壱章 関係


関係/1


 玉城獣医師の治療以降、私と銀之助の共同生活が本格的に始まった。銀之助は、山にすぐ帰るような恩知らずな仕草を見せずに、私の家へと留まった。とは言え、私に懐いたというわけではないらしく、私とは常に一定の距離を保って生活をしている。特定の時以外私には近寄るようなことも、甘える仕草も見せることはなかった。

 銀之助が私に擦り寄ってくるのは、ブラッシングをして欲しいときと風呂に入るときだけである。

ブラッシングをして欲しいときは、大概私が小説を書いているときで、ブラッシングをするまでは体を摺り寄せてくる行為を止めなかった。仕方なく櫛を通してやると、気持ちよさそうに体を預けてくるが、少しでも自分の触れられたくないところに櫛を通すと、あの金色の瞳を私に向け、「貴様、何もわかっておらぬな?」と、無言の抗議をしてくる。

 風呂のとき、私が湯を溜め、いざ湯船に浸かろうかと思うと銀之助は器用にも戸を開け、侵入してくる。最初はかまって欲しいからかと思ったが、そんなことはなかった。銀之助は私が湯船に浸かっているにも関わらず、そこに入ろうとするのだ。何度もそれを注意したが、やめる気はないらしく何度もその行為に及んだ。仕方なく私は、大きめの桶(子供一人が遊べるようなもの)を特注し、それを浴室に置いた。そこに湯を張り、銀之助に「ここがお前の湯船だ」と言うと、理解したのか、その桶があるときは私に一瞥もくれずにそれに浸かるのだった。私が湯船から出ると、今度は体を洗えとでも言うように、シャンプーを口に咥える。更には、桶がないときは、「貴様、何故準備せぬ?」とでも言うように、やはりあの金色の瞳で語るのだった。ちなみに、特注なこともあってか桶は五万円もした。

 また、銀之助の生態も少しずつわかってきた。

 こやつは、上品な奴だった。

 地べたに餌箱を置いても決して食しはしなかった。最初は野良犬であるが故に、人から与えられるものに慣れぬのだろうと思っていたが、そうではなかった。

 銀之助は、人間と同じように、〝食卓〟というものを理解しており、決してそこらにいる野良とは違う。地べたのものを食べるのは、野良がやることだと考えているのだろう。

 あまりにも餌箱に入れているものを食べなかったので(治療後三日、銀之助は何も食べなかった)、違うものでも用意してみるかと、コタツの上に餌箱を置いた、そのときだった。あやつは今まで拒否していた餌を、急に食べ始めたのだ。そしてあの金色の瞳で「もっとよこせ」と語るのだ。私はおかわりを奴の餌箱に入れ、今度はそれをコタツより下ろして置いた。すると一切口にせぬ。餌箱をただ見つめ、「なんだこれは?」とでも言いたげな態度を示すのだ。私は、まさかな、と思いつつまたコタツの上に置く。するとやはり食べ始めるのだ。

 銀之助の上品さを語るのにはもう一つ理由がある。

 あやつは糞尿をそこらで済ませぬ。

 なんと、便所に行って用を足すのだ。教えたつもりなどないのに、器用にも便所の戸を開け、きちんとお座りして用を足す。しかも、見られることに羞恥心があるのか、私が見ている前では用を足さなかった。この事実を知っているのは、私がこっそりと奴の様子を観察したからである。

 まぁ、それだけ銀之助は上品な奴なので、世話にはあまり手間はかからなかった。毎日体を湯で流すわけで獣特有の臭いもせず、またトイレもしっかりとしている。そのせいか、動物特有の獣臭さも無い。

 ん? 運動はどうかだと? あぁ、それは気にする必要はない。奴は、私が家を出ると必ず付いてくるのだ。

 しかも一定の距離をしっかりと保って。

 私が羽田さん達の手伝いをしているときは、適当なところで寝ていたりしている。私が仕事を終えて動き出すと、奴はまた私と一定の距離を保って歩き出すのだ。ときたま急に走り出して私を追い抜かし、随分と遠くに行ったなぁ、と思うと、再度その道を戻ってきて、私とのいつもの距離を保つといった奇行も見せている。これに関しては、走り足りないので勝手に自分で運動しているのだろうと私は推測している。

 そんな銀之助との生活もあっという間に一ヶ月が過ぎ、今では私と銀之助はセットで扱われるようになった。

 銀之助と行動していないと、「今日はギンちゃんはお留守番かい?」や、「おや珍しい。先生一人かい?」などと言われる始末だ。

 私も私で、毎日銀之助に無意味に話しかけることが増えていた。おはようからおやすみまで、挨拶は一通りこいつにしている。

 だがしかし、一ヶ月が過ぎようとも、銀之助は一言も喋ることはなかった。

 一応そのことについて玉城獣医師に相談したことはあるが、声帯に特に問題は見られず、こういう性格なのでしょう、と軽くあしらわれた。

 そんな生活のとある日だ。私は驚くべき光景を目にした。その日私は何もする気が起きず、居間で昼寝をし、夕方過ぎに目を覚ました。寝すぎたと後悔し、つまらないミステリー小説の締め切りも近付いているので、執筆をしようと仕事部屋に向かったときだ。銀之助が仕事部屋に先に居た。しかも奴は、本を読んでいたのだ。

 私は二度三度と目をこすり、幻ではないかと思ったのだが、しかしそれは幻ではなかった。

 銀之助は子供向けの絵本を読んでいたのだ。先に言っておくが、私は絵本などは非常に素晴らしいものだと思っている。情操教育に向いているということはだ、人の心を動かす力が確かにあるのだ。それを少々大人向けにアレンジしたものが小説というものであろうと、私は考えている。小説の初歩の初歩は、絵本にあるのだ。

 うむ。中々な名言だ。さすが小説家である。いやいや、今はそのようなことを語っていたのではなかった。

「おい銀之助。お主、本を読めるのか」

 驚いて私は銀之助に尋ねたが、奴は耳だけをこちらに向け、顔を向けることはなかった。

「銀之助。おい」

 再度呼ぶことで、銀之助は金色の瞳を向け「私はいま読書中なのだ。声をかけるな」と苛立たしそうに語る。

 一ヶ月程度の付き合いだが、私が予想する奴の言葉は、全て正しい気がしてならない。

「銀之助、ギン」

 奴はついに無視して、本を読み出したようだ。爪でページを一枚一枚丁寧に捲っていく様は、本当に人間を見ているようで、違和感が沸いてくる。

「銀之助」

 何度呼んでも、結局奴は反応を示さなくなり、仕方なく私は例のつまらないミステリー小説を執筆することにしたのだった。


関係/2


 さて、銀之助の驚愕の趣味が明かされてから数日後。私は、銀之助のために数冊の本を注文した。インターネットの通販で購入したもので、購入ボタンをクリックしてから、なんと三日後に届くというサプライズだった(普段ならば五日はかかる)。

