第4話 月に怒鳴る
「うーん」
「どうしたの、もよちゃん?」
スマホの画面を眺めているわたしに、ちづちゃんがいいタイミングで声をかけてくれた。お蔭で踏ん切りがついた。
「よし、行こう」
「え、何処へ?」
「うん。コンサート」
「コンサート?誰の?」
「EK」
「???」
「知る訳ないよね」
「ごめんね。ちょっと、分かんない」
「”月の光”って曲、覚えてない?中2の時にさ、”月のような夜”っていうドラマの主題歌だったんだけど」
「あ、覚えてる!”~つまんない僕の人生”、みたいな感じの歌詞の後、”月が光輝く”、だったかな?こんな感じの歌でしょ?」
「そうそう!」
「うん。わたし、普段音楽とか聴かないけど、あの曲が聴きたくてそのドラマ観てた」
「おー、ちづちゃん、通だねー」
「もよちゃんはEKのファンなの?」
「うん、小学校4年生の時からね」
「え、すごい。もよちゃんって、ロックが好きなの?」
「ロックが好きというか、EKが好きだね。他のバンドは別に聴かない」
「今までもEKのライブとか行ってたの?」
「ううん、実は無いんだよね。まあ、普通、小・中学生でライブ行くのとかって、ちょっと不良っぽいっていうイメージだから、うちでは許して貰えなさそーだったし」
「今は?」
「許可が下りるように、お師匠を説得する」
「もよりさん、EKが好きなの?」
おーっと。また自然発生的に学人くんの声がし、前の席のジローくん、それから空くんがいつの間にか寄って来ている。好きなの?と訊かれた以上、語らずばなるまい。
「好き、というより、人生の一部だね。わたしの血肉と性根の9割は
「筋金入りだね」
お?空くんのコメントに、なぜかロックを感じる。ジローくんも意味深な発言をする。
「ミヤジって、ボーカルの宮二のことでしょ?物凄い読書家らしいね」
「ジローくん、ありがとう!」
わたしの突発的な大声に、4人だけじゃなく、その周囲が、びくっ、とする。声を普通に戻してわたしの演説が始まる。
「最近、タレントやお笑い芸人が読書家でちょっとかっこいいとか話題になってたりするけど、宮二の比じゃないよ。だって、宮二の住んでるマンションの部屋には図書館にあるような電動可動式の書架があって、部屋の8割がたが本だよ。しかもその蔵書ときたら、森鴎外、夏目漱石、永井荷風、内田百閒、井伏鱒二といった燦然たる文豪の本がずらっと並び、しかも、その本で曲のインスピレーションンが湧くっていうんだから。かの有名な”我輩は猫である。名前はまだ無い”っていうフレーズを、「すげえなあ、ぶっとんでるよねえ」、と言い、小学生の頃からの愛聴盤はベートーベン。宮二こそ本当の芸術家だよ。わたしはもしライブに行って、音響設備のトラブルか何かで楽器の演奏も無い、ただ単に宮二が詩を朗読するだけのコンサートになったとしても、それでもいい。わたしは、それでも構わない」
はー。わたしは駄目押しする。
「本当に、それでも、構わない」
あ・・・っと。みんな、引いてるよね。
「もよりさん、ぼくも行ってみたいな。日と場所は?」
空くんの予想外の反応に、わたしは驚いたけれども、すぐに本能が目覚めて早口でまくし立てる」
「7/25 18:30開演、銀沢ダウンサイズド・ホール!S席5,500円、まだ座席に余裕あり!」
「うん、行く。一緒に行こう、もよりさん」
わたしと空くんのやり取りに周囲は圧倒されている・・・ように見えたけれども、学人くんが喰らいついてくる。
「もよりさんと空と2人だけでそんな夜遅い時間に、しかも隣の県まで出かける、って訳にいかないだろ?千鶴さん、どう思う?」
ちづちゃんは突然振られて、え?え?という感じになっている。けれども、ちづちゃんは頑張って自己主張を始める。
「わたしも、もよちゃんとライブに行きたいなー、とは思うけれど、正直言ってEKを絶対観たいかって言われたら微妙。でも、もよちゃんと行きたい気持ちもほんとだし・・・・うん、行く!」
これを聞いて学人くんは焦った声を出す。
「え、ええっ?ジローは、ジローはどうする?」
「ぼくも行く!」
「・・・・」
さあ、思わぬ展開になってきた。学人くんの出方は?
