第5話 曲がらない夏

 いわゆる夏服バージョンとはいうものの、そもそも法衣とはそんなに涼しいものではない。檀家さんの家の仏間でお経を上げる時、不必要に伸びたわたしの身長の頭のつむじ辺りが丁度クーラーの噴出し口の真下になって涼しいとはいうものの。つまり、何が言いたいかというと、わたしの左ひざはまだ曲げられないのだ。わたしには高校3年間のスケジュールとしてこんな腹づもりがあった。

① まず、お寺の仕事を自分自身の裁量で回していくこと

 何しろ、お師匠とわたしの2人しかいないので、檀家さんの月参りのスケジュール管理から、お線香やお花、法衣のクリーニング、といった物理的な時間軸に沿った管理だけでなく、お布施を頂き、そのお金をこういった仏様にご奉仕するため、諸々のものに充当していき、その中からお師匠とわたしの生活の糧もいただかなくてはならない。だから、

② 家事をしっかりとこなすこと

 これは炊事洗濯、掃除、全部。しかも、その一つひとつが結局は①に直結する。お師匠は常々、実生活もすべて仏様へのご奉仕につながるのだから、日常をおろそかにしたり自暴自棄になったりしないようにと言う。更に、実生活がベースに無い夢や目標は、”幻”でしかないと言い切る。それから、

③ 走る

だったのだ。なので、ひざが曲がらないという事態によって、わたしの高校生活のスケジュールは大幅な変更を余儀なくされている。あーあ。

 と、文字通り果物が暑さで傷むような感じでわたしの神経が腐りかけていた時、ちづちゃんからラインが入った。

”もよちゃん、プールって行ける?泳ぐのは無理だろうけど、水中ウォーキングなら膝のリハビリにならないかな?父さんの会社の福利厚生で、市スポーツセンターの無料券貰ったんだけど、行かない?”

 さすが、ちづちゃん。心根の優しさが滲み出ている提案だ。よし、返事を打とう・・・っと?

『ピリン』

 次のような文章が次々と割り込んでくる。

”千鶴さん、ナイス!俺も行っていい?:学人”

”楽しそうだね。夏の暑さでうだってたから、ぼくも行きたいなあ:空”

”ぼくも行っていいかな?学校休みだから運動不足で:ジロー”

 ぶち壊しだ。

 みんな、意外と図々しいんだなー。まあ、いいんだけどね、っと。

”ちづちゃん、ありがとう。行きたい、連れてって。男子は全員、ちづちゃんにもっと感謝するように”


 ここはスポーツセンターだ。純粋にスポーツ・フィットネスの目的でわたしは来た。だから、リハビリに専念する。

「あ、これは結構いいかもしれない」

 プールのウォーキングコースを健康寿命を延ばそうとしているお年寄りに前後を挟まれて歩く。

 お年寄りは概して背が低い。それは年を重ねるとともに少しずつ縮んでいった結果、なのだろう。

 だから、わたしがこのコースで歩いていると非常に目立つ。というか、そもそも高校生の集団が公営のスポーツセンターのプールに居ることそのものが目立ってしまっているのだけれども。こういう場所には極端な年配者か、極端に若い人間しかいないのが普通だろう。

「こっちには入ってこないでね」

 わたしは連れの4人に厳命した。特に男子3人には。

 ただでさえ目立っているのに、いい若者たちが集団でウォーキングコースを歩くともっと目立つし、何より、真面目に歩いているお年寄りたちにとって非常に迷惑になるだろう。みんなには大人しくスイミングレーンで泳いでいて貰おう。

 わたしはリハビリに専念する。歩くときに意識的に左ひざを少し深く曲げてみる。

「お、ここまでは大丈夫みたい」

 小声でつぶやきながら、歩き続ける。

「あなた、高校生?」

 25m歩いて折り返し地点、まだそこまでご老人ではない、っていう感じの女性から声を掛けられた。

「はい、そうです」

「何か、リハビリでもしてるの?」

「よく分かりますねー。膝を怪我したので、そのリハビリです」

「そう。ひざは辛いわよねえ」

 実感がこもった相手の言葉。檀家さんの家へお邪魔すると、ほぼ例外なくお年寄りは家の1階に部屋があることを確認してきた。階段を登るのはまあ、なんとかできる人も多いけれども、降りるのは膝の関節とその周辺の筋肉が衰えてきたお年寄りにはとても辛いのだ。

