第3話 素足のわたし

 事故、と言えばいいのか、事件、と呼んでもいいのか。本当に、突発的な事象ではあった。

 第3話にくるまでに全く触れなかったけれども、わたしは夜のジョギングを中学の時から楽しんでいる。お寺の仕事と学校の課題やらを終えた後、家の周辺を走る。週3~4日の頻度で。夜の10時前後から、気分が乗れば10km近く走ることもある。

 帰宅部ではあるけれども、わたしはスポーツ全般が好きだし、そこそこどの競技もまあ動ける方だと思う。でも、やっぱり一番好きなのは、ただ純粋に走ることだ。近県の大会は年齢制限があるので中学の時は叶わなかったけれども、高校生になった今、いずれフルマラソンの大会に参加しようと構想中だ。

 そんな女子高生ランナーであるわたしの、昨日の夜の出来事だった。

 夜11時ちょっと前と、いつもよりも遅い時間だったけれども、明日は土曜で学校が休みなので、一走りしようと、ストレッチと体幹トレーニングを軽くやり、ローテーションで使っているシューズの一足を手早く履いて、たっ、と肌に気持ちいい程度の夜の冷たい空気の中へ出た。来週からもう7月。高校に入ってからの初めての夏が目の前で、ちょっと胸の辺りがくすぐったくなるような気持ち。いや、小学生の頃とこの感覚は同じか。

 いつもの通り、駅近くの繁華街を駆け抜け、一級河川である”神降川”に架かる一番河口寄りの橋を渡り始めた。と、橋の向こうから2つの人影が走ってくる。わたしと同じ、市民ランナーかな、と思ったけれども、よく見ると、若い20歳前後くらいの男女で、男の人は自転車に乗り、女の人はなぜかその隣に並んで自分の足で走っている。しかも、大きなスーツケースを手でゴロゴロ引っ張りながら。

”一体、これってどういう状況?”、と思ったけれども、その答えを導き出すまでの余裕は無い。3人が交錯しようとしていたのは車道よりも一段高い歩道で、狭く、わたしは車道側ぎりぎりによけた。

「あ」

と、声を出した時に、わたしの、まず左足のシューズのつま先がコンクリートのギザギザに引っ掛かった。

「え?」

と声を出し、瞬間的に右足を出して態勢を立て直そうとしたその右足のつま先もギザギザに引っ掛かった。

 その時、わたしは、骨盤を前傾させ、腕を体の後方にしっかり引く正しいランニングフォームで走っており、しかも結構なスピードで前方への推進力もしっかり働いていたので、文字通り、”足元を掬われた”ような状態となり、手を前につくことができなかった。そのまま、ビタッ、という感じで体の前面がコンクリートに倒れこんだ。ダメージを感じたのは左ひざと、前歯。とりあえず起き上がってみる。この橋は歩道側には灯りが無く、暗い。車道をひっきりなしに走る車のライトでもって、左ひざを見てみる。

”うわー、結構血が出てる”

 出血はそこそこあるけれども、場所がひざだからだろうか、あまり痛みはない。他にも足に擦り傷が出来ているみたいだけれども、ひざの出血の比ではない。

 右前歯は。

”欠けた、のかな?”

 こっちも特に痛みはなく、歯の根元は舌で触っても大丈夫そうだ。

「大丈夫ですか?」

 自転車とスーツケースの男女が心配そうな顔で声を掛けてくる。

 けれども、この場合、わたしが言える言葉なんてたかが知れている。

「大丈夫です」

 わたしは表情を変えずにそう言って、”とりあえず、帰ろう”と思い、さっさと早歩きを始めた。男女がそのままそこにいたのか、もう立ち去っていたのか、あまり印象に残っていない。血は見えるけれども、暗くて傷口の状態まではよく分からない。あまりひざを深く曲げなければ普通に歩けた。歩くのがまどろっこしくて、軽く走ろうかとすら思ったくらいだ。繁華街を通る時は、通行人からジロジロ見られた。まあ、そりゃそうだろう。背の高い高校生くらいの女子が、ランニング用のショートパンツの下の素足のひざからドバドバと脛辺りに血を滴らせ、普通にザッザッと歩いている訳だから。しかも、こんな遅い時間に。

 わたしは別に気にならないけれども、逆に、人気の無い通りでわたしと出会ったら相手の方は、「出た!」とか思って怖がるだろうな、と考えると、ついニヤニヤしてしまった。

 そしたら、サラリーマン風の男女から更にジロジロ見られ、何人かの人からは目を反らされた。


「ただいま」

 明日の法事の準備をしているお師匠の部屋の脇を何食わぬ顔で通り過ぎ、洗面所に向かった。灯りをつけ、まず左ひざを確認する。

「あ、こりゃ駄目だ」

 思わず声に出して言う。自分で消毒してガーゼでも貼ればなんとかなるというレベルの傷じゃないとすぐ分かった。本当に傷が深い。

 次に、鏡を見て前歯を確認する。

「ありゃー」

 右の前歯が半分から下、無くなっていた。ただし、根元は別にぐらぐらもせず、しっかりしている。痛みもない。きれーいにパキッ、と折れたお陰で、かえって根元のダメージが無かったんだろう。ただ、口を開くと、歯の抜けた小学生みたいで、ちょっと嫌だ。あと、唇の上ぐらいが擦れて血が出ている。かなり怖い顔になってる。

