有している。最初、僕もさつきちゃんも、皆に話すべきかどうか迷ったのだけれども、この5人も縁あって集まっている、とはっきり感じ取れたので、分かってもらえるだろうと話したのだ。

 僕とさつきちゃんが2人してサイダーを手に取っているのを見て、

「やっぱり、かおるちゃんも日向さんも‘異次元’ぽいね」

 太一がちょっとだけからかうように言うと、脇坂さんも遠藤さんも、うんうんと頷く。

「え?」

と、さつきちゃんが不思議そうな顔でみんなをぐるっと見る。

「もしかして、わたし、何かまずいことでもした・・・?」

 それを聞いて、太一がううん、違う違うと、慌ててフォローする。

「つまり、古風、というか、ピュア、というか・・・古(いにしえ)の人たちみたいな感覚を持ってる、って意味で、褒め言葉と受け取って貰えたらと・・・」

 太一はそう言って、さつきちゃんの方ではなく、僕の方をちらっと見て、にこっ、とした。

 

その3


 僕らは炭酸飲料を飲みながら、またしばらく青空と入道雲を見ていた。

「なんで、久木田くんは自殺したんだろうね・・・」

 さつきちゃんが突然呟いて、皆、びくっ、とした。

 ゴールデンウィーク明け、女子3人から僕と太一は同窓会どうだった?と訊かれた時、既に久木田の自殺のニュースが報道されていたので、事の顛末をすべて話していた。

 その後、僕は何をなしても常に久木田を最後に見た時の、教室の机に顔を伏せているその背中が思い出されて、思考や行動に目に見えないブレーキがかかっているような気分になる。

 残りの4人にしても、16・17歳の僕らにとってはとても衝撃的で胸の奥にしまったままにしておくには重くて苦しいものだった。‘自分の人生とは関係ない’と踏ん切りをつけることはできなかった。

 太一は何か思う所があるのだろう。さつきちゃんの問いに対して、静かに答え始めた。

「・・・実は、僕にも責任があるんじゃないか、って思ってる」

 太一の思いがけない言葉に、みんな、えっ、という顔になる。ただ、さつきちゃんだけは表情を変えずにじっと太一の顔を見ている。

「・・・僕自身は岡崎みたいな、久木田を直接傷つける言葉は言ってないかもしれない。でも、岡崎の言葉を引き出したのは僕と岡崎とのやり取りがきっかけだった・・・それにもしかしたら、僕と岡崎の遣り取りそのものが久木田の気持ちを辛くしたかもしれない・・」

 遠藤さんが、ううん、日野くんのせいじゃないよ、と慰める。

 太一はもう少し話を続けた。

「・・・かおるちゃんが久木田の背中をさすっているのを見て、ああ、自分は馬鹿だな、って思った・・・・」

 僕は、太一の心をなんとか救いたいと思った。今までの人生、太一に救われ続けてきた。でも、何が言えるだろう・・・

「・・・多分、寿命だったんだよ・・・・」

 僕は、意識にも無かった言葉が自分の口をついて出てびっくりした。でも僕のその無意識の言葉に、みんなの方が、えっ!?と驚いている。さつきちゃんもびっくりした顔をしている。

 僕の言葉はまた、自分の思考とは全く関係なく、すらすらとではないけれども、染み出してくるように音声となって僕の口を離れる。

「・・・僕は、さつきちゃんのおばあちゃんのお通夜の晩、久木田がいてくれたことすら、この5人と出会う縁につながった、って感じた。久木田との縁が無ければみんなとの縁も無かったんだろうな、って・・・

 久木田がしたことは、確かに人の人生すら狂わせることもあった・・僕自身も、太一しか知らなくて、ここにいる他の皆には言えないようなことがいくつもあるし・・・

 でも、それすら、僕がこの高校に入って、このみんなと出会うためのプロセスで、久木田がそのための損な役回りをしてたんだとしたら・・・久木田も‘いてもいい人間’ってことになる」

「じゃあ、どうして今、死ななくちゃいけなかったのかな?寿命って、どういうこと?」

 さつきちゃんがいつになく、やや強い口調で僕に半ば詰め寄るように問いかける。さつきちゃんの様子に、他の3人は軽く驚きの表情になる。

 けれども、僕自身は全く何の感情の起伏もなく、自動的に喋り続けるような感覚が続く。

「僕らには決して分からない‘役割’を久木田がやり遂げた、ってことだと思う。

 だから、これ以上はその役割以外の、ただ単に人を苦しめるだけの罪作りになるから、神様が久木田を召されたんだと思う。神様の慈悲だと思う。

 ある意味、久木田は、‘志’を成し遂げたから召されたんであって、寿命をまっとうしたんだと思う」

 みんな、シーン、と静まり返っている。

 太一が眼を赤くして僕に語り掛ける。

「かおるちゃんは、やっぱり、‘異次元’だよ・・・ありがとう・・・」

 そのまま、その顔を見せるのが太一としては照れ臭いのだろうか、意味もなく、連峰を眺めるふりをして、顔を向こうの方に向けている。

「かおるくん」

 さつきちゃんが、僕に静かに声をかける。僕は黙ってさつきちゃんの方へ顔を向ける。

「わたし・・・おばあちゃんが亡くなってから、やっぱり、何度も何度も自分で自分に問いかけてた。

 ‘わたしが風邪をうつしたから’って・・・」

 僕はさつきちゃんの目を真っ直ぐ見て、軽く、うん、と頷く。

「今、かおるくんが言ってくれたことが、今までわたし分からなかった。

 ・・・多分、それは‘こう考えたら気分が楽になるよ’ってことじゃなくて、わたしも久木田くんは、自分の役割を見事に果たし切って天に召されたんだと分かった。それが本当のことだって分かった。

 おばあちゃんが亡くなったのはわたしが風邪をうつしたからというのは、事実だけれど・・・・

 おばあちゃんも、わたしやお父さんやお母さんや耕太郎や大勢の人たちに・・・感謝してもしきれないくらいのたくさんの役割を果たして天寿をまっとうしたんだ、って、今、分かった」

 さつきちゃんの目は、僕の目の奥を覗き込んでいることがはっきりと認識できる。まるで、僕に対してではなく、僕に自動的に話させている‘何か’に直接話しかけているかのようだ。それから最後にさつきちゃんはこう言った。

