先生と銀之助

南多 鏡

零章 出会い


出会い/1


 いつものなだらかな坂道を、私は歩いていた。太陽は高く昇っているが、土地柄のおかげか暑くはない。道の両端には良く手入れされた畑が広がっていた。

「おや、先生。先生よ、何処に行くんだい?」

 私を呼び止めるのは、米農家の羽田はたさんだ。下の名前は知らぬが、彼は私のことを先生としか呼ばず、私は羽田さんとしか呼ばぬ。互いに細かいことを気にしない性分なので、これで別段不便と思ったことは一切ない。

「羽田さん、今日も精が出ますね。手伝いましょうか? 私はどうせ暇でしてね」

 私はいつものように彼に仕事の手伝いを申し出る。いつもなら快活な笑顔を向けて、農作業の道具を出してくれるのだが、今日は違った。

「ははは、先生。今日は日曜日ですよ。町の迷信でね。日曜日にあんたを働かせると、バチが当たるらしい。それに、今の先生の格好じゃあねぇ」

 まぁ確かに、このよう着物では働くには向かないか。

 しかし、この町(というよりは村に非常に近しいのだが)に住んで、たった二年しか経っていないのに、いつの間に私はそこまで畏怖されるようになったのだろうか。それともただ単純に馬鹿にされているのだろうか。いいや、おそらく羽田さんの優しさなのだろう。そう思おう。

「そうなのですか。そいつは知らなかった。しかし残念だ。羽田さんの手伝いをしたときに食べられる奥様の手料理が、今日は食べられない」

「先生、別にいつでも食べに来てくれていいんだぞ? どうせ米はたくさんあるしな」

「そうでしょうね、羽田さん。あなたの畑はいつも豊作だ。今回の稲も、見るからに育ちが良い。あぁ、今年の秋も楽しみだ」

 ははは、とひとしきり羽田さんは笑うと、思い出したように指を鳴らす。

「そういや、明日でいいんだが、またうちのトラクターを見てくれないかい?」

「おや、確かちょっと前に整備したはずですが」

「いやね、何故かエンジンのかかりが悪くてさ。まだまだ使えないと困るもので、頼めないかい?」

 羽田さんは少し困った顔を作る。彼のこの顔にはどうしても勝てない。

「なるほど、では今日は先に報酬をいただくために、夕飯をいただきに参ります」

「相変わらず食い意地が張っているね。さすが若いだけある」

 その後、他愛もない会話をして、私は羽田さんと別れた。

 あぁ。紹介が遅れたが、私は万里 ばんり なぎ。この田舎には、三年前の両親の死をきっかけに越してきた。歳は二十七で、前職は車の整備士をしていた。

 何故両親の死がきっかけでここに来たのか。まぁ、それはなんというか、嫌な話でね。両親は結構な額の生命保険に入っていて、同時に亡くなったものだから、必然的に一人息子の私にそのお金が入ったのだよ。色々と面倒な手続きで、三割程度持っていかれたが、それでも十数年暮らすには充分な額だった。

 元々整備士になりたかったわけではない。なんとなく機械をいじるのが好きで、手に職を付けておこうと思い、車の整備士を選んだ。専門学校を卒業し、大手の車屋に就職して二十歳から五年働いた。

 良い転機だったのだ。私としては小説家として生活してみたいとも思っていたのだし、毎日毎日物言わぬ車の相手をするのにも疲れていたのだし。

 この田舎を選んだのは、気候と家賃の関係だ。夏が涼しく過ごせるとの情報があった。また月額三万でそれなりに綺麗な一軒家を借りられるのだ。電気もあるし、速度は遅いがインターネットも使用できる。その代わり、場所のせいなのか、夜にはよく獣が訪ねてくる。私はそんなことを言った不動産屋に笑いながら、「そいつはいい。寂しくない上に、小説のネタにできる」と言い放ったのを、今でもよく覚えている。私にとっては最高の冗談だったのだが、不動産屋はきょとんとしていた。

 ちなみに、私は話し方のせいか、よく古い人間だと思われる。これは私の父の話し方をそのまま引き継いでいるのであって、私には何の非もない。私と同年代の人々にとっては慣れない話し方かもしれないが、大丈夫。私の数少ない遠方に住んでいる友人は、十数年の付き合いを経て、慣れたらしい。

 先に言っておくが、三つ子の魂百まで。私はこの話し方を変える気など一切無い。

さて、ここで私自身の自己紹介は終わろう。次からは、私の家を詳しく紹介しよう。

私の家は、先程も申したとおり、一軒家である。とは言え、小さいものだ。平屋で、居間が七畳、寝室が六畳、仕事部屋が六畳、小さなキッチンと無駄に大きい風呂とトイレがあるだけだ。居間を中心にそれらの部屋が割り振られており、トイレは私のこだわりで、ウォッシュレットにしている。あとは、小さな庭がある。