 配達員にお金を渡している間、銀之助は好奇心を抑えられぬとでも言うように金色の目を輝かせていた。おそらく、私が銀之助のために何かを買ったと思っているのだろう。事実、自分の買い物のついでにこいつの分も買っていた。

 どうやって察したかはわからぬが、私は背中に注がれるその視線を楽しみながら、銀之助には何も語らずに仕事部屋に向かう。銀之助はこちらをじっと見ながら、とてとてと狼のような容姿に似合わぬ可愛らしい足音をさせながら、付いてきた。

 仕事部屋で私はパソコンの前に座る。銀之助は普段よりも僅かに近い距離で、先程と変わらぬ瞳を私に向けていた。

「銀之助よ。今日はお前にやるものがある」

 爛々と輝く瞳は、初めて見るものだった。体の大きさと同じく精神もまだ子供なのだろう。

「私も持っていなかった本だ。これはお前のために買ってやったのだ」

 私は梱包されたものの中から、一冊の絵本を取り出した。

「〝鶴の恩返し〟だ」

 私はその本を銀之助の前に置く。銀之助は、口を少しだけ開くその様子は「おー」と感嘆の声をあげているようだった。

「お主もいつか、その本の鶴のように、私に恩返しをするのだぞ」

 そう言って、私はついでに買った自分の本と、銀之助用に買った本を分けて置いた。

「こちらがお主の本だ。そして、こちらが私の本。いいか、人の本を読むときは今後許可を得るようにするのだぞ?」

 銀之助は私の言葉など無視して、鶴の恩返しを読み出していた。

「やれやれ。本当に子供が出来たようだ」

 子供を育てた経験など一切ないが、子供が出来たらこのような感情を抱くのだろうな、などと私はほくそ笑んだ。

 それから私と銀之助は読書に励んだ。私は前より読みたかった本を一文字一文字丁寧に読んでいき、それと同じように銀之助も本を読んでいた。

 本当に犬が本を読むとは、私は思ってはおらぬ。

 おそらくではあるが、銀之助は私の真似をしているのだろう。小説を書く時間よりも、読む時間の多い私だ。一応飼い主なのだし、その様を眺め続け、興味でも持ち姿だけでも真似しようと思っているのだろう。

 だから私は、奴の為にも今まで通りを徹底しようと思う。小説を読み、そして思い出したように小説を書く。

 それで良い。私はそれで良いのだ。

 気付けば日は暮れていて、夕飯の時間となっていた。私はカップ麺に湯を入れ、銀之助の餌箱にほんの少しだけ値段の高いフードを入れる。

 銀之助は鶴の恩返しを読み終わり、他の本を読もうともせずに、物思い耽るようにその絵本をじっと眺めていた。

「ギン、飯だ」

 銀之助は片耳をこちらに向けるが、居間に来ようとはしなかった。

「銀之助、そんなに気に入ったか」

 その言葉に銀之助は反応し、「わん」と蚊の鳴くような小さく声を上げた。

「おぉ、お前、喋れたのか」

 こやつは絶対に喋らない奴なのではないかと私は思っていたので、正直驚きを隠せない。

「ギン、もう一度喋ってみろ」

 しかし銀之助は、それから一言も喋らなかった。

 別段喋らなくとも、奴との関係に支障が出るわけではないので、私はカップ麺を食べることにした。私が食事を始めると、銀之助は鶴の恩返しの傍から離れるのを惜しむように居間に来る。そして、今までに見たことのない勢いで食事を平らげ、また仕事部屋に戻って行った。

「お前が機を織る姿は想像つかぬな。お前は隠れて庭でもいじっていそうだ」

 私は残りのカップ麺を銀之助のような勢いで流し込むと、銀之助と同じように仕事部屋に向かい、小説を読み始めた。


関係/3


 ふと、銀之助と出会ったときの花の匂いがした。匂いから、気高く、美しく、そして麗しい花であると想像できる匂いだ。

 知らぬうちに私は座椅子で眠ってしまっていたようだ。

「ギン、何処にいる?」

 いつも私と一定の距離を保っている銀之助の姿が見当たらなかった。

 そういえば奴と初めて会ったとき、この匂いがしていた。最初の出会い以外この花の匂いがしたことはなかったので、すっかりと忘れていた。

「ギン、銀之助」

 私は煙草に火を点けた。そしてもう一度「銀之助」と奴の名前を呼ぶ。

 辺りは静まり返っている。夜に鳴く鈴虫の羽音すら聞こえず、私は焦り始める。

「銀之助、隠れてないで出て来い!」

 少し声を荒げて奴の名を呼ぶ。返事が来ることには期待はしていない。奴が名前を呼んで返事をしたことなどほとんどないからだ。

「銀之助!」

 何度も奴の名前を呼ぶが、静寂しか返ってこなかった。

もしかして銀之助は、山に帰ってしまったのだろうか。この花の匂いは、銀之助が手向けとして持って来た花ではないだろうか。いやいや、そんなことはなかろう。ここまで静かな夜、あの花のような匂いを残して消えるなど、奴にはここまでドラマチックな別れの演出は出来ぬ。

「ギン……!」

 また名前を呼ぼうとしたときだった。

「煩いのう……」

 居間から、女の声がした。

 私は咥えていた煙草を落としてしまい、慌ててそれを取り上げ灰皿に押し込む。

「誰だ!」

 仕事部屋から見える居間からは姿を確認できぬ。

「じゃから、煩いと言っておろうに」

 声は縁側から聞こえてきているようだった。

「何者だ!」

「むぅ……私は別にお前を取って食おうなどと考えておらぬ。じゃから静かにせい。そんなに私が何者か知りたいのならば、こちらに来れば良かろうが」

 私は女の言葉に従うかどうか悩んだものの、自分の見えぬところで何かが起きていても恐ろしいことこの上ないので、居間に足を向けた。

 仕事部屋から居間に出て縁側を見てみると、少女ぐらいの背丈の〝女〟がそこにいた。

 女は、こちらを振り向くと妖艶な笑みを浮かべた。

「なんじゃなんじゃ、私の美しさに見惚れたか?」

 見惚れたとは、表現が違う。

 それは雷のようにこちらの体を駆け巡り、その女を凝視する以外許さないような強制力のある、呪い。

 少女然としているその容姿に反し、それは完成された〝女〟であった。

まるで美しい芸術のようだ。銀色の月光がこの女を照らし、僅かに吹く風が女の銀とも灰とも取れる色の髪を撫でていく。

「そうじゃ、そうやって静かにしておれば良いのだ」

 女は月を再度見る。

「女よ、勝手に人の家に侵入するものではない。入るときには、お邪魔します、と声をかけるものだ」

 以前どこかで言ったことを私は言う。

「ほほほ。前にも言われたのう、その言葉」

 女は私に振り向かずにそう言った。

「しかしじゃ、ここは……否、やめておこう。お主が気付くまで黙っておこうか」

 女の頭からは、二つの突起物がある。それは髪の色と同じで、耳のようにも見える。

 そして、女の着物。あれは色が気に入らずに銀之助にやったものだ。銀之助はそれでひとしきり遊んだあと、どこかに隠していた。何故この女が、銀之助が隠した私の着物を着ているのだ。