「ありがとう・・・」

「小田くん、ひなちゃん・・・結婚したら?」

 脇坂さんの一言に、僕は急に我に返った。

「え!?」

と、僕は、この暑さの中に関わらず、自分の顔が一瞬にして真っ赤になるのが分かった。

「だって・・・・それしかないでしょ?」

 脇坂さんの追撃に、遠藤さんもうんうんと頷いている。太一まで‘その通りだね’という風に頷いている。脇坂さんが更に駄目押しする。

「多分、小田くんとひなちゃんがこの先ずっと一緒にいれば・・・きっと二人で何か凄いことができると思うよ」

「・・・・」

 僕は言葉を失ってしまった。その横からびっくりするぐらい冷静なさつきちゃんの声が聞こえてきた。

「かおるくんとは何が不思議な縁がある、っていうのは、わたしは初めて会った時から気付いてた。入学式の時から・・・」

 僕は反射でさつきちゃんの顔を見る。聞きようによってはあまりにも大胆なさつきちゃんの言葉に皆も目を丸くしてさつきちゃんの方を見る。

「だから・・・かおるくんから、その・・・‘打ち明けられた’時・・・

 その・・・ただ、‘男の子と女の子’っていうだけの縁なのかな、って一瞬錯覚しかけたんだけど・・・

 お母さんと話す中で、ああ、ただの‘彼氏・彼女’っていうことじゃなくって、これまでこの5人で話してきたみたいなこととか、‘彼氏・彼女’ってだけじゃ絶対できないようなことをしていくもっと深い縁なんだろうな、って分かった・・・

 でも・・・」

「でも・・・?」

 僕以外の3人が声を揃えてさつきちゃんに向かって前のめりになるようにして話の続きを全力で促す。

「でも・・・この深い縁が‘結婚する’っていう縁なのかどうかは、わたしだけで決められることじゃないから・・・」

 さつきちゃんがそう言って僕の方を見ると、みんなも一斉に僕を見る。

 さつきちゃんは、‘縁は人間が決めるものじゃない’という意味で言ったはずなのだけれども、残り3人は、‘結婚するかどうかはかおるくんの意思も尊重しなくちゃいけないから’という風に完全に誤解している。

 3人は、「どうなんだ!?」という詰問するような目つきで僕をにらみつける。

 僕は、もう耐えきれなくなって、立ち上がった。

「今日、‘俺たちは天使だ’の再放送見なきゃ!」

と、皆がすぐには解析できないであろう謎を含めた言葉を残して、僕は最速の速足でドアの方へ向かった。

 案の定、10秒ほどみんなで、‘「俺たちは天使だ」って何?何?’という風にさわさわと言い合っていたが、すぐに罵声を浴びせながら追いかけてきた。

「かおるちゃん、男らしくないよ!」

 太一も速足で近づいてくる。

「小田くん、卑怯だよ!」

 遠藤さんまでそんな言葉を僕に浴びせかけて来る。

 3人の後ろを、さつきちゃんが、にこにこ笑いながら歩いている。

 ほんとの海には行けなかったけれど、なんだか青春ぽいな。

 僕はそんなことを思いながら、階段を駆け下りた。


・・・・・・・

 ちょっと、恥ずかしいぐらいに青春してるなー。

 わたし、運動会の陸上軌道の打ち上げで、五十嵐先輩と倉くんの告白を断っちゃったけど、もし、どちらかと付き合う、なんてことになってたら、わたしの高校生活ってどうなってたんだろうなー。

 なんでもわたしには高校生活半年にして様々なレッテルが貼られてるらしい。曰く、

 ①でけー女

 ②寺の女

 ③里先生に反抗した一年

といったものだったのだけれども、運動会以来

 ④あの五十嵐先輩を振った女

というものも加わったらしい。

 五十嵐先輩には本当に申し訳ない。


 それはさて置き、この”月影浴2”はこの後急展開、かおるくんは後頭部に命にかかわるような重症を負うんだけれども、偶然の導きでたどり着いたクリニックで助けてもらう。さらに、かおるくんのお父さんはうつ病だ、っていう設定もあり、話が重たくなるのかなー、と思ってたら、次の章は熱血でもありながらユーモアもあり、なかなかいい感じっぽい。

 舞台は、かおるくんがリーダーを務める陸上部走り幅跳び班の大会出場の話へと移っていく。


・・・・・・・・・・・・・・



第6章  跳んでみよう


その1


 後頭部の傷は恐ろしいスピードで完治した。僕は治った後も、お父さんと一緒に小林先生の所に通っている。お父さんは、小林先生と話をしながら、徐々に心がほぐれていくのを感じているようだ。‘事実’がはっきりとそこにあるのに分かってもらえないことからお父さんは自滅していたのだろうけれども、小林先生は事実を事実とはっきりと言って下さる方だ。事実からまやかしへ傾きそうになっていた心が小林先生のお蔭で、また真っ直ぐに事実への直線・最短距離へと向き始めているようだ。

 僕はただ、お父さんと小林先生の話を横でじっと聞いているだけだ。医療的には、うつ病患者本人の主張や自己申告だけでなく、客観的に状況を説明するために僕を呼んだ、ということにはなっている。

 けれども、‘かおるさんも、息子として、お父さんとわたしの真剣な遣り取りを見ておいてください’というのが小林先生の本音だそうだ。土曜日の朝早い時間か夕方がその時間に充てられた。お蔭で、部活の時間にも支障をきたさない。

 朝、小林先生の病院に寄った日の部活は、自分でもちょっと信じられないくらい、跳躍が研ぎ澄まされる感じがした。単に技術や体力が上がった、ということでは説明できない、何かが自分に感じられる。

 因みに、今朝の遣り取りはこうだ。

 お父さんが小林先生に向かって、私みたいな人間を診て下さってありがとうございます、というようなことを言ったのだ。それに対し、小林先生はこう言った。

「いや・・・少し違いますね。小田さんがそう思ってくださるのはとても嬉しいです。本当にそうならば医者冥利に尽きます。でも、むしろ、私にとって小田さんという人が必要なのだ、と感じるんですよ。だから、かおるさんの治療に私の病院がご指定をいただいたのだと」

 それから小林先生は僕に向き直ってこう言った。

「かおるさん。あなたを殴った人も、あなたに必要な人だったんだと思いますよ。めぐり合うべくしてめぐり合ったんだと思います。同じように、彼にとってもあなたという人が必要だったんですよ、きっと。人間には分からない、不思議な縁ですね・・・」