「・・・俺も、行くよ」
かなり気が進まないような表現だけれども、これで全員が、”行く”と言ってしまった。さすがにわたしも心配になる。
「いいの?みんな。本当に純粋にわたしの趣味だよ?」
「うん、いいよ」
と、空くん。
「多分、”月の光”以外に知ってる曲、無いと思うよ?」
「いや、何事も経験だから」
学人くん、本当にそう思ってる?
「いやー、来られてよかった」
わたしの本心である。隣県の会場に向かう各駅停車の電車のボックス席に女2人、男3人で通路を挟んで座り、柿ピーやチョコレートをつまみながらの1時間弱の間、わたしは何度”来られてよかった”と言っただろう。
「良かったね、お師匠が許してくれて」
「うん。大変だったけどね」
(ロック)コンサート、と言っただけでお師匠は渋い表情をした。けれども、その嫌がる理由というのが、「そんな大勢が集まる場所に行ったら、もよりは会場の念というか、色んな人の”業”を吸い取って背負って帰ってきてしまう」という、一般家庭だとしたら、何言ってんの?というような不可解な理由。ジョーダイ家では日常会話なんだけれども。
「大丈夫。わたしにそんな霊感とか無いから」
「もよりに無くても、もよりの背後にうちのお寺の姿を、悪いモノたちは見つける。うちのご本尊にすがろうとして、とりあえずもよりの肩や背中に乗っかる」
「じゃあ、その悪いモノを持ち帰って、うちのご本尊がその人たちを救ったら、人助けになるでしょう?」
「もより。子供の頃から先々代、先代、それからわたしの話やお寺の仕事を見聞きしてよく分かっているだろう。人の生き死にというものにはすべてそういう悪い念も良い念も含めた目に見えないものがが関わってて、その人が死ぬか生きるかっていうのは人間では決められないってことを。医者だって、”助かる”と決まっている人しか救えないってことを。軽々しく考えるな。命に関わる時だってあるんだぞ」
「お兄ちゃんの時みたいに?」
「・・・・」
お師匠にはこの一言が一番こたえる。わたしはそれがよく分かっているので、敢えてここで言った。
「お師匠。わたしがこの寺の跡取りなんだよ。遅かれ早かれわたしもひいおじいちゃんや、おじいちゃんや、お師匠のような立場になるんだから。それで、もしわたしにそういう適正やら加護をいただけるような資格やらが無い人間だったら、そこで潮時、ってだけの話じゃない。それでわたしが死んじゃったら、養子でも貰って寺を守っていってよ。・・・それに、いつまでもわたしにそういうことをさせないっていうのは、お師匠の方こそ親子の情に縛られてるんじゃないの?」
おお!わたしはいつの間にか、見事なまでに完璧に問題をすり替えてしまっている。
「・・・分かった。行ってきなさい」
「ありがとうございます!・・・でも、それだけ?他に注意は?」
「何だ、注意って」
「女の子だから夜遅くならないように、とか」
「女だろうと男だろうと、危ない時は危ない」
確かに、おっしゃる通りですけれども。
会場は日本10大庭園の1つに数えられる有名な日本庭園に隣接している。せっかくなので、早く行って庭園を歩いた後、コンビニで早めの夕食を食べてからホールに入ろうということになった。
日本庭園ってどうなんだろう、と思っていたけれども、これが意外に面白かった。池に配置された石や木の植え方にも意味があるってことが素人のわたしにもしっかりと伝わってきた。
大きな枝を横に伸ばし、その枝が支柱に支えられている。松だから大して日陰もできないんだけれども、その枝をくぐった瞬間、時の流れを超えて吹いてきた昔の風が、涼やかに汗ばむ背中を一気に冷やしてくれた。
歩き疲れて茶店の横長椅子に座り、全員でソフトクリームを食べる。
うーん、修学旅行みたい。