「おい女。お前、銀之助という犬を知っているか?」

「……」

 女は答えずに月を見続けている。

「お前が着ているものはな、以前に銀之助が隠したものなのだ」

「ほう」

「お前は何者だ?」

「ほほほ。さぁのう」

「むぅ。ではこの辺りで犬を見なかったか?」

「さぁのう」

 女はこちらの問いに真面目に答えるつもりなどないのか、飽きずに月を眺めていた。

「して人間よ。その犬はお前にとって大切なものか?」

 急に女は私に問いかける。

「さぁのう」

 私は女と同じように言葉を返す。

「ほほほ、相変わらず面白い奴よのう」

 頭が痛む。

 女はこちらを振り向いた。

 月光を背中に受けながらも、女の双眸は妖しく金色に輝いていた。

「お前は誰なのだ、女」

「さぁ、もう休め。寝過ごしては、美味い飯が食えなくなるぞ」

 女がそう言うと、私は急に意識を失った。


関係/4


 気付くと、私は寝室で寝ていた。体が妙にだるい。

 変な夢を見ていた気がする。居間で〝何か〟と話していて、銀之助がいなくなって……。

 そうだ、銀之助。

 私は布団から半身を起こし、寝室を見回す。銀之助の姿はなかった。

「ギン、銀之助」

 起きたばかりで声が上手く出なかった。しかし、奴にはそのような声でも届いたらしく、とてとてという足音を立て、銀之助は寝室の襖の隙間から顔だけを出した。口には餌箱を咥えており、それが奴には妙に不釣合いであった。

「居たか。居たのならば返事をするのだ、ギン」

 銀之助は寝室へと進入し、布団の上に乗って金色の双眸で私を見つめた。

 瞳からは、「腹が減った。早く飯を用意しろ」という意思が伝わった。私は壁にかけてある時計を見る。時間はもう昼の十一時を刺していた。この時間ならば、奴が怒っても無理はないだろう。

「私も腹が減った。銀之助、何か作ってくれないか?」

 銀之助は餌箱を一旦置くと「わん!」と大きく吼えた。その鳴き声は一瞬でこの家全体を支配するようなものだった。

 だがそのような支配の力など、飼い主(自称)には通用するようなことはなく、私は銀之助が再度声を上げたことに感動し、奴の要望など意にも留めなかった。

「おぉ、銀之助! やはりお前、喋れたのか!」

 銀之助の金色の双眸に、怒気が混ざる。

「あぁすまぬ。わかった、わかったからそんな目で私を睨むな」

頭をぐるりと回して首の骨を鳴らす。そして大きく息を吸い込み細く息を吐いた。昼の十一時。そう、十一時だ。あぁ、私はこうやって無駄に時間を過ごしていくのか。

 銀之助は置いた餌箱を再度咥えて、その餌箱で私の頬を叩いた。何ともくそ生意気な犬っころである。こいつの餌にたまねぎでも入れてやろうか。

 私は起き上がってキッチンへと向かう。銀之助はそんな私に付いて来る。こういった姿は可愛らしいと思うのだが、如何せん、憎たらしい行動が非常に多いというのは勿体無いものだ。

 奴が咥えている餌箱を奪い取り(何故か中々離そうとしなかった)、餌を入れる。今回は待たせてしまったということもあるので、仕方なく値段が高めの缶詰も開けた。銀之助は澄ました顔をしていたが、尻尾はぶんぶんと音が鳴るのではないかというほど、左右に激しく揺れていた。

「ははは、銀之助よ。そういう時は素直に喜べばいいのだ」

 銀之助は照れを隠すようにそっぽを向いた。

 やれやれ、やはりまだまだ子供だ。

 私は奴の飯を持って居間に移動しコタツの上へと置く。銀之助はすぐに食いつこうとしたが、何かに気付いたのか、コタツに乗せた前足を一旦下ろして、「わふん」と、まるで咳払いするように言ってから、〝おしとやか〟に食べ始める。

 頬が緩む。

 私は自分の食事のことなど忘れ、銀之助の食事風景を眺める。〝おしとやか〟という表現はしたものの、実際は手を使えるわけでもないので、少しずつコタツの周りが汚れてきてはいるが、私はそれを気にしなかった(気にしないふりをしていたとも言える)。

「銀之助よ、おしとやかに食っているようだが、周りがひどいぞ」

 私が茶化すようにそう言うと、銀之助はこちらをじろりと睨みつけ、また続きを食し始める。

 くくく。おそらく「食べているときに話しかけるな」とでも言っているのだろう。

 私は一旦仕事部屋に煙草を取りに行ってから、居間に戻って火を点けた。銀之助が抗議の瞳を向けたが、私はそれを黙殺する。煙草の臭いは誰も好きはしないだろうが、中毒なのだから仕方あるまいに。

「ギン。お前、花を知らないか? お前と初めて会った場所で香っていたものだ。あの花を、私は欲しいのだ」

 銀之助は全てを平らげた後に、小さくげっぷをして、私を片目でちらりと見た。

「何故不機嫌そうにするのだ。お前が知らぬというのなら、無理強いはしないが、知っているのだろう?」

 奴はそっぽを向くと、私から離れた場所で体を伏せた。

「ふん。まぁ良い。しかし残念だな、ギン。私はこれから羽田さんの所に行くのだ。いやはや、昼が楽しみだよ」

 銀之助は、してやられた、とでも言うように金色の瞳を細めた。私はそんな銀之助を見て、くくく、とひとしきり笑ってやると、浴室へと向かった。


 シャワーを浴びて身なりを調え、羽田家への道を歩いているときには十三時を回っていた。少し雲があるが、良い天気であることには間違いなかった。

「お、先生。今日だっけか?」

 羽田さんは畑で稲の様子を見ていた。

「えぇ。しかし、少し時間を潰してから行きます」

 羽田さんはにかっと笑いながら額の汗を拭き、「そうかい。こっちもさっさと終わらせるからさ」と言った。

 羽田さんの笑顔は好きだ。何よりも曇りがない。そういえば羽田さんの奥様も似た笑顔をしていた。夫婦とは似るものなのかもしれない。

 羽田さんのあの様子では、終わるまでにまだかかるであろう。私は鳴き声を上げる腹をさすりながら羽田さんの家を通り過ぎ、〝お気に入り〟の場所へと向かった。

 そこは羽田さんの家から十五分程歩いた所にある川だった。車一台が通れる程度の橋があり、その脇を下って上流に向かっていく。橋があった辺りは多少人間用に開発されているものの、それでも自然が残っており、上流に上っていくと、その自然はより濃くなっていく。