その2


 土曜日の朝、こばやし脳神経外科クリニックから、学校の部活に直行した。

 朝の遣り取りの影響か、無心に跳ぶ僕の様子を見て、一年生が声を掛けてくれた。

「小田さん、凄いですね」

「いや・・・記録はそんなに伸びてないよ・・・・」

 僕がそう言いながら自分が跳んだ後の砂場をトンボでならしていると1年生3人とも寄って来て、なんとなく小休止しようか、という感じでポプラの木の下の木陰に集まって胡坐をかいた。

 思えば、3年生が引退した夏以降、この4人でそれぞれの跳躍をチェック・アドバイスし合いながら、練習を進めて来た。1年生3人の内2人は中学の頃はバドミントン部とテニス部に所属していた、‘陸上初心者’だ。けれども、1年生3人ともスポーツを単なるスポーツ以上のものとして真摯に捉える雰囲気を持っており、僕もこの3人から何かを学び取りたいという意識があったので、些細なことでも、跳躍のためならば上下左右の別なく、遠慮なく意見し、恥じることなく教えを乞うた。‘マネジメント’とは、上級生が下級生に対して一方的に行うものではなく、チームとして集う4人の‘共通項’である跳躍のために、互いが補い合うものだと。だから、下級生が上級生をマネジメントする瞬間も、当然ありだと、4人で意識を共有しあった。

「多分、4人とも、技術的には相当進歩してきてると思う。基礎体力も学校内だけじゃなく、自宅で自主トレやってる質量含めて相当ついてるはず・・・でも・・・」

 僕は、漠然と感じていることを思い切って口に出していってみた。

「なりふり構わない、って程じゃない」

 一番気の強い梶原が僕の見方に対し、意見を述べる。

「でも小田さん。俺たち、部活だけやってる訳じゃないですし・・・勉強もやりながら、それ以外のこともやりながら、っていう制約の中で、目いっぱいの努力はしてると思いますよ」

 僕は、なるほど、と思う。確かにその通りだし、走り幅跳びが僕たちのすべてではない。現に僕自身、夏休みは入院と補習に相当な時間を割いた。

 僕は、誤解を恐れずに、こうも言ってみた。

「僕は、こう思うんだけど・・・‘どうなっても、構わない’って覚悟をもう少し持とうかな、と・・・・」

 え?というような顔を3人ともした。さあ、この後、どんな風に話せばよいものか。

「馬鹿なことを言うと思うかもしれないけれど・・・走り幅跳びの記録は‘練習’だけで伸びるものじゃないという気がするんだ・・・

 さっき梶原が言った、‘制約’っていう言葉は重要なキーワードだと思う。世の中の人間全員、‘制約’の中で生きてる・・・つまり、‘努力’すら、自分では決められないものだ、ってことだと思う・・・」

「ちょっと、難しいです」

 柔和な長谷部が言う。僕はさらに、言葉を続ける。

「そっか、ごめん。

 そしたら、自分の話で申し訳ないけれど、僕は夏休み、怪我して入院した・・・それも、あまり褒められたことじゃない理由で・・・

 でも、あの時、自分が取った行動は、‘どうなっても構わない’ってところから出て来た行動だったと思う。もし、‘傷害事件’っていう捉え方をされたら多分、部のみんなにも凄い迷惑をかけたと思うし。でも、それでも、あの時は、自分のことだけじゃなく、周囲のことも含めて、‘どうなっても構わない’っていう気持ちだった。僕にとって走り幅跳びチームのメンバーはとても大切だけれども、それすら考える余裕が無いというか・・・

自分のことが‘どうなっても、構わない’のはもとより、自分にとって大切な人のことすら‘どうなっても、構わない’と思える瞬間になって初めて思わぬ行動が取れたんじゃないかと・・・」

「なるほど・・・そういう感覚になったからこそ、とにかく目の前の危機にある日向さんを守ることができた、っていうことですね・・・」

 梶原はそう言ってくれた。‘日向さん’と梶原が名前を知っていたように、さつきちゃんは今や学内ではちょっとした有名人なのだ。決して目立つ訳ではないのだけれども、文化部にも拘わらず運動神経抜群であるという点や家庭科部での優しくもぴしっとした態度などからじわじわと‘2年生にこんな人がいるよ’という感じで広まってきたようだ。そして、夏休みの‘事件’が悪い噂ではなく、‘おとなしいけれども、勇気のある、筋の通った人’という見方を持たせたようだ。更に、小柄で地味な見た目とのギャップから、1年生の女子からは憧れを持たれ、1年生の男子の中には胸を‘ときめかせる’者も結構いるらしい。全て走り幅跳びチームメンバーからの情報でしかないけれども。

 だからこそ、僕はさらに踏み込んだ話を3人にする必要があると強く感じた。

「いや・・・日向さん(さすがに3人の前では‘さつきちゃん’とは呼べない)を守るというか・・・その瞬間は日向さんのことすら‘どうなっても、構わない’っていう感覚だった」

「ええー!?」

 梶原、長谷部、友田の3人とも一斉に声を上げる。‘彼女が欲しい’が口癖の友田が僕に抗議するように続ける。

「だって、日向さんは小田さんの彼女ですよね?部の仲間ももちろん大事な人たちだけど、その時は緊急度から言って、目の前の大事な彼女を救う、だから、それ以外の他のことはとにかく後で考えよう、っていうことじゃないんですか?

 それを・・・彼女まで‘どうなっても構わない’って、どういうことなんですか?」

 友田がやたらと‘彼女’にこだわるのに苦笑いしながら、けれども僕は真摯に、真剣に答えようと思った。

「・・・まず、日向さんは僕の‘彼女’じゃない・・・けれども、じゃあ、もし‘彼女’だったら、っていうことにして話すから聞いて欲しい・・・・・

・・・・たとえば、昔の武士は、本当は戦がいいことだなんて思ってなかった。戦は凶事であり、民が安心して暮らせる平和な世の中を早く築きたいという志を持った武士は大勢いた。けれども、いざ、戦が起こった時には鬼神のごとく刀を振り、槍を振るう。そして、自分の命すら顧みない・・・どうしてだと思う?」