「よし、しょーがない!」

 不思議なことに、歯が折れたことでかえってなんだかとてもスッキリした気分になっている。何の閉塞感に対してスッキリなのかはよく分からないけれども。

「さて、保険証持って財布持って、と」

 まあ、面倒なので、着替えずにこのまま行こう。

 お師匠にはさすがに言っとかないとね。

「お師匠」

 わたしが作業中のお師匠の前に立つと、血を見てぎょっとする。

「もより、それ・・・」

 わたしが口を開くと更にぎょっ、とした顔になった。

「ジョギングしてて、転んだ。救急センターに行ってくるね」

「ちょっと、どうやって行くんだ?待ってなさい」

 お師匠はテーブルの上に置いてある車のキーを取ろうとしたけれども、わたしは制した。

「明日、10時から山口さん家の法事でしょ?朝のお勤めもあるんだから、早く寝た方がいいよ」

 わたしはそう言って、さっさと玄関を出た。

 こういう時、街中のお寺だと本当に助かる。市民病院の敷地内にある救急センターは家から近い。

 がしゃっ、と自転車のスタンドを上げる。左足は真っ直ぐ伸ばしてだらんと下げたままで、右足だけでペダルを半回転ずつ、なんとか漕げるだろう。10分くらいで着くはず。


 救急センターの受付で申し込むと、若い女性の看護士さんが慌てた。

「どうしたんですか、それ?」

「ジョギングしてて転びました」

「ちょっと待って」

 小走りで車椅子を出してきてくれた。

「とにかく、これに座ってください」

 大袈裟だなー。でも、まあ、いっか。

「うわー、ひどいわー」

って、看護士さんが言ってる。

「1人で来たんですか?」

「はい」

 信じられない、みたいな顔をされたけれども、別に大して痛くないし、わたしそんなに変?暫く待って、看護士さんに車椅子を押して貰い、外科の診察室に運ばれた。当番の先生は、まだお医者さんに成り立て、と言った感じの女医さんだ。

「パックリいっちゃってますねー」

 先生と一緒にひざを覗き込むと、確かに。パックリ、というのがこの上なく適切な表現だ。しかも。

”うげっ、骨が見える!”

 傷口の真ん中に、真っ白い骨が見えた。

「骨の上の膜も破れちゃってますね。局部麻酔して縫いますね。一応、レントゲンを撮ってきてくださいね」

 縫う?まさかこんなことになるとは。自慢ではないけれどもわたしは生まれてこの方、手術とか外科的な処置を受けたことは一度もない。けれどもレントゲン室で撮影されている内に、”まあ、これもネタなのかな”、と思い、ちょっとしたイベントにでも参加するような気分になってきた。

 骨は異常無かった。外科診療室に戻り、ひざに麻酔を打たれる。

「いつもジョギングしてるんですか?」

「はい。その内にフルマラソン走ろうと思って」

 縫う前の洗浄の段階。

「転んだ場所に砂とかありました?」

「いえ。コンクリートだったので」

「砂が傷口の中に残ったままだと化膿するので、しっかり洗いますね」

 これは・・・・見る気が起きなかったのでひざの方には目を向けず、視線は天井に遣っていたけれども、相当ゴリゴリ洗っているんだろうと思う。鋭い痛みはないけれども、何というか、ひざの骨を通じて背骨に繋がる鈍痛、というか、脂汗が滲むような、重低音の静かな痛み。

 う・・・・ちょっとだけ我慢できないかも。けれども、「痛いです」と言う前に洗浄は終わったようだ。

「じゃあ、縫いまーす」

 美容院で、”シャンプーしまーす”、というぐらいの軽い感じで先生が言う。

 う・・・これも、さっきみたいな、低い、静かな、けれども、芯に来るような痛み。いや、苦しみ、と言った方が正確だ。

「ん?んー」

とか、先生と看護士さんは、こちらが不安になるような遣り取りをしている。怖いのは嫌だけれども、女医さんで、まあ良かった。だって、いくらわたしが無頓着だといっても、素足を晒し、これだけ至近距離で見られ放題、触られ放題で、局部麻酔だから意識もある、っていう状況で相手が男の先生だったら、さすがに恥ずかしかったと思う。

 あ、でも、骨が見えてる傷口じゃ、かわいくも何ともないか。

 施術が終わり、会計の清算を終えると、深夜1:30を過ぎていた。

 お師匠に、「今から、自分で帰る」と、一方的にメールを送信し、自転車を漕ぎ始めた。


「もよちゃん、どうしたの?」

 おー、やっぱりちづちゃんだ。こんな姿のわたしに声を掛けてくれた。

 事故から明けて月曜の今日。朝、わたしが教室に到着してからちづちゃんが登校してくるまでの15分間、わたしに能動的に話し掛けてくる子はいなかった。多分、スカートの下から見えるひざに巻いた包帯はともかく、わたしの唇の上にあるかさぶたと、「おはよう」、と口を開いた時に見える欠けた前歯が、みんなをびびらせていたのだろう。