 私が気に入っている場所と言うものは、この橋から川を上流へと二十分進んだ所であった。

 そこには大きな平らな岩があり、天気が良い日はここで寝転がりながら煙草を吹かし、小説のネタを考えることが多かった。

「ギン、私は少し考えることがある。適当にしていろ」

 銀之助はその言葉を理解したのか、川べりへと遊びに行った。

 私は平らな岩へと腰を下ろすと、寝転がって天を仰いだ。

 煙草を吸おうと思ったが、その前に小説のネタを整理し始めた。

 今書いている小説はミステリーだ。普段は一話完結で作っていたものだが、急に長編ものをやりたくなり、事件編、迷宮編と調子よく書けたものの、解決編にてスランプに陥った。スランプを解消するために書いた小説でスランプになるとは、なんとも皮肉な話であろうか。

 着物の袖から煙草とライターを取り出し火を点ける。少しだけ小説のことを考えたのだから、煙草を吸っても問題なかろう。

 煙草の紫煙を吸い込み、私は空を見た。白い雲は優雅に流れ、青い空をより美しく彩る。そして、太陽は燦々と輝く。

 太陽も月も、私は好きだ。太陽はこの世を明るく照らし、我々に希望を与える。月はこの世を慈しむ様に照らし、我々に安堵を与える。互いは背中合わせで、顔を合わせることも少なかろう。だが、それでもこれら二つは、私たち人間にとって無くてはならない〝光〟なのだ。

「太陽と月、か」

 そう独り言を呟くと、ふと昔のことが頭を過ぎる。しかしそれは頭を振って思い出さないようにした。

 何故か銀之助が岩に飛び乗ってきて、私の顔を覗き込む。

「なんだ、銀之助。私は考え事をしているのだ。邪魔をするでない」

 銀之助は私の言葉に首を傾げた。「はて?」と奴が言っているようだった。というより、何故お前が首を傾げるのだ。私の方が意味がわからぬ。

「ギン、私は考え事をしているのだ。わかるな? だから一人で遊んでいるのだ」

 銀之助は「なんだこいつ」とでも言いたげに金色の瞳を細めて、また川べりへと走っていた。私は半身を起こして、奴の行動を見た。川に片足を突っ込んでは後退したり、その水を不思議そうに眺めたりと、子供よろしくきゃっきゃっと、奴は一人遊びをしていた。

「やれやれ。元野良ならば、川くらい見慣れているだろうに」

 そう呟いて、私はまた寝転んで瞼を閉じた。

 小説のことは少し放っておこう。大丈夫だろう。


関係/■□■


 夢を見た。

 夢、というには、少々違うかもしれない。これは、昔にあったことだ。それも私がここにくる数年前の話である。

 私にも、恋人と言える存在がいたときだ。

 その恋人の名は千草 那美ちぐさ なみ。私がまだ専門学校に通っているときに、友人の紹介で出会った女性だ。

 私はその女性を一目見て気に入ってしまった。

 彼女は、存在そのものが儚かった。繊細なガラス細工のようで、触れてしまえばすぐに壊れてしまいそうな、そのような脆い存在。

 見た目は良く、大きな黒い瞳と、肩にかかる程度の長さである黒髪がとても美しかった。

彼女も彼女で私を気に入ってくれたらしく、私と二人で出掛けても退屈そうにはしなかった。

 確か、出会ってから三ヶ月くらい経ってからだったろうか。私と彼女は付き合うことになったはずだ。

互いに無理のない関係を求め、束縛せず、深く介入せず、それでも互いを知るべく、貪りあった。

 そんな彼女が、私にとって大切な存在になるのには時間がかからなかった。

 だがしかし、私が最初に抱いた印象通り、彼女は儚く脆い存在だった。

 そんな彼女は、今でも私の心の深い深い所に呪いを残し、生き続けている。

――アナタヲ、ユルサナイカラ。

 彼女の呪いを、今でも私はよく思い出せる。

――ナギ、アナタヲ、ユルサナイカラ。

 呪いは、今でも私を縛り付ける。

――アナタガアイスルヒトスベテ、コロシテヤル。

 今でも、そしてこれからも、ずっと。

――アナタヲ、ユルサナイカラ。

 私は、彼女に呪われるのだ。


関係/5


 瞼を開くと、空は朱色に染まりかけていた。

 何時間眠ってしまったのだろうか……懐中時計を探したが見つからず、煙草とは反対の袖に入れている携帯電話を取り出す。温かみのないディスプレイには、十六時四十三分が表示されていた。

 私は目頭を押さえて、軽く頭を振ってから煙草に火を点けた。そろそろ寒くなるというのに、こんな所で寝ていては風邪をひいてしまう。締め切りまでそう余裕もないので、ここで体調を崩すのは避けたいところだ。

 だらけている証拠である。

 車屋に勤めているときには、ここまで自分の体調に無関心ではなかったはずなのに、小説家と言う、時間を自由に使える仕事をしてからは、このような有様がよくある。数年前のこととは言え、あのときの自分は社会人として、良くやったと誇りに思えてしまう。

「その通りだ、私は、良くやった……」

 仕事も、那美のことも……全部。

 煙草を一通り愉しむと、私は携帯灰皿にそれを押し込め、先程石の上に置いていた煙草も詰め込んだ。

「銀之助、帰るぞ」

 囁くような言い方になってしまったが、銀之助は犬なのだしこれくらい聞こえているだろう。私は一度大きく背伸びをして、岩から降りようと身を乗り出した。そこで、私は以前に見たことのある人影が、この岩を背に座っているのを目撃した。