「勇敢に戦えば出世できるし、名誉だからじゃないですか?」

 梶原も真摯に答えてくれいると感じる。僕は更に姿勢を正して答える。

「もちろん、それもあると思う。それも真っ直ぐで素晴らしい心だと思う。

 でも、それだけじゃなくって、多くの武士には‘こだわり’っていうものが無かったんじゃないかと思うんだ」

「こだわりが無い?え・・・でも武士って‘信念’とか‘何かを貫き通す’っていうイメージがあるんですけど」

 長谷部が素直に疑問をぶつけてくる。僕は、今、明らかに‘掛け軸のあのひと’の姿を思い起こしながら話している。

「もちろん、‘志’はみんな持ってる。そしてその志のために厳しい武術の鍛錬を行い、強くて素直な心を養う。けれども、その志が成るかならないかは、最後の最後には人間では決められない・・・本当に自分が死に向き合った瞬間には、‘こだわらない’っていうことが武士の‘嗜み’だったろうと思う。

 そして、僕が、本当に感動するのは、我が身だけでなく、自分が死んだ後、親や妻子のその後の処遇にすら‘こだわり’が無かっただろう、ということなんだ」

「それって、薄情なだけなんじゃないですか?」

 友田も話にどっぷりと浸っている。僕は友田の意見もなるほど、と思う。

「なるほど、確かに。じゃあ、少し見方を変えるよ。中学の時、みんな鷹井高校に入るために受験勉強をしてたよね」

「はい、一応」全員頷く。

「勉強してる時、お母さんから手伝いを頼まれたら、‘今、勉強してるのに’って思わなかった?」

「はい、思いました。‘自分は遊んでるんじゃないのに’って」

 友田は素直だ。

「それってつまり、勉強に‘こだわってる’んだよね。つまり、手伝いによって勉強する時間を‘損した’って気持ちだよね」

「そう言われると、そうですね・・・・」友田はここでも素直に答えてくれる。

「じゃあ、勉強するのは何のため?」

「・・・将来仕事をするため、ですかね」

「自分の夢を実現するため?、だと思います」

「世のため人のため役立つ人間になる、ですね」

 それぞれの答を聞いて、ああ、みんなしっかりしてるし、いい奴らだと感じる。こんな後輩を持てて幸せだと思った。その上で、僕は、自分が鷹井高校に入り、神社にお参りさせていただいたこと、古い木造の家のおばあちゃんのこと、お父さんのうつ病のこと、さつきちゃんのおばあちゃんの死、それから、久木田の死や岡崎の変わり果てた姿を思い出しながら話そうと思った。そして、もう一度、‘掛け軸のあのひと’を思い浮かべ、口を開いた。

「‘勉強’にこだわって、お手伝いを‘損した’って感じる心でいて、本当に人の役に立ったり、きちんと仕事したりできるかな。ましてや、理想に燃えた‘夢’を叶えるのは至難の業じゃないかな。

 ‘信念’や‘志’の同義語は‘こだわり’じゃないと思う。

 ‘こだわり’の同義語は‘損得勘定’のような気がする」

 ‘損得勘定’と聞いて、みんな、ぐっ、と言葉に詰まったように見える。やはり、‘損得’という言葉の響きに恥ずかしさを覚えるのだろう。僕自身は更に踏み込んで、どちらが美しいか醜いか、どちらが良い心か悪い心か、とこだわるのすら‘損得勘定’だと思う。僕は自分で考えたのではなく、自然に口が動いて‘損得勘定’という言葉が出て来たのだ。

「だから・・・走り幅跳びの記録を伸ばそうとして走り幅跳びの練習に‘集中する’ことそのものが‘こだわり’であり‘損得勘定’だと思う。‘手伝いなさい!’とお母さんに言われて、‘よし来た!’と軽やかに言えるぐらいがいいと思う。同じ練習するにしても、成果が出るか出ないかすら‘どうなっても構わない’って方がほんとのような気がする」

 みんな、異議は唱えたそうな顔をしているのが見え見えなのだけれども、言葉が出て来ないらしい。それは仕方ないと思う。僕が今言ったことは、‘努力’すら‘どうなっても構わない’というものだから、そもそも最初から議論するに値しないようなことなのかもしれない。僕の口が更に勝手に言いたいことを言い始める。

「と、いう訳で、明日の日曜日、僕は山に行くよ」

「山?」

「うん、山」

「どこの山ですか?」

「白井峡谷の欅が原にある山。トロッコ電車に乗るよ」

「観光ですか?」

「うーん、まあ、すごくきれいな所だから、景色も眺めるよ」

「・・・練習しなくて、いいんですか?」

「そんなに心配なら、山でトレーニングも少ししとくよ。

 あ・・・もしかして、みんなも行きたい?」

 3人が代わる代わる質問する中、僕はできるだけ平然と話す。そういえば、1年生の最初の頃は中学の時からの癖で相手の反応を気にしながら考え考え喋っていたけれども、今はポンポン言葉が出て来る。僕が成長したせいだけではないような気がする。明らかに、岡崎に金属製のパイプで殴られた夜からこの傾向が強まったと思う。

 3人は僕を目の前にして、眼を見合わせながら‘え・・・どうする’などと相談している。

「どっちでもいいよ・・・まあ、行って帰って来るだけでも半日はかかるし。いつもみたいに各自地元で自主トレでもいいよ」

 1年生はやはりまだまだ可愛いものだ。3人して結論が出たらしく、うん、と頷きあう。

「行きます」

 声を揃えて返事した。

「うん。じゃあ、行こう。トレーニング用のウェアとシューズもきちんと用意してね。

 明日は天気が良さそうだから楽しみだね」


その3


「こんにちは」

 欅が原駅の前にあるクラブハウスの‘伯父さん’に数か月振りに僕は挨拶した。

 さつきちゃんの伯父さんは僕を見て‘小田くんじゃないか・・・’と忘れずにいてくれた。

 それから、僕たちが、ぼうっとした感じの男4人で突っ立っているのを見て、手続きするからちょっとおいで、と僕だけをまずクラブハウスの中に呼び入れた。

「さつきは?一緒じゃないの?」

「え・・・今日は陸上部のメンバーだけですけど」

 そう答えると伯父さんは不審そうに更に質問を重ねてきた。

「なんで?」

「え・・・陸上部のトレーニングのつもりで来たものですから・・・さつきさんも連れて来た方がよかったですか?」

 僕がそう言うと、伯父さんはちょっとこちらが驚くくらいに真面目な顔をした。

「・・・大したもんだ・・・さすがにさつきの目に留まるだけの男だ・・・うーん・・・」

 浮ついてない、という意味での驚きなのだろう。けれどもなんだか大げさなので、軽く返しをしておいた。

「いえ、さつきさんも練習の邪魔をしたら悪いから、って言ってましたから」

 一応、昨日の夜、電話でさつきちゃんの‘了承’は得ておいた。さつきちゃんの秘蔵の景色を幅跳びチームの1年生にも見せてやりたいということについての。

「うん、もちろん、見せてあげて。あの景色を見て感動する人が大勢いた方がわたしも嬉しい」

 さつきちゃんはこう言った後、‘くれぐれも1年生に無理はさせないでね’というアドバイスまでくれた。


 クラブハウスで着替えた後、僕は1年生にこう声をかけた。

「アップは丁寧にしておいてね。それから、小銭を少し持って行こう」


その3

 