実際、夏休みに入ったばかりのタイミングだから、老若男女の観光客が暑さをものともせずに行き交っている。と、その中に、周囲より頭1つ分背が高い男の人が横切ろうとするのが見えた。黒いジーンズに腕まくりしたシルクの濃紺のシャツ。そして、決定的なことに、ギターケースを肩に担いでいる。
「あ!」
4人と周囲を歩く観光客が一斉にわたしを見る。それでもわたしは構わず声のトーンを落とさない。
「
ジローくんがわたしに訊く。
「タカダイ?」
「EKのベースの高橙だよ!」
高橙清太はもうホールの方へと歩き去っていた。
「すごいなあ・・・」
わたしが呟くと、今度は学人くんが訊いてくる。
「すごい?」
わたしは感嘆口調で応じる。
「だって、仮にもメジャーのバンドだよ?そのバンドのベースが地方公演だっていうのに、徒歩で、しかも自分でベースを担いで会場入りだよ?すごいなあ・・・さすがEKだなあ・・・」
「・・・」
わたしの感覚に数秒の間みんな無言。ごめんね。でも、やっぱりEKって普通じゃない。
ホールは3年前にできたばかりなので、とてもきれいで明るい感じ。最初、”ダウンサイズド”なんて冗談かと思ったけれども、敢えて客席数を抑え、冒険的な様々な企画が立てやすいようなサイズ、というコンセプトなのだそうだ。ライブハウスの拡大版、といったところかな。それでもこの5人が固まった席を簡単に取れたっていうのはEKのファンとしてはちょっと複雑な心境。
月の光以降女性ファンも増えたようで、客層を見ると、男7.5割、女2.5割といったところだ。女性客はOL風の人が多いけれども中にはわたしくらいの年代の子もいて、嬉しい反面、”ふん、わたしは小学生の時から聴いてるんだから。年季が違うよ!”という思いもある。
グッズコーナーをちらちら横目で見ながら、ぞろぞろと5人で客席へ向かう。
「もよちゃん、何か買わなくていいの?」
「う、ううん。と、特に、無、いよ・・・バ、バンドそのものが、目の前に出てくるん、だ、から、い、いいの・・・」
ちづちゃんの気遣いに答えるわたしの声はとんでもなく上ずっていて、喋りながら自分で分かるだけに余計にまた上ずる。
「もよりさん、もしかして緊張してる?」
「え?何でわたしが緊張なんか、す、すっ、るわ、け、ないよ」
空くんに返事するわたしに、冷静に空くんがまた問いかける。
「緊張してるよね?」
「はい。してます・・・・」
おー、と男子3人がどよめく。
「え、何?」
「いや、もよりさんが敬語を使うなんて」
「・・・・」
わたしって、そういう風に認識されてるんだ。気を付けよう。
「ロックコンサートって、こんな静かなもんなの?」
開演10分前。ほぼ客が座席についた状態なのに、高校の全校集会のざわつきよりもはるかに静かだ。
「さあ。ロックコンサート自体わたしも初めてだから。ただ、EKの昔のライブだと、客席の照明をつけたままで演奏したり、客が拍手すると、”やかましい、静かに聴け!”、って宮二が怒鳴ったりしてたらしいけどね」
「・・・・それって、どうなの?」
「あと、スピリッツのボーカルがね」
「スピリッツって、あのスピリッツ?」
そう、あのスピリッツ。デビュー以来、全曲ダウンロード1位を獲得してるあのスピリッツのことをわたしは話題に出す。
「うん。そのスピリッツのボーカルがね、EKのファンなんだけど、EKのアルバムを聴く時は、スピーカーの正面に正座して聴くんだって」
「・・・・」
「だから、EKについて言えば、コンサートってこんな雰囲気で合ってるんだと思う」
「なんか、聴く前から怖くなってきた」
「大丈夫だよ。随分と客に気を遣うようになったらしいから。多分」
そう言っている間に、客席の照明が徐々に落とされていく。
「みんな、そろそろ耳栓着けて」
EKのライブは音がばかでかいのは昔から有名で、それは今でも変わっていないらしい。わたしの趣味で付き合ってくれたみんなを難聴にしてしまったらそれこそ申し訳ないので1人ずつに耳栓を支給しておいたのだ。
”おお!”