「ようやく起きたか、人間」

 銀とも灰とも取れる髪色、まるで動物の耳のような頭の突起物、金色の双眸の完成された〝女〟の姿。

 それは昨晩見たであろうあの女であった。あろう、と表現したのは記憶が曖昧だからだ。

「貴様は、誰だ」

「ほほほ、さぁのう」

 昨日と同じようなやり取りをして、確かに昨晩にこの女にあったのだと確信した。

「やれやれだ」

 頭を押さえながら答える。

「なんじゃ?」

 女は金色の瞳を私に向ける。その瞳は妖しく瞬き、私を惑わすように輝いている。

「いい加減に答えろ。お前は一体何者なのだ?」

 言い逃れするなよ、と奴を睨み付けた。

「私の正体がわからないと困るのか?」

「困るに決まっておろう。何故素性も知らぬ奴と話せねばならぬのだ」

「誰だと思う?」

 女は花が咲いたように笑みを浮かべる。

「質問を質問で返すな」

「人間、お前は鈍い」

 私は岩から降りる。身長は私より頭一つ分小さく、体の凹凸も少ない。やはり少女として見られるのだが、何故ここまでこの女は〝仕上がって〟いるのか。

「何が鈍いというのだ」

「全てにおいてじゃ」

「お前の話し方は妙に古めかしいな」

「お前のような人間に言われたくない」

 女は嘆息して、肩をすくめる。

 私も女のように肩をすくめる。

「もう良い。私は帰る……銀之助!」

「なんじゃ?」

「お前のことでは……」

 ……いいや、待て。何故この女は返事をしたのだ。

「おい女、お前の名前は何だ?」

「我が〝シンメイ〟を人間如きに言うわけなかろうが」

「……いいから答えろ」

「当ててみせよ」

少し悩む。

「銀之助」

「ほほほ」

 女は笑う。

「気付くのが遅いのう。昨日の会話で気付いていたと思っていたが」

「否、有り得ん」

 あの銀之助がこのような姿になるなど、誰が信じられるものか。これではまるで、鶴の恩返しではないか。いいや、こいつは犬だから犬の恩返しか。ええい、そのようなことを考えている時ではない。

「それがお前の言う、シンメイというものか?」

 このようなことを聞きたいわけではないのに、何故このようなことを聞いてしまったのか。

「まさか。しかし、私はその名を気に入っておる。だから許してやる」

 女は無い胸を張りながら偉そうに言い放つ。

「これは夢か?」

「引っ叩いてやろうか?」

 こいつは一体、何者だ?

 人に化ける獣など、創作の中だけのものだ。しかしこれは現実なのか。

「よろしい。引っ叩いて……」

 言い終わるよりも先に、奴は私の右頬を引っ叩く。じんとした痛みが、右頬に後から広がってきた。

 私はその痛みに舌打ちをして、もう一度目の前の〝現実〟に目を向けた。確かにあの女は存在しいた。これは夢などではなかった。

「銀之助よ」

「おい人間よ。お前は何度も私の名前を呼びすぎる。あの姿のときも、お前はやたらと私の名前を呼ぶ。私は喋れないのではなく、喋らないのだ」

 太陽が女……いいや、銀之助の背に隠れる。

 銀之助は双眸を細めた。太陽を背にした銀之助は後光を背負ったように芸術的に映る。神々しさと禍々しさ。対極のようで、どちらも同じ輝き。それを銀之助は放っていた。太陽を背にしているだけなのに、だがその言葉は、正しように感じていた。

「人間よ」

 このまま、こいつのこの姿を眺めていたかった。出来ることならこの姿を何かに収めておきたかった。しかしそれは躊躇われた。この姿を何かに収めた途端に、こいつの全てが失われ、ただの造形物のように成り下がってしまうように思えてしまったから。

「おい、人間!」

 銀之助が声を張り、私は思考の迷路から戻る。

「なんだ?」

「私を前にしながら無視をするとは、無礼であるぞ」

 無礼、ねぇ。

「いいか、銀之助。私の名は、〝万里 凪〟だ。人の名を覚えぬような奴に、礼儀を説かれたくなどない」

「な……?」

「もう一度言おう。私の名は、〝万里 凪〟だ。それと私はお前の主人である。呼び捨てにすることは許さぬ。名を教えたのは、一応の礼儀だ。いつか、貴様が言うシンメイというものも教えてもらうからな」

「むぅ……なんと、書くのだ?」

「私の名か? 幾万の万に里。そして、海が凪ぐの凪だ」

「なんと……ほほほっ。なんと傲慢な名であろうか。たった一人の人間如きが、万里を凪ぐとな? ほほほ、何とも、まぁ」

 銀之助は口元を隠しながら、笑っていた。

 親から与えられし名を笑われ、私は非常に腹を立てた。

「銀之助。良いか、二度と私の名を笑うな。私はこの名を好いている。傲慢であろうと、大いに結構。貴様如きに笑われる筋合いなどない」

 銀之助は私を不快そうに睨みつける。

「貴様のような人間が、私を侮辱するか。くだらぬ。本来なら私と対等に話すことですら無礼であるというのに。身をわきまえよ、愚民が。貴様は我に跪け!」

 銀之助は牙を剝き出す。あの整った顔立ちが怒りのせいで急激に歪む。

 ぴりぴりと空気が震えだす。そして、じりじりと奴の体が熱を放つ。太陽を背にしているせいであろう。虎の威を借る狐ではなく、太陽の威を借る犬、か。

「……ヒザマズケ!」

 跪け。跪け。跪け。跪け。跪け。跪け。跪け。跪け。跪け。

 頭の中に、銀之助の言葉が何度も反芻する。それは私の膝の力を徐々に奪っていき、奴の言葉通りになってしまいそうだった。

 しかし、飼い主の意地で私はその膝を支えた。

「早く……!」

「この……馬鹿者が!」

 空気が変わった。

「なっ……」

「いいか、銀之助。万物が全てお前を中心に回っていると思うなよ! 自分の我を貫くつもりならば、それに追随する覚悟をもってからにしろ、小童が!」

「何故……」

「私はお前のあるじである。お前の素行の責任の一切合切を私は背負わねばならぬ立場にあるのだ! だからこそ、お前の命令など、屁でもないわ!」

 腕を組み、胸を張る。

「なん、と……」

 銀之助の金色の瞳の瞳孔が大きく開く。

「くくっ、お主、人間のくせに随分と面白い男よのう」

 腕組をやめて、私は頭を掻く。

「とにかく、私はお前の主なのだ。いいな、銀之助」

 銀之助は声に出すのをやめたが、口元は笑みを崩さなかった。そして、金色の瞳を悪戯に輝かせると、「まぁ調べがつくまでの一興じゃ」と意味不明なことを言うと、私の目の前で片膝をつく。

「よろしい。では主殿。これから私、銀之助は適当にあなた様に従いましょう」

 適当に、と言うところがこいつらしく、私は溢れそうな笑みを噛み殺した。

「なんじゃ?」

「気にするな」

「気になるの」

 ……なるの?

