第175話 プレフルマラソン(その3)
5km地点の目印、運河の閘門が見えて来た。
「27分40秒」
よしよし、順調だ。一応わたしは初マラソンながら、サブ4を目標にしている。つまり、4時間を切り、3時間台でフルマラソンを完走するランナーをこう呼び、これを目標とするランナーは多い。
とあるノーベル賞受賞の日本人科学者もマラソンが趣味でサブ4を達成しているそうだ。負けてらんない。
わたしは淡々と自身の心と体のリズムで走る。
「お、見えてきた」
前方に峠の上り坂が続く道に入った。本番レースのコースではこの道の1本北側だけど、峠を越えるのは同じ。峠越えのトンネルの2km手前が10km地点だ。
「52分ジャスト」
びっくりするぐらい順調だ。サブ4設定タイムだけでなく、最初の5kmよりもペースが速くなるビルドアップ走がきちんとできている。
いい感じ。このまま行けるぞ!
上りだけど、逆にギアが噛み合うような接地でトンネル入り口に近付く。
”ゆるめろ”
「え?」
何だ、今の。
”ゆるめろ、もより”
「お兄ちゃん?」
わたしの鼓膜の内側から、としか表現のしようがない感じなのだけれども、確かにお兄ちゃんの声だ。
ゆるめろ? 何を? ・・・って、この状況で当てはまるのはスピードをゆるめろ、ってこと?
「冗談じゃないよ」
わたしは自分でもおかしいと思ったけれども、お兄ちゃんに向かっているつもりで文句を言う。
「せっかく目標タイムをクリアできそうなのに何言ってんの? かわいい妹に何でこんな嫌がらせをするの?」
無視して逆にペースを上げて走り続けると、急に足にがくっ、とブレーキがかかった。
「?」
左足のシューズの紐がいつの間にかほどけていて、それを右足で踏んづけたのだ。
「あぶない。また転ぶところだったよ」
逸る気持ちを抑え、しゃがんで紐を締め直す。
「ああもう」
たっ、と走り出すと遠雷が聞こえた。一転雲が立ち込める、という光景をわたしは生まれて初めて目にし、次の瞬間、ド、と何かが頭上に叩きつけられた。
「ひー」
こんな声を出したのも生まれて初めてだ。これが雨だと認知するのに10秒ほどかかった。
「これもお兄ちゃんがやってるの?」
前に進みたくても、そもそも前が見えない。突然の視界不良に車道を走る車が一斉にライトを点灯する。わたしはかろうじてそのテールランプの赤色を頼りにほとんど歩くようなスピードでトンネルを目指す。ここまで思い切りのいい雨だと、怒りよりも逆に感心する。
「これもお兄ちゃんだとしたら、ちょっとすごいな。仏になったら天気も操れるのか」
一体何のつもりかは知らないけど。
数百メートル先にトンネルの入り口がぼんやりと見えてきた。
「あともう少し。トンネルに避難だ!」
と思った途端に、びたっ、と雨がやみ、日の光が差してきた。
「何だっての!」
究極の嫌がらせだ。さんざんずぶ濡れにしておいて。
あーあ、と思いながら歩いていると、後方からサイレンの音が近づいてくる。ドップラー効果で通り過ぎる車を見送った。
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