「わたしもね、怪我じゃないけど、今の内に少しでも筋肉をつけておいて、将来寝たきりにならないようにしないとね」

 わたしは突然、寂しさがこみ上げてきた。

 この人は見た目、70歳ちょっとだろう。70歳を過ぎて”将来”という言葉が出たことが、本人には申し訳ないけれども虚しい。

 そして、自分自身にも言いようの無い寂しい風が吹き抜けるような気がした。

「もよちゃん、がんばれ」

 あれ?ちづちゃんって人が大勢いる場所で、こういうことを言えるキャラだったっけ?

 ちづちゃんが平泳ぎで通り過ぎざま、横のレーンから声をかけてくれ、一気に体に力が入った。

「よし」

 水中だと、自分の体の感覚が把握しやすい、ってことに気付いた。なにしろ怪我をして以来、体育の授業も全て見学だったし、お経も立ったまま。それに、これは身をもって思い知らされたのだけれども、風呂で体を洗うときが非常に大変。風呂の椅子は低いので膝の角度が90°以下の鋭角になってしまうため、使えない。したがって、立って、立位体前屈して足のつま先を洗わないといけないのだ。とっくに抜糸もしたし、傷口もふさがっているのだけれども、90°より曲げようとすると傷口がばりっと破けそうになるような感覚があるため、それ以上曲げることができなかった。どこまで大丈夫なのかも検証できないでいた。ので、今、確かめつつ歩く。

”思い切って、曲げるか!”

 プールの縁に両手でつかまり、徐々に膝を曲げていく。まだ右の方に力を込めたままだけれども。

 少しずつ体が水の中に沈んでいく。

”お!いけそうだ!”

「ショウタ!」

 女の人の悲鳴に近い声が聞こえた。

 わたしは曲げかかった膝を戻し、声のした方に振り返る。

 ウォーキングコースから一番遠いレーンは1歳以下の赤ちゃんたちがお母さんと一緒に水に慣れるための母子水泳教室をやっている。そこで、1人の母親が赤ちゃんを抱いて、何度も何度もショウタ、ショウタ、と叫んでいる。水を飲み込んだのか?プールのスタッフが大慌てで応急処置を始めようとしている。が、多分、こんな小さな赤ちゃんへの処置は行ったことがないのだろう。一つひとつの動作は物凄く速いのだけれども、それらが全く繋がらずにバラバラだ。

 プールにいる全員が、泳ぎを止めて心配そうに見ている。ちづちゃんや他のみんなもその中に混じって呆然として見ている。わたしの背後に立っていたおじいちゃんが、ぼそっ、とつぶやいた。

「まだあんな小さい子なのに。かわいそうに」

 このおじいちゃんが悪いわけじゃない。けれども、わたしはこの言い方そのものに無性に苛ついた。優に80は過ぎている自分はまだずっと生きていけるような、そんな言い方が、わたしにはとてつもない違和感を抱かせる。わたしは、このおじいちゃんの言葉に反論するように、何か心の底からわたしを突き動かす波動が伝わってきた。

『自分の悪しきは棚に上げっ!』

 EKのあの、新曲の歌詞が脳裏によみがえる。わたしは反射的にプールの水底を覗き込んだ。

 げっ!

 プールの底一面に黒いタールのようなものがあり、自分の足にもぬめっとしたものが実際に触れる。

 みんな、これが見えないの?感じないの?

 ああ、見えないのだ。どうやらわたしだけがこの黒い、何だか気色悪いものの存在に気がついているようだ。歩くだけだから使わないかな、と思っていたけれども持ってきてよかった。わたしは頭の上にひっかけていた水中眼鏡をかけて水に顔をつけて底を覗く。

「ヘドロだ」

 子供の頃、家の近所のドブ川で足裏に感じたぬるぬる感と全く同じ。形状も同じ。つまり。人間が物理的に起こした行動の結果であるドブ川のヘドロも、亡者や生ける屍たちが自身の心から排泄したヘドロも、大差ない。どろどろ。

 ああ、腹が立つ!