「なんだ、その喋り方は」

「気にするでない、主殿よ」

「気になるぞ」

「ほほほ」

 笑ってこの場を収めようとしているのだろうか。まぁ良い。今はまだ追求するのはやめておこう。

「戻るぞ、銀之助。おおっと、その前にお前、私の前以外ではその姿になるなよ」

「そのようなこと、言われるまでもない」

 金色の光が奴を包み、やがてその光が消えるときには、銀之助はいつもの犬の姿に戻っていた。

 ふむ、なるほど。そうやって変化するのか。もっと、こう……体をべきべきと変形させるものを、多少なりとも期待していたのだがな。着物などがどこに消えているかは、聞かぬほうが良いかも知れぬな。

「銀之助、その状態で喋れるのか?」

 銀之助は首を傾げた。金色の瞳は「この姿で喋れるわけなかろうに。お主は馬鹿なのか?」と語っている。何故かはわからぬが、一言一句間違えてないという確信があった。

 私とてわかってこのようなことを聞いているのであって、決してお主に馬鹿にされるために言ったのではない。確認というものだ。

「あくまでも確認だ。私とて、その姿で貴様に喋られては気持ちが悪い」

 私がそう言うと、銀之助は金色の瞳を細め、「確認、か?」とこちらを茶化すようにその瞳を向ける。

 私はそんな瞳を向けてくる銀之助をしっかりと睨み付け、羽田家の道を歩き出した。銀之助は私の後ろを一定の距離を保ちながらついてくる。

 銀之助との会話のせいで、空は薄っすらと紺碧に染まり始めていた。

 そう言えば、と私は兼ねてから思っていたことを聞いた。

「銀之助。お前はよく夜に月を眺めているな。その姿のときも、あの人間の姿のときも」

 私は足を止め、一定の距離を保っている銀之助に振り返りながら問いかけた。銀之助はただ不快そうに眉間に皺を寄せて立ち止まるだけだった。

「ギン、応えてくれぬのか?」

 銀之助は金色の瞳をこちらに向けた。

 その瞳の中には、多くの感情が渦巻いており、奴の感情を読み取ることが出来なかった。

「銀之助。何か私はお前が不快に思うことを言ったか」

 銀之助は瞳を少しだけ悲しそうに(少なくとも私にはそう見えた)細めると、またすぐに瞳を真っ直ぐ前へ向けた。

「応えたくない、か」

 私は肩をすくめ、羽田家へと再度足を進めた。


関係/6

 

 銀之助と共に羽田家に着いた頃には、日は暮れていた。秋だからだろう。最近とんと日が暮れるのが早い。

 懐中時計を取り出そうとしたが、時計を忘れていることを再度思い出し、私は携帯電話を取り出した。ディスプレイには十七時四十分が表示されていた。かれこれ羽田家を昼に出てから数時間が経過していた。

 羽田家には見慣れたくはないが見慣れてしまったジープが停まっていた。

「あの狐獣医師め。とことん私を邪魔したいか」

 だがしかし、私はこのようなところで退くつもりはない。

 羽田家のチャイムを鳴らす。

『もしもし?』

「もしもし、万里ですが……」

『先生遅いよ!』

 インターフォンの向こうでがたがたと騒々しい音がしたと思うと、がちゃりとドアが開く。

 出迎えてくれたのは羽田さんの奥様だった。肌つやが良く、私の顔を見て、にかりと旦那さんと同じように笑った。

「さぁさ先生早く入って!」

 ここまで歓迎されると嬉しいものだ。大した用事ではないのだがね。

 居間には羽田さん夫妻とあの狐のような目をした獣医師の玉城がいた。玉城は私の顔を見ると、小馬鹿にするように口角と片眉を吊り上げ、「どーも」と社交辞令全開の挨拶をした。

 一体なんだというのだ、こいつは。そのような態度を貴様に取られる謂れなどない。

「おやおや、茶を啜ることしか趣味のない玉城獣医師ではないですか」

 どうしてもこの男は好きになれずに嫌味が自然と漏れる。

「おやおや、変人小説家さんとそれに飼われる可哀想な銀之助ちゃんですね」

 この男……やはり好かぬ!

「玉城獣医師。あなたは何故いつも私に喧嘩を売るのですか?」

 私は座布団に座りながら玉城獣医師に言った。

「いえいえ、あなたを見ているとどうしても、ね」

 一体なんだというのだ、この男は。

「ははは! いいじゃないか先生。愛されてる証拠だよ」

 羽田さんは見当違いな意見を述べるが、私は突っ込めるような立場ではないので、口を噤んだ。

「先生、飲んでいくだろ? 今日は蟹を玉城さんが持ってきてくれてね」そう言いながら、羽田さんはキッチンへと向かった。

「蟹に罪はない。おいしくいただくことにします」

 私は羽田さんの背中に手を合わせて笑顔を向ける。銀之助は金色の瞳を輝かせながら、キッチンへと向かっていく。

 さすが食欲に忠実な我が家の銀之助。食べ物が出るとわかると、奴はすぐにキッチンへと歩を進ませた。誰よりも早く食べるために、奴が得た知識の一つである。

「銀之助、そこに座っていなさい」

 銀之助は、一応上品ということでこの町(村)では通っているので、少しでもこいつのイメージというものを保っておきかった。

「ところで万里さん」

 玉城獣医師は日本酒をお猪口で飲みながら私に話しかけた。話し方から判断するに、少しだけ真面目そうに感じた。

「なんですか?」

 羽田さんの奥様がキッチンから缶ビールを出して私に手渡す。私は「ありがとうございます」と深々と頭を下げて、それを受け取る。銀之助は奥様にとてとてと付いて来た。だが、食べ物を渡したわけではないとわかると、しょんぼりと頭を垂れた。

「すみません、何せ犬なのもので」

 私が奥様にさっきと違う意味で頭を下げると、奥様はにこやかに笑って、銀之助の頭を撫でた。

「いいのよ、銀之助ちゃん」

 奥様は銀之助の頭を愛しそうに撫でた。銀之助は気持ちよさそうに奥様の手に更に頭を押し当てて、「もっと撫でろ」とでも言いたげだ。私にはあまり触らせないくせに、薄情な奴である。

「で、何ですか?」

 私は缶ビールのプルタブを開ける。銀之助はその音に少々驚いて、身を引いた。銀之助は何故かプルタブが苦手であり、特に炭酸が入っているようなものは、プシュッっという音が大きいので、普通のものより苦手としているらしい。