薄暗い、うっすらと青っぽい光が立ち込めるステージに何の前触れもなく、無造作に、EKの4人が、すたすたと歩いて出てきた。誰も、ワー、とも、キャー、とも言わない。ぱちぱち、と、まばらな拍手が聞こえるだけ。けれども、そのまばらな拍手も、手を叩いていいものかどうか分からなかった客のものらしく、殆どみんながシーン、としてるのに気づいてすぐに消える。
宮二がギターを抱えて真ん中のマイクスタンドの前に、ギターの石林は向かって右、ベースの高橙は左、ドラムの富田は宮二の真後ろのそれぞれの定位置に着く。
”こんばんは”、も”ようこそ”、もない。いきなり石林がギターのリフをかき鳴らし始める。
”おおー!”
富田が渾身の力でドラムを叩きつける。そのバスドラにかぶせ、高橙がベースをドライブさせる。
”おおおー!!”
そして、ついに宮二が怒号の第一声を放つ。
『溜まったヘドロ掻き出して、清らな水、注ぎ込む、ooh, yeah!』
本物だ!本物の”戦う人間”だ!!
このデビュー曲をわたしは一体何千回繰り返し聴いただろう。小学校4年生の時、滅多にないことだったけれども、家族でお師匠の運転する車に乗って食事に出掛けたことがあった。
本当に偶然だった。
いきなりカーラジオから流れてきたギターのリフ。そして爆音のようなベース、ドラム。もっとも、家庭環境のせいか、音楽を殆ど聴かなかったわたしは、これがエレクトリック・ギターという楽器の音であることすら知らなかった。そして、その直後、どの楽器の音よりもばかでかい、宮二の怒号が車内に響き渡った。
「うるさい音楽だな」
そう言ってお師匠は別の局に替えようとした。
「ちょっと待って!」
思わず大きな声を出したわたしに、お師匠が訊く。
「何だ?もよりはこういうのが好きなのか?」
「えっ・・・・と。いや、そうじゃないけど・・・」
「たまにはこういうのも聴いてみたらいいじゃないの」
おばあちゃんがわたしの気持ちを察したのか助け舟を出してくれた。
「おっ、ちょっとかっこいいんじゃないか?」
お兄ちゃんもフォローしてくれる。
「この人、怒鳴ってるみたいだけど、よく聴くと、すっと突き抜けるいい声ね。キーもすごく高いし」と、お母さん。
「何より魂こもってる、って感じだな」と、お兄ちゃん。
そう、わたしはこの瞬間に、おそらく地球で最も有名な曲を思い出していた。音楽の授業の鑑賞の時間に聴いた、ベートーベンの”運命”だ。
パロディやBGMでなく、生まれて初めてきちんと聴いた”運命”のあの衝撃と同じだった。
”戦う人間”と”運命”を比べるのは決して行き過ぎではない。いや、わたしにとっては”戦う人間”こそが運命の曲だったのだ。
そして、その時は、おばあちゃんもお母さんも、お兄ちゃんも、居たのだ。
このめくるめくような記憶と、今、目の前に厳然たる事実として激情の歌を歌っているEKが存在している、ということを噛みしめながら、コンサートの1曲目が終わった。
「宮二ー!!」
拍手をかき消して男性客の怒鳴り声が響く。負けじと女性客も、
「宮二ーっ!!」
と、叫ぶ。