 ちづちゃんに話すのを興味深々で聞いていた女子たちがようやく話し掛けてきてくれた。

「えー、大変だったねー」

「でも、言い方変だけど、普通の怪我で良かった。安心した」

「え?」

「ほら、最近隣の市とかでも被害があったみたいだからさ・・・」

「ああ、レイプ犯のこと?」

 わたしがあっけらかんと言うので、興味を持ちつつも聞いていないフリをしていた男子たちも、「う」と言うような顔をしている。

「まあ、ああいう犯罪って罪深いよねー。生理的なもんだろうから、どうやったら減らせるのか分かんないけど」

「もよちゃん、ケガの具合はどうなの?」

「うん。一応、椅子に座ってひざを90°まで曲げるのはOK。走るのは無理だけど、歩くのは平気。屈伸は絶対したら駄目だって」

「歯は?」

「土曜日に歯医者さんに行ったら、被せるタイプの前歯を作るって。多分2週間ぐらいはこのまんまかな」

 ちづちゃんは顔を赤らめ、困ったような複雑な表情をして、

「その、今のもよちゃんの顔も、それはそれでかわいいよ」

 慰めじゃなく、本気でそう思っていそうなのが、ちづちゃんだ。

「うん。ありがとう・・・・」

 わたしも自分で顔が赤くなるのが分かった。

「もよちゃんは、じゃあ、しばらくは走らないんだね」

「うん。しょーがないね」

「治っても、夜走るのはもうやめてね」

「え?」

「だって、心配なんだもん。わたしだってもよちゃんの顔のキズ見て、やっぱり事件のことが頭に浮かんだよ・・・でも、頑張って、訊いたの・・・」

「・・・うん」

「もよちゃんに何かあったら、わたし、本当に悲しい」

「分かった。夜、外を走るのはやめる。それにしたってさー」

「はい?」

「正座できない、っていうのはどうすればいいんだろうね」


 当分、わたしは立ったままでお経を上げることになった。檀家さんにお師匠の助手として同行する時も、先方の仏間の隅っこに立ったままわたしがお経を読み始めると、家の人はぎょっ、とする。色々と説明が面倒臭いので、

「修行です」

というお師匠の一言で全部済ませている。

 2週間経ち、ひざの抜糸をし、歯も治った。

 鏡の前で口をぱかっ、と開けて笑ったり、ちょっとポーズさえつけてみたりして自分の顔の復活を、ふふっ、と楽しんでいると、お師匠から本尊の前に呼ばれた。

「もより、危なかったな」

「え、何が?」

 まだ正座はできないので、立ったまま遣り取りするわたしに、お師匠はいつにも増して厳しい顔をしている。

「怪我した時、橋の上で自転車に乗った男性と、スーツケースを引いた女性に遭ったと言っただろ」

「うん」

「その2人、とても危険だった」

「え?どういうこと?・・・あ、もしかして、あれ、霊だったとか?」

「いや、生きた人間だ」

「じゃあ、何、もしかして犯罪者とか?」

「いや、ごく普通の人たちだ」

「だったら、どう危ないの?」

「もよりはその時、転んで怪我をしたから助かったんだ」

「・・・10針も縫って助かったって、何?意味わかんないよ」

「その2人が橋でもよりの姿が目に入った瞬間、もよりに危害を加えようという強い意識が働いた」

「危害?」

「うん。もよりが楽しそうにジョギングしてるのが許せなかったんだろう」

「・・・・確かにわたし、走ってる時楽しいから、まあ、気分良さそうに見えたかもしれないけど、そんなことだけで腹が立つかな?」

「意識、とか、幸・不幸っていうのは絶対値じゃなくって相対的なものだから。その2人が自分たちは不幸のどん底だって思ってたら、もよりのささやかな幸福感がとても妬ましく思えるだろう」

「自転車とスーツケースって、あの2人、あれからどうするところだったんだろ?」

「多分、いわゆる夜逃げするところだったんだ。どの店か、とかいう詳しい情報までは感じ取れなかったけれども、たとえば、若い飲食店を創業したての経営者が、店が上手くいかなくて、借金とかもそのままに行方をくらますケースって、結構あるんだよ」

「ふーん」

「その男女2人はそういう人たちだった。”何で自分達ばっかりこんな目に遭うんだ”っていう感覚を常に持ってた。橋の上を走っていたその時が負の感情のピークだった。もし、もよりが転ばなかったら、瞬間最大値を出した負の感情でその女性がもよりを車道に突き飛ばしていた」

「その場合、わたしはどうなったの?」

「死んでただろう」

 確かに、お師匠の言う通り、それが事実なんだろう。だけど・・・”死んでただろう”その一言ですべての説明が完了してしまう。

 やっぱり、わたしは、お師匠のことをお父さんとは呼べない。







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