「……ふむ」

 玉城獣医師は銀之助をちらりと見て、また私を見た。

「ところで、万里さん」

「一体何なのですか?」

 私はビールを一口飲んで、玉城獣医師を睨み付けた。

「何故銀之助という名前を付けたのですか?」

「いや、何故と言われても」

 あまりにも唐突な質問である。そういえば玉城獣医師は銀之助と名付けた時も首を傾げていたな。

「銀之助という名前がそんなに気に入りませんかね?」

 私は玉城獣医師に問いかける。そのタイミングで羽田さんが蟹を持ってきた。

「ほらよ、良い茹で具合だろ?」

 羽田さんが持ってきたのは立派なタラバ蟹だった。そんな羽田さんの顔は頬が紅潮していた。

 ほほぅ。この狐獣医師、中々良いものを持ってくるじゃあないか。

「あぁ、そうだ。羽田さん、例の物はありますかな?」

 本日わざわざ羽田家にお邪魔したのは、羽田さんに頼んでいたものを受け取るためであった。

「おぉじゃあ蟹を食べる前に持って来ようか」

 羽田さんは蟹を一旦置いて、「まだ食べちゃダメだよ、玉城さんも先生も!」と私達に釘を刺して、キッチンとは違う方向へとばたばたと足音を立てて向かっていった。

 数分で戻ってきた羽田さんが手に持っていたのは二輪の花だった。

「梅じゃないなら、この二つのどちらかだと思うんだけどね」

「それは、なんという名前の花ですかな?」

 私は立ち上がって羽田さんからその花を受け取った。

「ネリネとカサブランカだよ」

 匂いを嗅ぐと、それは全く違った。

 私が求めているのは、銀之助と出会ったときに香った花だ。気高く、美しい香りを持つ麗しい花だ。

「そのようなものを食事中に持って来ないでくださいますか、万里さん」

 玉城が嫌味を私に言った。さすがの私も「これは羽田さんが持って来たので私に言うな」などとは羽田さんの前では言えず、ふんと鼻を鳴らし、羽田さんに「どこかの狐は情緒というものが無いらしく、花の香りを楽しめないようです。すみませんが玄関に置いてもよろしいでしょうか」と角の立たないよう羽田さんに言葉をかける。

 これが常識的な人間の対応というものなのだよ、狐獣医師め。

「なら俺が置いてくるよ」

 羽田さんがそのまま花を持っていきそうだったので、私をそれを制止し「私が持って行きますよ」と彼から花を乱暴にならないように受け取り、玄関へとそれを置いてまた居間に戻ってきた。

 戻ると二人はすでにタラバ蟹の足を折って、食べ始めていた。二人は私に視線だけ向けると、またすぐにタラバ蟹の足へと視線を戻した。

 蟹は古来より人間を無口にさせるというが、それは狐獣医師も羽田さんも同じようだった。私は小さくため息をつく。すると羽田さんがまたこちらに視線を向け、蟹の足を一旦置いて、どんとわざと音を鳴らし机に何かを置いた。

上善如水じょうぜんみずのごとし!」

 〝上善如水〟……決して高い日本酒ではないが、私はこの日本酒を非常に好んでいた。名前どおり、水のように飲めてしまうのが、この酒の良いところで悪いところでもある。

「更にね、先生。もう一本あるのだよ!」

 机の下からさらに彼は琥珀色の便を取り出した。

「それは羽田さんの和歌山県のお知り合い自家製の梅酒ではないですか!」

 羽田さんの知り合いが作るこの自家製梅酒は、何故か私の口に驚くほど合っており、私がそれ飲みたさに送料や材料費を払ってしまうほどである。そうか、あちらは梅の季節であったな。

「今日届いたんだよ。先生好みの三年物だってさ!」

 羽田さんの親戚が作る梅酒は、三年物が一番私の口に合っているのだ。これは良い。最高だ。

「まずは上善如水からいただきます」

 私は昂ぶる感情を抑えながら座ると、まずは飲みかけのビールを一気に飲み干した。そのタイミングで、羽田さんの奥様が切子グラスをこちらに渡す。

「さすが羽田さんの奥様だ。その気遣い、とても嬉しい。惚れてしまいそうだ」

「残念だわー。この人と出会う前だったら、きっと私は先生と結婚していたのに」

 羽田さんの奥様は良い笑顔を見せながら、またキッチンに戻る。少しゆっくりしていけばいいのに。というより、あの方は酒を飲まないのだろう。まぁ、なんだかんだで、私や玉城獣医師のためにつまみを作ってくれているのだから、仕方ないか。

 私が酒をグラスに入れて、蟹の足を一本折って身を取り出すと、銀之助がキッチンからとてとてと足音を立てながら、私に歩み寄ってきた。

 普段は一定の距離を保っているというのに(家の中などでは距離的に無理があるため短くはなっているが)、こういうときだけ擦り寄ってくるのは都合が良すぎるのではなかろうか。

 だがしかし、私は文句も言わずに身を半分小皿に移した。相変わらず床に置いては食わぬので、私はそれを机に置いた。ぺろりと一口で奴は食べ終えた。金色の瞳は「もっとよこせ」と語っている。

「これ銀之助。この玉城獣医師に一言だけでも感謝しろ。我々は常識人として行動せねばならぬ」

 玉城獣医師は不機嫌そうにこちらを睨み付けた。銀之助は「ぐるる……」と唸るような鳴き声を上げた。

「そうかそうか。銀之助、お前もこの獣医師が気に食わぬか」

 私は羽田さんの奥様のように頭を撫でようとしたが、金色の瞳がこちらを鋭く睨み付ける。「触るな」とでも言いたげである。

 何故銀之助は私に対してここまで冷たいのだろう。

「まぁ犬畜生や変人小説家に何を言われても私は気にしませんがね。で、何で銀之助という名前にしたかという理由をいい加減に答えていただけませんか?」

「ですから、あなたは何故そこまで私が付けた名前に文句を言っているのですか?」

 玉城獣医師が蟹の足を一本折った。それを見て私も蟹の足を折り、身を取り出し皿の上に乗せる。

「先生、先生よ。俺はね、いつも思うんだ」

 上善如水を一気に煽り、羽田さんは深く息を吐く。息は酒臭く、それだけでこちらが酔ってしまいそうになるほどだ。

 どうやら私が来る前に、大分この二人は飲んでいたのだろう。そう思って周りを見てみると、上善如水の一升瓶が二本ほど転がっていた。羽田さん一人で飲んだのか、それとも狐獣医師と二人で飲んだのかはわからぬが、いくらなんでも飲みすぎであろうに。

「何ですかな?」

 やれやれ、と肩をすくめて上善如水を一口飲む。うむ、水のようにすっと飲みやすい酒だ。

「銀之助ちゃんはね、女の子なんだよ」

 ……ほう。

「それなのに銀之助なんて男の子みたない名前を付けてさ。まぁ、この子の見た目に合っているのだし、俺は別にいいんだけどねぇ。もっとおしとやかな名前を付けられたんじゃないのかい?」

 女の子。メス。そうであった。

 よくよく考えれば、そうであるはずだ。こやつが人の姿に化けているときは、女の姿になっていたではないか。それならば、この犬の姿のときの銀之助がメスであると考えるのが普通ではないか。何故私は、あの銀之助の姿を見て、そこに疑問すら抱かなかったのだろうか。

「玉城獣医師、何故あのときにこいつがメスであることを言わなかったのですか?」

「おかしな人だと思っていたのでね。言及しなかっただけですよ」

 この狐め。

 私は日本酒を一気に煽る。

「おやおや、小説家というから、もう少し酒に弱いと思っていましたが、存外やりますね」

「ははは、狐獣医師には負けませんよ」

 玉城獣医師の片眉が不機嫌そうに釣りあがった。

「ほう。ひ弱な変人小説家が私のような、〝命〟を助ける職に勝ると?」

 くっ……こいつ、やはり中々侮れぬ。

「さすがに命を助ける職種には勝てません。しかしだ、玉城獣医師。どうですか、ここらで決着を付けませんか?」

 私は上善如水を自分のグラスに注ぐ。

「ははは、何を言いますか、万里さん。あなたが飲んでいる酒と私がこれから飲む酒では、勝負になりません」

 彼は自分の近くから、一本の酒を机に置いた。

「そ、その酒は!」

 〝十四代純米大吟醸 龍泉〟ではないか!

