第8話 サト・コテン、プリーズ・ドント・ゴー・トゥ・ヘル

 授業ネタである。つまらない、と読み飛ばさないでいただけると嬉しい。シチュエーションは地味だけれども、テーマは根源的なものとし、わたしの言いたいことをかなり突っ込んで言う話になるので。


 夏休みも明け、第一週半ばの午後。古文の授業。担当はサト先生だ。

 里先生は40代半ばの男性の先生で、受験指導では定評があり、校長、教頭、同僚の先生や、PTAからの人気も高い。生徒も里先生の古文の授業は分かりやすくて受験向きだと評価する声が多い。

 いわゆる”できる先生”というイメージが定着している。まあ、わたしはもともと古文が好きなので、担当が里先生だろうがそうでなかろうが別にどっちでもいい。頓着しない。

「少し時間が余ったから、ちょっと話をしようか」

 お?珍しい。里先生が授業と関係のないことを話すのは滅多にないので、わたしも少なからず興味がある。

「夏に、先生方で日帰りでバーベキューに行ったんだ」

 ぱたっ、とテキストを閉じて、里先生は話し始めた。

「横山山麓の所の河原でね。車3台に分乗して行って。標高が高いので結構涼しくて快適だったよ」

 へえ、羨ましい。

「3時くらいには後片付け始めて帰る準備してたんだよ。それで、藤田先生っているでしょ。藤田先生も行ってたんだけどさあ・・・」

 意外だ。別に偏見を持つ訳じゃないけれども、藤田先生はそういう先生同士のイベントには誘われないタイプだろうと思っていた。こういうことを思う自分も嫌だけれども、30代半ばの男の先生で結婚もしている藤田先生が先生たちの間でちょっと浮いているのは客観的な事実だった。もっとストレートに言えば、先生たちの間でいじめられてるんじゃないか、という場面に何度か出くわしたことがある。

「まあ、高速代やら材料代の頭割りを少しでも減らしたくて誘っただけなんだけど、後片付けしてる時に、藤田先生を置き去りにしようってことになったんだよね」

 は?ちょっと、何か嫌な感じになってきたな。

「それで、藤田先生が自分の荷物をまとめている時に、後の先生みんなでさーっと車まで走って、そのまま帰って来ちゃった。まあ、ちょっとしたイタズラだよね」

 何だ、こいつは!しかもまだ話を続けるつもりらしい。

「まあ、地鉄の駅もその河原から歩いて10分ほどだから電車を乗り継いで帰って来たみたいだけど、まあ・・・・藤田先生が”仕事ができない”っていうのが先生方みなさんの共通認識だったて事が改めて分かりましたよ。私が”藤田先生を置き去りにしよう”って言っても、誰も反対しなかったもんなー。女の先生もみんな」

 こいつが言い出したのか!ああ、胸糞悪い。本当に気分が悪くなってきた。

「まあ、こんなところかな。じゃあ、ちょっと早いけど」

 里先生が授業を終わろうとし、生徒みんながテキストを閉じ始めた時だった。

「先生」

 里先生が、誰だ?という感じで声のした方を見る。わたしも正直ちょっと驚いた。

 ちづちゃんだ。

「あ、謝ってください」

 ちづちゃんは声が震えている。里先生は不機嫌な顔と声でちづちゃんに詰問する。

「誰に?」

「・・・藤田先生に」

「何を?」

「え・・・と・・・藤田先生を、その、侮辱するようなことをみんなの前で、・・おっしゃったことを・・・」

 里先生は冷たい表情のままでちづちゃんに次のような言葉を放つ。

「脇坂も藤田先生のことは知ってるよな」

「え?・・・」

「藤田先生が仕事ができなくて、先生たちだけじゃなく、生徒たちにも迷惑をかけてるって、知ってるよな?」

「え・・・知りません」

「嘘つくなよ。お前、藤田先生の世界史の授業、分かりやすいか?受験に役立つか?」

 お前がちづちゃんのことをお前呼ばわりするな、コノヤロー!

「脇坂、お前も将来仕事のできない大人にはなるなよ。あ、その前に、ちゃんと勉強できる生徒になれよ。この学校じゃ努力しないで成績悪い奴は辛いぞー。いじめられても仕方ないぞー」

 ちづちゃん、顔が真っ青だ。

 里、コノヤロー!わたしが声を出そうとしたその瞬間、目の前から鋭い声が聞こえた。

「里先生、撤回して下さい!」

 ジローくん!

 里は、また面白そうな奴が声を出したぐらいに思っているのだろう。にやにやして楽しみ始める。

「何を撤回するんだ、小室」

 ジローくんは毅然として答える。

「さっきからの藤田先生についての発言と、それから、脇坂さんに対しておっしゃったこと、全て撤回して下さい!」

「何で?」

 ”何で?”というふざけた反応に、一瞬ジローくんは虚を突かれる。頑張ってジローくんは立て直す。

「それは・・・・とても授業中に生徒を前にしてされる発言ではなかったからです」

「どうして?全部本当のことで事実じゃないか?藤田先生のことも、脇坂のことも」

 ”脇坂のこと”という言葉に、ちづちゃんはびくっ、としてそのまま俯いてしまった。その様子にわたしの胸がきゅーっと締め付けられる。

「なあ、みんな。みんなだって、藤田先生の授業が下手なせいで大学落ちたらたまったもんじゃないだろ?それから、努力もしないで成績悪くて卑屈な奴には同情の余地も無いだろ?」

 わたしがさっと教室を見渡すと、半数ぐらいの生徒が、うんうんと里の話に頷いている。

 こいつら・・・・!