 ヘドロなら、掻き出せ!

 わたしは左ひざをまっすぐにしたまま、片足スクワットのようにして体を水中に完全に沈みこませ、両手を使い、ヘドロをプールの縁の排水溝あたりにに運び出そうと試みる。右足でとっ、とっ、と水中を蹴りながら進む。水中ならば、こういう動きが出来る。けれども、何回こうやって運べばいいの?気が遠くなる。しかも、わたしはあのライブの夜のように、直感はしたけれども、これで本当にあの赤ちゃんが助かるのだろうか。分からん。けど、動け。膝も、別に、構わない。どうなっても、構わない。

 わたしが、くっ、と左ひざを完全に折り曲げ、沈み込ませた時。

『種子を撒くのだ』

「え?」

 声、なのか、文字、なのか、画像、なのか。

 種・子・を・撒・く・の・だ、という意味のものがわたしの心に伝わってきた。

 わたしは、掌の中に、小さな種が5粒、入っているのに気がついた。わたしの瞼の裏に映り込む映像では、そう見える。わたしはその種を、水底にしゃがみこんだまま、左ひざもぐりぐりと大急ぎで回転させて、できるだけ広い範囲に撒くようにして歩き回る。左ひざの皮膚が突っ張る。破れる?でも、別に、全く、構わない。ものの数ではない。

 一粒撒くと、すぐに芽を出し、花を咲かせる。きれいな花。蓮に似ているけれども、でもやっぱり見たこともないきれいな花。色も一色ではない。最初の一粒は白。二粒目は紫、と。

 きれい。

 けれども、わたしはその花の美しさよりも、もっと、別のものに心を惹かれた。

 花の繊細さに似合わない、ぶっとい、垢抜けない感じの根。でも、とても力強い。よく見ると、その種を撒くごとに張り出した根がみるみるプールの底を這い、覆い尽くしていく。根の先端を見ると、ストローでミルクを入れないアイスコーヒーを吸うように白い根が黒くなっていく。ヘドロを吸い取っているのだ。そして、花が、どんどん咲いていく。ヘドロが栄養。ヘドロがきれいな、花に。不思議だ。

 わたしは最後の五つ目の種を自分の足元にぽとりと撒き、ぶはっ、と水面に勢いよく顔を出す。全く息継ぎしていなかったのだ。

 わたしが水から出たところはプールの丁度中央だった。ぐるっ、とゆっくりと周囲を見回す。

 やっぱり、居た。

 わたしが種を撒き、根が張り、花が咲いた場所。4箇所に1人ずつ、ちづちゃん、ジローくん、学人くん、空くんが立っていた。

 そして、他の人がみんな、『かわいそうに』、と赤ちゃんと母親を憐れむだけの中、その4人は別のことをしていた。

 4人だけが。

 祈っていた。

 わたしは、”ご本尊!”と心の中で叫び、手を合わせた。


「もよちゃん、ひざ、大丈夫?」

「うん、なんか、リハビリが効いたみたい。多分、大丈夫」

 本当に、多分、これで大丈夫だ。今落ち着いてみると、さっきの種を撒いていた瞬間みたいには実際はまだ動かせないけれども、ほどなく曲げられるようになるだろう。走れるようになるだろう。

「なんだか、びっくりしたなー」

「でも、よかったね、あの子、助かったって」

「うん、本当に良かった」

 ちづちゃん、学人くん、ジローくん、空くん。みんな普通に会話してるけど、わたしは知ってるよ。

 みんなが、祈ってた、ってことを

「ねえ。ロビーでアイス食べて帰らない?わたし、おごるよ」

 わたしはみんなに気前の良いところを見せる。

「え、いいの?」と、訊くジローくんに、わたしはこう答える。

「うん。みんなへのお礼」

 

 プールで起こった”事実”は、今日はまだみんなに話さない。


 もうちょっとだけ、待ってね。わたしがうまく整理して正確に伝えられるまでの間。

 時が来たら言うよ。

 

 みんな、汚泥に咲いた、一輪の花だって。




 


 


  


 


 
















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