 さすが獣医師。まさか一本一万云千円のものを用意しているとは!

「玉城獣医師、ここは一旦休戦して、その酒を休戦の証として飲み交わさないか?」

 玉城獣医師は意地の悪い笑みを浮かべながら、「別に構いませんよ」と言う。私にはその笑みの真意がわかっている。一つ借りを作ってやった、という笑みである。

「何だよ、先生。玉城さんとずいぶんと仲良しだね!」

 羽田さんは上善如水をまた一気に飲み干した。結構なお年であるはずなのに、何と言う酒豪であろうか。

 私は先程注いだ酒を羽田さんがしたように一気に飲み干し、玉城獣医師が持っている〝十四代純米大吟醸 龍泉〟を手に取ろうと手を伸ばす。

「その前に、銀之助ちゃんに何かあげては?」

 銀之助は「何か食い物をよこせ」と金色の瞳をこちらに向けている。

「わかったわかった。ほれ」

 私は自分用に取っておいた身を銀之助の小皿に移す。

「あとで奥様がお前用に用意してくれる。今はそれだけで我慢しろ」

 銀之助はすぐに平らげてしまい、やはり金色の瞳をこちらに向ける。

 こんなに食い意地が張っているようでは、淑女とは呼べぬであろうに。全く、こやつがメスであると最初のときに知っていれば、もっとまともな……例えば〝銀子〟とでも。いや、やはりこやつは銀之助であるべきである。女に男のような名前を付けるのがアクセントになり、良い響きのように感じると聞いたこともある。

「まぁ何はともあれ、ください」

 私は空いたグラスを玉城獣医師に向けた。彼はにやりと笑うと、私のグラスに注ぐ。

「今日だけは特別なのでこれ以上文句は言わないようにしましょうか」

 酒が入っているときだけは良い奴なのかもしれないと思う私が、確かにここにいる。

「いいねいいね! 今日は無礼講だ!」

 羽田さんは大層楽しそうに言うと、奥様に「どんどんつまみを持って来てくれ!」と言った。


関係/7


 いつの間にか私は酔いが回っていた。

 普段よりも確かに飲みすぎたとは思うが、ここまで酔っ払ってしまうのは、中々どうして、予想外である。

「なんだい先生。前より弱くなったね」

「今日はちゃんぽんもしましたしね。帰りますよ」

 私は立ち上がるが、体がふらついてしまう。近くの食器棚を支えにし、軽く私は頬を叩いた。

「先生、無理しないで泊まっていきなよ」

「お心遣い感謝します。ただ、今日中にどうしても仕上げたい原稿もありますので」

 嘘であった。そもそも、今日中に仕上げなければならないのならば、私はこんなになるまで飲もうともしない。

「そう、かい」

 羽田さんは、優しい人だ。おそらくではあるが、嘘を察して、特に追求しようとはしないのだろう。それは狐獣医師も同じで、私を軽く睨み付けてくるのだが、それは私が普段感じているような、嫌なものではなかった。

「無理してはいけませんよ」

 狐獣医師はそう言うと、奥様が作られたつまみを照れ隠しとでも言う様に一口頬張った。「ははっ。玉城獣医師が心配するとは、明日は槍でも降りますよ」

「言ってなさい、変人小説家」

 相変わらず口は悪い奴だ。だが、嫌味を言うだけの人物ではないということがわかったのは、今日の収穫である。

「では失礼します」

 おぼつかない足取りで、私は羽田家をあとにした。

 鈴虫の羽音が、家路を彩る。ふらふらと歩いていると、銀之助と出会った茂みの前に着いた。

「銀之助、ここで出会ったのを覚えているか」

 後方から淡い光が灯り、すぐに消えた。

「うむ。覚えておる」

 後ろを振り向くと、人の姿に化けている銀之助がいた。あの冴えない色の着物を身にまとい、銀之助の銀とも灰とも取れる髪色を、月光は美しく彩りかくも神秘的に輝かせていた。

 ふわりと優しい風が吹く。銀之助の髪と着物が風と踊った。

「相変わらずその姿の貴様は美しいな」

「なんじゃ、本当のことを言ったところで、私は喜ばぬぞ」

「蟹は美味かったか?」

「あの気味の悪い生き物はカニと言うのか。中々美味であった」

 偉そうに胸を張る銀之助を見て、口端が上がる。

「何を笑っておるのだ、主よ」

「なんでもない。気にするな」

 私は銀之助に背を向けて、家路を再び辿る。

 歩く私に、銀之助は犬のときと同じように一定の距離を保っていた。ふと月を見上げると、私は昼間に見た夢の事を思い出した。

「銀之助」

 足をまた止めて、背中越しに銀之助に話しかけた。

「なんじゃ?」

「お前は、目の前で絶える命を見たことがあるか?」

「ある。それがどうした?」

 着物の袖から煙草を取り出し、火を点けた。

「初めてそれを見たとき、どのように感じた?」

「特に何も感じぬ。死などそれを見る前から理解していたからな」

「そう、か」

 私は歩を進めた。

 何故銀之助にこのようなことを聞いたのかは、自分では理解しがたい。だが、自分とは違う種族である銀之助に聞くことで、私は何かを確認したかったのかもしれない。その何かというものは、おそらく私の過去に起因するものであろう。

「銀之助」

「なんじゃ?」

 銀之助の声には苛立ちが混じっていた。

「〝死〟というものは非常に残酷で、時に深く〝周囲〟を傷つける最低で最強の武器であることを知っているか?」

「知らぬ。じゃから話を続けよ。主の言う〝死〟に私は興味が沸いた」

 興味が沸いた、か。

 無知故の好奇心か。それとも博識故の嘲笑か。

 私はいつの間にか笑みを浮かべていた。私が抱えている問題が、まるで瑣末なようなものにも感じられてしまったからである。

「ギン、私はお前を気に入っておる」

「奇遇だな。私も気に入っておる」

「ならばこれ以上何も言うまい」

「なんじゃ、〝死〟について話さぬのか?」

「またの機会にするさ。それまで貴様は待っておれ」

 背後から銀之助の呆れたような嘆息が聞こえる。私は聞こえなかった振りをして、ゆったりとまた歩を進めた。

 そして、自宅についてからすぐに私は泥のような眠りに落ちた。

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