「まあ、世の中、そういうもんだ」

 南無、ご本尊!わたしは心の中でうちのご本尊に向かって手を合わせ、叫んだ。わたしは、腹を決めた。

「里先生」

 またか、という顔をして里は続ける。

「何だ、上代」

「地獄に堕ちますよ」

 えっ、という感じで、教室の空気が一瞬にして凍り付いたのがわたしには分かった。

「何、だと?」

 里もわたしの予想もつかなかった言葉に驚愕しているようだ。

「地獄に堕ちますよ、と言ったんです」

 里は冷静を装う。

「地獄って、何だ?何かの比喩か?ものの例えか?」

「いいえ。閻魔大王がおられる、本物の地獄です」

 ぷっ、と里は吹き出し、勝ち誇ったような顔をする。

「何だ、お前、子供か?本当に地獄があるって信じてるのか?お前のおじいさんかおばあさんが昔話でもしてくれたのか?」

「里先生。わたしの家はお寺です。お寺の宝物ほうもつとして地獄と極楽の絵解きの掛け軸があります。法事なんかでお寺に来られた檀家さんに、地獄の恐ろしさとそこから救ってくださる仏様のお慈悲を説明するんです」

「信仰の話か。お前の家業かも知らんが、そんなものは観念的な話でしかない」

「先生、わたしは信仰の話をしてるんじゃありません。辛い、過酷なことではあるけれども、地獄があるっていうことは厳然とした冷徹な事実なんです。だから・・・・」

「だから、何だ」

「さっき、脇坂さんや小室くんが言ってくれた通り発言を撤回して謝罪して下さい。まだ、間に合います」

「何が間に合うんだ」

「わたしは感情的には里先生は地獄に堕ちても仕方ないような人だと思うけれども、寺の跡取りという職務上は、仏様のお慈悲で地獄から掬い上げられて欲しい。みすみす地獄に堕ちて欲しくないんです。先生、地獄に行ったら最初、どうなるか知ってますか?」

「そんなもん、知る必要もない」

「閻魔様に”また来たのかー!”って怒鳴られてその声の大きさで両耳の鼓膜が破れてしまうんです。でも、閻魔様がお怒りになるのももっともで、ほら、人間って親指だけ関節が一つ他の指より少ないでしょう。前世で地獄に堕ちた時、閻魔様の前で自分の親指の関節を噛み切って血判押して、”もう一度娑婆に出して貰えたら必ず仏様の教えを守って善行します”と誓ったのに、その血判の血も乾かない内にまた地獄に堕ちてくるから閻魔様はお怒りになるんです。先生、仏様がいくらお慈悲が深くても、地獄・極楽があるっていう本当の”事実”を認めない人間を救うのはとても難しいんです。わたしは、先生を地獄行きにしたくない。先生は憐れな人です」

「お前、生徒の分際で先生のことを憐れとか、何様だ?」

「仏法と厳然たる事実の前では年齢も立場も関係ない。早く悔い改めて!」

「藤田が仕事ができないのが悪い!」

「里先生、仕事ができるできないって、誰の目から見てそうなんですか?人間じゃなく、仏様の目から見たらどうなんでしょうね。たとえば、仕事ができる人間って、どんなのですか?」

「それは・・・・俺みたいな奴のことだよ!」

「へえ・・・じゃあ、先生。先生は年を取りますよね?」

「あ?」

「年を取りますよね!?」

「ああ、・・・取る」

「先生が年を取って介護が必要になることもありますよね?」

「俺は、そんなことには・・・」

「ありますよね!?」

「・・・ああ、あるかもしれん」

「その時、自分で用も足せなくなって、小便や大便を人に始末してもらう寝たきりになってたら・・・その時の先生って、”仕事のできる人間”なんですか?それとも、”できない人間”なんですか?」

 教室は静まり返っている。

 生徒は全員、身動きできない。

 わたしはできるだけ心を涼しくして憐れんだ目で里先生を見つめる。

 わたしが凡夫であるように、先生だからって別に特別な訳じゃない。

 里も凡夫。

 そう改めて気付くと、心が更に涼しく、爽やかになってきた。

 ”バン!”

 里先生はテキストを力任せに教壇に叩きつけてそのままずかずかと教室の出口に向かった。

 ガシャン、と戸のガラスが壊れるんじゃないかという勢いで戸を閉めると大きな足音を立てて行ってしまった。

 ふーっ、という大きな溜息が教室のあちこちで上がり、わやわやと女子も男子もわたしの机の周囲に群がって来た。

「もよりー、かっこよかったよ」

 誰かの声に数秒間を置いてわたしは答える。

「はあ?」

 わたしはお不動さんのような怒りの形相のまま、続ける。

「わたしは、かっこよくない。本当にかっこいいのは、ちづちゃんとジローくん」

 奥歯を噛みしめ、群がる女子共男子共をぐるっと見渡す。

「ちづちゃんとジローくん以外、全員、かっこ悪い」

 わたしはそう言って鞄を持ち上げで席を立ち、誰にも目をくれずに教室を後にした。

 









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