わたしは演奏に圧倒され、背中をべたっとシートに押し付けたまま、放心状態でいた。
ただ、訳も分からず、涙がこぼれた。
緊張感の中に楽しさがある、っていうことをこのコンサートの1曲1曲が進むごとに人生の教訓としてわたしは心に刻みつける。宮二たちの一音・一声を聞き漏らさまいとする。
宮二の前髪が汗でべたっとおでこに貼りつく。宮二はそれをかきあげない。髪全体をかきむしるように両手でガシガシする。そういった彼らの一挙手一投足を胸に叩き込む。他のみんなも口を半開きにしてステージに引き込まれている。楽しいかどうかは別として、決して退屈をしている顔ではない。
20曲近く演奏し、どうやら、これが最後の曲のようだ。
アコギに持ち替えた宮二が優しく歌い始める。
『このつまらねえ人生よ』
月の光、だ。
『俺に青き、優しき、月光降り注ぐ』
涙が、止まらない。
ああ、とうとう本当に逢えたんだ!
”ドン!”
”え?”
わたしは、音として聞いた。つもりだった。
”ドン、ドン!!”
音、もあるんだろうけれど、縦揺れの大きな地震の時のような、あの、感覚。そして1秒後、背中意に物凄く重い、強い衝撃を感じた。
誰かがわたしの座席を後ろから蹴飛ばした?そんな訳ない。
”苦しい!”
わたしは心の中でしか叫べなかった。声が出ない。
背中からも、胸からも死んだほうがマシなような圧力がかかってくる。それは体に感じるだけでなく、わたしの胸の膨らみが板のようなものでぐっと押し潰されていくのがTシャツの隙間から見えた。
”苦しい、怖い!”
痛みでははく、苦しみ、としか表現できない感覚。
「もよちゃん?もよちゃん!?」
思わず胸を押さえ、上半身を折り曲げ、冷たい汗を吹き出させているわたしに掛けられるちづちゃんの声が、朦朧とした中で聞こえる。横目で右を見ると、わたしの連れ4人は大丈夫そう。左を見ると、客が4~5人、わたしと同じように苦悶している。
”これって、何?”
そう思ったとき、『暑い!』『寒い!』『何で俺が!』『何で私が!』『畜生!』、それぞれの詳細な内容までは分からないけれども、およそ人間が腹の中に抱える不平不満のようなものが一気に自分の身中に流れ込んでくるようだ。
”あ、わたし、今、ここで、もうダメになる!”
生まれてこのかた、初めて、死、というものを瞬間的に意識した。
「宮二ーっ、もう1曲!」
男性客の野太い声が微かに耳に入ってくる。
その時、わたしの体に、衝撃が走った。
耳をつんざく、石林のギターの音。これは初めて聴く曲だ。
新曲?
ギターのリフは30代後半となった彼らの中年の体に鞭打つような、高速。富田のこれまでのうねるようなドラムではなく、タイトな高速ビート。高橙は冒頭からチョッパーベース。満を持し、バシッ!、というような歯切れで宮二が歌い始める。
『愚痴愚痴つぶやく輩共よ!』
あれ?嘘のように背中の重圧がはねのけられ、消え去る。
『自分の甲斐性じゃ何にも出来ねー!』
胸を押し潰していた何かが剥ぎ取られたのだろうか、胸の苦しみがスコーン、と消え、わたしの控えめな胸の膨らみが復活している。
”あれっ、何で?”