 一応迷子にならないよう、皆の姿が確認できるくらいのペースで僕は走った。

 僕の20m程後ろに梶原が、その更に20m程後ろに長谷部と友田が続く。

「梶原、無理しなくていいよ」

 僕は梶原に大きな声をかけた。どう見ても、‘長谷部と友田には負けたくない’って感じで少しでも前を走ろうと力が入っているようだったので。

「平気です。このくらい大丈夫ですっ!」

と、これまた無理した元気な大声が返って来た。

「いや、そうじゃなくって・・・最後の難関がすっごいんだよ!」

 僕は梶原にもう一声かけた。


その4


 天まで続く絶壁ではないかと思えるような石段を見て、3人は呆然としている。

「よし、行くよ。走らなくてもいいからね。這ってでも上まで上ってくれさえすればいいからね」

 そう言って僕は駆け上り始める。

 3人もようやく諦めがついたようで、石段を上り始める。

 5月1日、僕がさつきちゃんと来た時と同じようにこの3人は、‘騙された’と感じているはずだ。まずはこのコースの入り口を見た段階で。次は延々と続く急勾配の‘けもの道’を見て。そして最後にこの石段を見て‘来るんじゃなかった’とすら思ったかもしれない。

 後ろを振り返ると、長谷部と友田は手を膝の所に当てながら一歩一歩登ってくる。足に乳酸が充満して棒のようになっているのだろう。梶原は上半身は走っているようなフォームだが、下半身は這っているのと同じような動きしかしていない。

 本当は僕も足が疲れ切って歩きたいのだけれども、‘神秘の瞬間’をみんなに見せないと気が済まないので頑張って駆け上っている。

 僕はなんとか最上部にたどり着き、最後の瞬間は特に勢いよく参道にジャンプした。

「あっ!」

 誰かが下で大声を上げる。

「え!消えたよ!?」

 友田だろうか?面白くてしょうがない。

 本当は上からみんなを覗き込みたいのだけれども、なんとか堪える。

 そして、下の3人は、好奇心が疲労に勝ったのか、結構な勢いで駆け上って来る様子が分かる。

 わやわやとみんなの声が近くなり、

「あっ!」

「あれ?」

「なんだ?」

と、次々と参道に着地する。

 そして、皆をねぎらう僕をぽかんと見た後、自分達が制覇した石段を見下ろし、

「ああ、なるほど・・・」

「消える訳、ないですよね・・・」

とそれぞれぶつぶつと呟いている。

 4人で並んで柏手を打ち、お参りした後、僕はそのまま境内を横切った。みんなぞろぞろと着いて来る。

「おわあ・・・」

 みんな、僕が最初にこの景色を見た時と同じ反応をしている。男というのは単純でつまらないもんだな、とおかしくなる。

 あの、5月1日の初夏の日差しとは違うけれども、秋の優しい日の光に照らし出された僕らの県の湾は、涼しげな煌めきを見せている。みんな、誰の顔も見ず、ただひたすら崖の向こうの眼下に見える僕たちの海を見つめている。

 4人揃って胡坐をかいてその場に座り、しばし海を眺める。

「そういえば友田はさ」

 梶原が友田に話しかける。

「いつも彼女欲しい、って言ってるけど、好きな子とかいないの?」

 友田は少し考えた後、俯いて呟いた。

「・・・いる・・・」

 おおおー、とみんな囃し立てる。誰?誰?と当然のように次の質問に移る。

「いや・・・それはちょっと言えないな」

 なんだよ、いいじゃない、と皆がわやわやと言っている中、思わぬ攻撃が僕を襲う。おとなしく、いつも冷静な長谷部が僕にこう言ったのだ。

「小田さんはいいですよね。日向さんが彼女で・・・」

 僕は一瞬硬直した。昨日のように、口が勝手に動いてくれないか、と思ったけれどもまだ動きそうにない。仕方なく、自分の浅はかな頭でもって防御態勢に入る。

「だから・・・日向さんは彼女じゃないよ・・・」

「じゃあ、何なんですか?」

梶原が追随する。みんなさっきまでは単純でぼうっとした男どもだったはずが、この話題になった瞬間、女子のような鋭敏さでもって追撃が始まる。僕は窮地に立たされ、ようやく口が少しだけひとりでに動き始めるような感覚になる。

「‘同志’だよ」

 あまりに意表を突いた解答に、みんなの追撃ムードが一気に破壊される。僕も自分ながら、一体何を言ってるんだろう、と唖然とする。

「同志って・・・・何の同志ですか?」

 恐る恐る長谷部が訊く。僕は明快に答える。

「人生の‘同志’だよ」

 嘘は言っていない。‘結婚する縁かもしれないね’などと言っていたことを要約するとこういう回答になるはずだ。しかし、相手もさるものだ。話が噛み合わないと察知するや、角度を変えて来る。梶原の急降下爆撃のようなアタックが始まった。

「日向さんって、いいですよね。おとなしいけれど芯がある、って感じですし。文化部なのにスポーツ万能でギャップが凄い魅力で・・・」

 僕の口はこの緻密な攻撃にも動じない。すぐに切り返す。

「うん、確かに。‘美人’ではないけどね」

 えっ!?という感じで3人全員急ブレーキをかけられたバスの乗客のような顔をする。もはや攻守は完全に入れ替わった。僕は畳みかける。

「日向さんはいわゆる‘美人’ではないけど、人となりが姿形に滲み出てる、って感じがする。知ってる?日向さんは1年生の前半は帰宅部だったんだよ」

 え、そうなんですか?と梶原と友田が反応する。最早‘僕ではない僕’のペースだ。長谷部が上手く乗ってくれる。

「そういえば、同じクラスの家庭科部の子が、日向先輩は一人前の主婦なみの仕事を家でこなしてるって・・・だから部活は週二回しか出られないんだ、って言ってました・・・」

 さあ、軌道は着いた。最後の仕上げに僕は友田に矛先を向ける。

「ねえ、友田はその子のどこが好きなの?顔?」

 友田は普段のさばさばした性格が引っ込み、やたら照れながら答え始める。

「ええ、まあ・・・みんなの注目を集める‘美人’ていう訳ではないんですけど、実はかわいい、っていうことを自分だけが発見した、みたいな・・・」

 どこかで聞いた話だという気がするけれども構わず僕は語り掛ける。

「じゃあ、きっと、その子の内面が顔に滲み出てるんだね。それなら、好きとか嫌いとかは置いといて、その子と何か一緒に‘仕事’をしてみたらどうかな?

 何でもいいよ。クラスの何かの係でもいいし、‘この問題集何人かで回してみない?’でもいいし。そうすれば、その子の女の子としての容姿だけじゃなくって、人間的な魅力を直に感じられると思うよ」

「そう言えば、小田さんと日向さんは体育祭の実行委員ですよね。やっぱり‘好きな彼女’だから一緒に仕事したい、って思ったんじゃないんですか?」

 梶原は結構しつこい性格だということがよく分かった。でも、そんなことは織り込み済みだ。

「え・・・魅力を感じるから一緒に仕事する、っていうのは別に当たり前のことだよね?男同士だってするよね?たまたま日向さんが女子だった、ってだけのことだよ」

 梶原は、でも・・・とまだまだしつこさを見せる。僕はとどめを刺す。

「僕は、人間として、日向さんを尊敬してる」

 これは誕生日の日に伯父さんに向かって言ったのと同じ言葉だ。

 ‘惚れた腫れた’を排除してきたからこそ、一点のやましいことも、嘘もない。

 それに、‘好きだ’とか‘かわいい’とかいう言葉は使わないけれども、自分が縁があって欲しいと思う人を「素晴らしい女性だ」と他人の前で堂々と言うなんて、ちょっと快感だ。

「だから、友田も、その子の本当の魅力をまずきちんと見てあげたらどうかな?

 その結果、いつか2人が男女としても惹かれあっていく、っていうのならすごくいいと思うけど」

 友田本人は感動すらしているような表情だ。梶原と長谷部は、‘ん、ん・・・?’と納得したような、問題をすり替えられたような、複雑な表情をしていた。


 僕は結局、秋季大会まで日曜日の度に欅が原まで走りに行った。1年生3人は毎週、という訳にはいかない。その代わり、一風変わった週末の自主トレの報告をしてくるようになった。

「小田さん、日曜日、近所の神社の石段をダッシュで100往復しましたよ!」

「おお、それは凄い」

「小田さん、日曜日、家の戸棚を修理しましたよ!」

「ふー・・ん?」

「小田さん、昨日、家の裏の高台から夕陽を眺めましたよ!」

「・・・ああ、そう・・・そうなんだ・・・」

 もはや何の練習なのか、さっぱり分からないけれども、それでもいいんだろうと思う。

 それと。一つ困ったことが。

 廊下の向う側をさつきちゃんが歩いているのが目に入ったので、会釈しようとすると、

「こんにちは!」

と、意味も無く大きな声がした。

 さつきちゃんを含む周囲の生徒たちが、‘え、自分?’とみんなしてきょろきょろしていると、

「日向さん、こんにちは!」

と、今度は名指しで挨拶するでかい声がした。

 梶原だった。

 あまり物事に動じないさつきちゃんが珍しく‘え、何?何?’という感じのリアクションをしながらかろうじて、

「あ・・・こんにちは」

と挨拶を返している。

 梶原だけではなかった。長谷部も友田もさつきちゃんを見つけると梶原ほど大きな声でではないけれども、「こんにちは」とか「日向さん、こんにちは」と挨拶している。

 今日一日だけで5回もこんな場面に遭遇した。やめろとも言えない。何だかよく分からないけれども、さつきちゃんに、

「ごめんね」

と謝っておいた。


その5


 家庭科部は先週、‘秋季大会’が終わった。なんと鷹井高校家庭科部は県で‘優勝’だった。‘金賞’でも‘最優秀’でもなく、‘優勝’というのが、まるで体育会のノリだ。

 県下で5校しか家庭科部がないとはいえ、もしこのままいけば夏には‘文化部のインターハイ’出場だって夢じゃない。

 太一も先週、バレーボール部の市の秋季大会を終えている。市で準優勝。新キャプテンとして、選手として太一はチームのために尽くしている。

 そして、今日は僕たち陸上部の秋季大会だ。市レベルの大会ではあるけれども、僕たちにとっては来年を見据えた重要な大会だ。

 恥ずかしいからいい、とは言ったのだけれども、太一、脇坂さん、遠藤さん、さつきちゃん、そして、耕太郎まで陸上競技場に応援に来てくれた。

 すかーん、と晴れた秋晴れの、絶好の陸上日和だ。僕たち走り幅跳びチームも絶好調・・・のはずだった。

 なんとなく様子がおかしい、と、朝、1年生3人の顔を見て漠然と感じた。3人ともそれぞれの目指すべきベクトルと違う方向に精神状態が向かっているような気がする。

 僕は、大丈夫だ、と声をかける。

「ほら、梶原は近所の神社の石段、100往復ダッシュしたじゃない?」

「ええ、昨日の夜もやりました」

「え、昨日の夜もやったの!?」

「はい・・・何か、こう、もやもやして・・・燃焼しないと寝付けなくて」

 駄目だ、と思った。おそらく筋肉痛でパンパンのはずだ。

「・・・長谷部は戸棚の修理をして集中力を高めたじゃない」

「はい。でも、昨日、その戸棚が突然壊れて・・・お父さんから、いい加減な仕事するな!ってすごく叱られました」

「・・・・友田は夕陽を観てボルテージを高めてたんだよね」

「そうなんですけど・・・昨日の夕方、僕の地区がゲリラ豪雨で。日暮れまで結局お日様が全然見えなくて、すごい落ち込みました」

 なぜ、全員、‘昨日’なんだろうか。けれども、とにかく、やるしかない。


 トラックでの中距離走が盛り上がる中、フィールド内で走り幅跳びが始まった。

 競技時間短縮のため、予選等関係なく、二回の跳躍で結果が出る一発勝負だ。したがって、強い選手もそうでない選手も皆同じフィールドで会いまみえる。僕としては、同じ高校生なのだから、望むところだ。経験も実績も関係ない。‘ジャンプする’というシンプルな競技に‘あれが○○高校の××選手だ’など僕にとってはどうでもいい。