ちづちゃんも突然がばっと身を起こしたわたしに驚き、添えていた手を思わず引っ込める。
わたしは左隣の人たちを見る。
「あ、ダメだ!」
その人たちは未だ胸を押さえ、苦しんでいる。
目を、ステージに向ける。
『人の悪しきに目を掛けて、自分の悪しきは棚に上げっ!』
今時ワイヤレスでないマイクのコードを引き摺り、歌いながら宮二はステージを駆けずり回っている。わたしの前の座席の人は、宮二の歌う歌詞に賛同しているのか、足を組み腕を組み、うんうんとしきりに頷いている。わたしの左隣の人たちの何人かは、段々ぐったりしてきている。
何とかしないと。
自分でも訳が分からないけれども、どうすればいいのか、直感した。
「宮二ーっ、こっち向けーっ!!」
自分でもよく腹の底からこんなばかでかい声が出たものだと思う。前の座席の男性はわたしの方を振り向く。でもわたしの視線はその人の顔など無いかのように突き抜けてステージを見上げる。男性も釣られてまたステージに向き直る。
『頷いてんじゃねーよ』マイクを唇にがしがしくっつけて、ぼそぼそ呟きながら、人差し指をぶんぶん振って突き刺すようにわたしの前の男性とわたしの方を指差しながら宮二がステージの最前部まで歩いてくる。
”これは、歌詞なの?”
宮二は息継ぎをする。
『テメーのことだよおーっうおーっ!!』
怒鳴ってそのままがしゃっとマイクを床に落とし、石林のギターをひったくってかき鳴らし始める。スタッフがすかさず石林に代わりのギターを渡し、石林はクールに高速のリフを続ける。4人全員が最大・最高速の状態で演奏を追え、瞬間、左隣の人たちが揃って跳ね起きる。
「あ、やった!」
わたしは思わずガッツポーズのつもりで、右拳でドカッと前の男性客の背もたれを殴りつける。前の人は、”自分を棚に上げんなっ!”と怒鳴りつけられたショックか、放心状態で固まっている。
ガン!、という残響を置き、EKの4人は無言でステージから歩き去った。
「いやー、すごかった!」
予想に反し、学人くんが一番興奮している。
「あいつら、かっこいーよ!」
学人くんは似たような台詞を何度も繰り返している。
「でも、もよりさん、さっき急に体調悪くなったの?一体何だったの?」
心配そうなジローくん。
わたしは起こったことを、そのまま話す。それから、わたしの憶測も付け加える。
「多分、色んな人ーーー生きてる人や死んでる人の鬱屈した不平や不満が何かの拍子にわたしと隣の人たちに入り込んできたんだろうね」
「それをもよりさんが助けたってことだよね。もよりさん、霊感に目覚めたんじゃないの?」
空くんはそう言ってくれるけれども、わたしは首を振る。
「ううん、わたしも苦しんでたし。アンコールの曲の歌詞?あの怒鳴り声でわたしは復活したから。わたしじゃなく、宮二とEKの何だかよく分からないエネルギーだよ」
「でも、宮二に怒鳴り返して他の人を救ったのはもよりさんだよね」
「うーん、空くん。それも分かんないよ。もしかしたら、何とかしてっていうわたしの叫び声に宮二が気付いてくれたのかもしれないけど、亡霊だか怨念だか分からない何かに向かって、”自分を棚に上げるな!”って一喝したのは宮二だもん。宮二がすごいんだよ」
空くんはまだ何か言いたそうだけれども、とりあえず言葉を飲み込んでくれた。
「もよちゃん、去年、母方の祖母が亡くなったんだけどね」
ちづちゃんが真顔で言う。
「さっきのもよちゃん、亡くなる瞬間の、その顔みたいだった」
電車での帰路、みんなそれぞれの地元の駅で1人ずつ降りていく。わたしが最後の1人になった。
ボックス席の窓から、ふっと夜空を見上げると、夏の月が中空にあかあかと輝いていた。
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