同じ高校生の証拠に、どの選手も皆、ジャンプ前のひと時、思い思いの方法で集中力を高める。ウォークマンで音楽を聴く者、友達と談笑する者、眼を閉じてジャンプのイメージを繰り返す者・・・・そんなひと時の輪の中に僕も加わっていることが凄く幸福に感じられる。

 ・・・これで、わが校の1年生3人もそういう真摯な緊張感の中に同化してくれていれば言うこと無かったのだけれども、3人とも高校生ではなく、二日酔いのサラリーマンのような顔をしている。

 鷹井高校の選手の中で最初にジャンプが回ってきたのは友田だ。

 僕は陸上初心者の友田のジャンプが実はすごく好きだ。いわゆる‘お手本のような’ジャンプではなく、友田独自の個性的なジャンプなのだけれども、そのフォームがとても‘美しい’と感じるのだ。飛距離は月並みかもしれないが、何十本もダッシュと跳躍を繰り返した後、学校のグラウンドで夕陽をバックに跳んだ友田のフォームのシルエットが忘れられない。

 なのに・・・今の友田はボルテージが下がりまくっている。

 一応、声を掛けてみる。

「友田、あの日の夕陽を思い出せ!」

 しかし、言ってしまってから後悔した。突然‘あの日の夕陽’と言われても友田自身、‘どの日だ?’と混乱しているようだし、他校の生徒の中には「夕陽だって。青春だぁ」と茶化してケラケラ笑う者もいる。完全に逆効果だ。

 ‘小田さん、恨みますよ’というような眼を僕に向けて友田は走り出そうとしていた。


「友田くん、行けっ!」


 秋晴れの空気を更に切り裂き、スコーン、と突き抜ける涼風のような声がスタンドから響き渡った。フィールドの選手が一斉にスタンドの方を見る。

 さつきちゃんだ。

 ノリが完全に体育会系の掛け声。しかも、それが友田の精神状態にぴったりくる言葉。友田もスタンドでにこっと笑っているさつきちゃんを観て、頬を緩める。

 ‘よし!’という表情になった友田は躊躇なくスタートを切った。

 あの日の夕方、ぶっ倒れるくらいに疲れ果て、‘もうカッコなんてどうでもいい’という感覚で最後の力を振り絞り跳んだがむしゃらなだけの筈のフォーム。でも、それが友田の最も美しいフォームだったのだ。それが、今、再現される。

‘美しい・・!’

 フィールドの中の何人かは、そう思った筈だ。友田は満足のいく跳躍ができ、軽くガッツポーズをする。

「いいぞ!友田くん!」

 跳び終わって最初に声を出したのもさつきちゃんだった。

 初めて見る‘体育会系’のさつきちゃんの姿に、脇坂さん、遠藤さんは圧倒されてしまっている。それに気付きさつきちゃんは、

「あ・・・ごめんね・・・」と照れる。

「いや・・・」

 太一はにっこり笑って、続ける。

「いいよ!日向さん!ガンガン応援しよう!」

‘いいぞ、いいぞ、ト・モ・ダ!’

 脇坂さんも遠藤さんも声を張り上げる。

 その雰囲気にふわりと溶け込むように、「ナイス!友田くん!」と、自分もレースを終えたばかりの女子3,000mの1年生、川原さんが声をかける。友田は顔を真っ赤にして‘ありがとう’と答えている。

 なるほど、そういうことだったのか。ちゃんと一緒に‘仕事’してるじゃない、友田。


 次に順番が回ってきたのは長谷部だ。長谷部の長所は‘冷静さ’だ。しかし、時として‘冷静過ぎる’のが短所ともなる。冷静でクレバーな長谷部は試合全体の流れまで計算してしまう癖がある。普段の精神状態ならそれでもいいけれども、どういう訳か‘戸棚の修理の失敗’ごときで更に慎重さを増している。

今の長谷部の顔を見ると、‘凡ミスは駄目だ。1本目は様子見だ’という考えがありありと伝わってくる。2本しかないのに1本捨ててどうするんだ、と言ってやりたい気もするが、また不用意な掛け声をかけて逆効果になったら・・・と僕自身が‘応援のミス’を恐れる。


「長谷部くん、この1本!」


 まただ。僕らの練習を観ていたのか?とも思えるほど心理分析までなされた的確な‘檄’をさつきちゃんが飛ばす。僕は立つ瀬がない。

 でも、僕の立場などこの際どうでもいい。さつきちゃんの檄に、長谷部がはっとした顔つきになる。次の瞬間、長谷部の目がすうっと静まり、冷静でクレバーな‘計算’が数秒、なされた。そして、迷いなく一歩目を踏み出す。最初はゆっくりした足取りだ。けれどもそれはミスを畏れてではない。長谷部は、‘自分が計算をミスる訳がない’と絶対の自信を持っているからこそ、大胆な序盤のスローペースなのだ。そして、‘ここだ!という地点から、一気に筋肉に力を込め、スピードが2倍、3倍と加速する。計算し尽された歩幅は日本庭園の池に点で配置された石の上を正確に跳び移りながら全力疾走しているかのようだ。

「やるな」

 陸上初心者の長谷部の走りに感心している他校の選手もいる。

 1mmのズレもなく利き足で板を踏み切り、長谷部は跳んだ。

 自分の計算が‘正解’だったことに満足したのだろう。ガッツポーズこそしないが、軽く頷いて砂場を後にする。


「小田さん、すみませんけど、ストレッチ手伝って貰えませんか?」

 さあ、一番の問題は梶原だ。僕は足を抑えてやりながら、心配になる。梶原はハム(太腿)を伸ばすようなストレッチばかり繰り返しているが、たまらず声をかける。

「梶原、ハムじゃないよ。足がつりそうなんだよね?ふくらはぎをなんとかしないと」

 僕は梶原のふくらはぎをマッサージし、アキレス腱をぎゅっと伸ばしてやる。

「鷹井高校、梶原くん」

 ああ、もうコールがかかった。

 祈るような気持ちで筋を伸ばしながらスタートラインに向かう梶原を見つめる。

 さつきちゃんはどんな声を掛けてくれるんだろう、と僕はもう既にさつきちゃん頼みになっている。


「梶原くん!ファイトォ!」


 今までで一番荒々しい声で、しかも、‘鬼神’のような表情でさつきちゃんが‘怒鳴って’いる。岡崎に立ち向かった時の声と表情だ。

 普段おとなしいさつきちゃんのあまりに激しい一面に、梶原の脳の中でアドレナリンが出まくったようだ。

「よっしゃあッ!」と気合を入れるや否や、パアン!と手形がつくくらい力任せに自分の太腿をはたいた。

 理屈じゃない。梶原が「ファイトォ!」と言われて燃えない訳がない。

 気合い十分で全力疾走を始める。あっと言う間に踏切板まで到達する。

‘あ、ミスった!’

 梶原がわずかに踏切のタイミングを外したのが分かった。つったか?けれども、梶原は諦めなかった。

「やあっ!」

 梶原は不十分な踏切の後、空中で気合いを発した。果たしてそれが物理的に距離を延ばす効果があるのかどうかは分からない。けれども、どう考えても、梶原は‘気合い’で空中を駆けた。

 ずさっ、と完全に尻から着地する泥臭いジャンプになったが、記録は暫定2位。

「おおーっ」

と、無名の1年生のジャンプに、他校の選手が思わず拍手した。

「よしっ!」

と、ガッツポーズをしたまま梶原が僕たちのところに走ってくる。

「ナイスファイト!」

 4人全員でハイタッチする。梶原の‘熱い気持ち’が全員に伝染する。

 スタンドの応援団も

‘やった!梶原くん!行けっ!鷹井高校!’

とノリノリだ。

 僕は陸上は個人競技だと思っていたけれども。どう考えても‘チーム一丸’で立ち向かう競技だ。

 

 僕以外の3人は2回目の跳躍を終えていた。長谷部、友田は陸上初心者とは言いながら、中学の時、バドミントン、テニスで鍛錬してきただけのことはある。長谷部が10位、友田が12位と大健闘だ。インターハイ予選まではまだまだ伸びる。

 梶原は1回目の跳躍の暫定2位はどんどん抜かれて行ったが、2回目の根性のジャンプで、5位に食い込んでいる。全市1年生の最高順位だ。

 僕は。

 1回目のジャンプはほぼ完璧に近かったが自己ベストは出せず、現在、2位。南高校2年生の金森くんが、調子もよく、自己ベストを出し、1位だ。僕の2回目のジャンプがこの競技の最後のコールだ。僕はこのジャンプで自己ベストを出さないと金森くんには勝てない。

 でも、僕は、とても楽しみだ。

「鷹井高校、小田君」

 1年生3人全員が僕に握手してくれる。

「小田さん、集中です」

「小田さんなら、できます」

「気合いで、行ってください!」

 僕はゆっくりとスタートラインに向かう。不思議と心にさざ波すら立っていないような感覚がある。

 スタートラインに立つ。ここからが僕の楽しみだ。ちょっと恥ずかしいけれども、さつきちゃんが、どんな声を掛けてくれるのか。


「かおるくん!」

 来た。

「頑張れ!」

 その通りだ。

 頑張るしかないっ!


 僕は‘掛け軸のあのひと’の涼しい目になりきろうとした。

 さつきちゃんの「頑張れ!」という声を最後に、周囲の音が段々と消えていく。不思議なことに、鼓膜の破れた左耳の蝉の声さえ消えていく。

 そして、視界も徐々に狭まり、左右が暗くなる。

 僕の目の前に自分が走るだけの幅の1本道が明るく浮き上がる。

 更に、その道も少しずつ暗くなり、歩幅のポイントが灯火となって浮き上がる。次に踏切板が浮き上がった先の砂場の1点がきらきらと光り始めた。

「そうか・・・あれが僕の跳ぶべき距離なんですね」

 僕は、一度深呼吸をし、すっ、と静かに走り出す。全く力を入れる感覚がないけれども、おそらく、100Mの全力疾走としてもベストのタイムで正確に歩幅の灯火の上を通過しながら踏切板に向かう。でも、僕は踏切板すら意識しない。そのままそこを突き抜けるような全力疾走が続く。踏切板の手前で足が勝手に動く。ぶわっ、と、自分の体が、高すぎず、低すぎず、一番心地いい高度に浮き上がる。僕は自分の体が着地するまでに描く軌道を楽しむ。

 すたっ、という不思議な感覚で着地する。僕は、自分の体が後ろではなく、前に投げ出されるような感触にちょっと驚く。それだけ自分でも予想しないスピードが出ていたということなのだろう。

 1秒ほどして、ようやく周囲の音が聞こえてきた。

「おおおーっ」と記録を見てフィールドの選手たちがどよめく声が聞こえる。

「やった、優勝だ!」

「小田さんが市のチャンピオンだ!」

 梶原、長谷部、友田の声が微かに聞こえる。

 僕は、うれしい。

 17年の人生で、一番遠くに跳べたのだから。


 後日談になるけれども。秋季大会で応援してもらった恩返しのつもりなのか、幅跳びチーム1年生3人は、以前にもましてでかい声でさつきちゃんに挨拶するようになった。さつきちゃんはそれに笑顔で挨拶を返している。

 雨の日の放課後、校舎内で幅跳びチームが練習している所に出くわすと、さつきちゃんは、

「頑張って」

と、1年生に声を掛けてくれる。梶原が、

「小田さん。日向さんと仲良くしててくださいね。もし二人が別れて日向さんが俺たちに優しくしてくれなくなったら困りますから」

なんてことを言う。何度言ったらわかるんだ。別れるも何も彼女じゃないから、と同じ説明を繰り返そうと思ったけれども、面倒くさかったので、

「階段ダッシュ100本!」

と言って、僕は階段を駆け上り始めた。




・・・・・・・・・・・・

「うわっ」

 気が付くと、午前3時だ。時間を忘れて読み進めてしまった。どうしよう。まだまだ読みたいけれども、とりあえず今日はここまでにしておこうかな。

 いや、でも、もう少し・・・・・


 ところで。一応わたしが主人公の”もよりがシュジョーを救う法”に何でわざわざ別のお話を挿入したのか、今まさしくこのページを読み進めて下さっている方には何となく察しがつくのではないかと思う。

 つまりは・・・・・文字数が欲しかったのです!

 なので、"@naka-motoo"なる全く聞いたこともないような、物書きなのかなんなのかもよく分からないような人の本をわざわざちづちゃんから借りて、その物語をぶち込んでみたのです!

 ふう。でも、これでようやく落ち着いた。

 とりあえず、”大人の事情”、とかってわたしは嫌いなんだけれども、一応基準は満たさないと”もよりがシュジョーを救う法”の本編自体を続けることができなくなってしまうので。

 さて。これでようやくまたわたし自身の話をばりばりやれる。

 ああ、すっきりした。

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