ははは、こんな小さな間取りでも家と呼べるのは、奇跡とも言えよう。

しかもだ。この家は、羽田さんとその他の農家さんの家よりも山寄りにあるのだ。そりゃあ獣も来てしまうだろう。ここなら奪い取れるかもしれないと勘違いして、領土を広げるべく狐や狸、挙句の果てには熊が訪ねてきたことがある。狐や狸は追い払ったが、さすがに熊に関しては近くの猟師さんに救援を求めた。

のらりくらりと歩いていくと、私の家が見えてくる。うむ、こぢんまりとした、私にとってぴったりの家である。

鍵を開け、居間へと入り、テレビを点けた。ははは、さすが田舎だ。テレビ局も限られている。相変わらず、ここの暮らしは面白い。テレビなど娯楽にはなり得ないのだから。

やれやれと愚痴りながら、私は仕事部屋へと移動する。以前の車屋を辞める前に購入した最新のパソコンだ。小説を書くのとインターネットをやる以外に使用しないため、まさに宝の持ち腐れというものだろう。

黒いフェイクレザーの座椅子に腰掛け、かたかたとキーボードを叩いていくが、それは数分で終わった。

煙草に火を点け、天井を見る。

今書いているものは、陳腐なミステリー小説だ。このようなもので何かを得られるかもしれない等、私自身微塵も思っていない。最近スランプ気味の私に、編集者が気晴らしに書いてみてはどうだと言ったものだから、その言葉通り気晴らしに短編連載として書いているだけなのだ。

 あぁ、言い忘れたが、私は一応小説家として生活している。今は印税も原稿料も安く、三流作家が流されるマイナー雑誌の、小さな枠で連載をしているのだ。小説家としてデビューした当初は、有名雑誌で連載していたものだが、連載が終わるとすぐにここに飛ばされたのだ。

 前の車屋を辞め、この町(村)に来て数ヶ月でデビューしたものの、テレビに出たり、映像化したりとすることもなく、慎ましく生活している。

哀れであろう? このような小説家もいるのだ。覚えておくといい。

煙草に火を点けたものの、結局一度も吸うことなく、私はそれを灰皿に押し当てた。時計を見ると、まだ昼の三時だ。今日は朝十時に起き、何もせずに一時になり、暇つぶしに散歩に出かけたその帰りに、羽田さんに会った。なんとだらしない生活だろう。

しかし、そのような怠け者にも野菜や米をくれるこの町(村)の人々は、心が非常に豊かと言えるだろう。その恩返しではないが、私は彼らの機械関係の世話をしてあげている。農機具の修理から、パソコンの世話まで全てだ。他にも暇さえあれば、お手伝いをさせていただいている。先生という呼び名は、パソコンの教え方が上手いということから、いつの間にかそう呼ばれる様になった。最初はこそばゆかったが、今では慣れてしまったため気にならない。

つい数時間前に起きたばかりだが、眠くなってきた。少し寝ようと思う。羽田さんの家の晩御飯は、確か十八時半頃だ。それまで一眠りしても、誰も私を咎めはしないだろう。

ははは、なんとも寂しいことだろうか。


 私の体内時計は非常に正確で、十七時四十五分に目覚めて多少の身支度をして、羽田さんのご自宅へと向かった。タイミングはぴったりで、羽田さんとその奥様に、「そろそろ先生が来ると思っていたよ」と笑われるほどだ。

 羽田さんの奥様の料理をありがたくいただき、更に私は明日のおかずとしてお土産までいただいた。図々しいことこの上なかったので、さすがにお土産に関しては断ったが、「折角作ったし勿体無いから」という理由を付けられ、いただくことにした。

 昼頃に通った道を、私は鼻歌交じりで辿る。

 明日の朝には、羽田さんの奥様の料理を食べられるのだ。明日が楽しみである。

 上機嫌で明かりの無い畦道を進み、我が家へと抜ける坂道を登っていると、花のような匂いが鼻につく。それは嫌なものではなく、上品で、気高さすら漂う香りであった。

 私はその香りが気に入り、花ならば一輪頂いていこうと思い、探し始めた。しかし、明かりがなく、ほぼ森と言っても良い場所では、探すのは困難だった。数分辺りをきょろきょろと見渡したが、それらしいものもなく、明日の朝にでも暇つぶしがてら探してやろうと思い、帰路に戻ろうとしたときだ。私とは違う呼吸が聞こえた気がした。

 まさか熊ではなかろうかと心配したのだが、熊ならば聞こえた気がしたという曖昧な雰囲気ではなく、こう……殺気がするはずなので、熊ではないはず。ならば狐や狸かと思うが、そもそもそれらなら人間の気配を察すれば逃げていくはずだ(領土を奪おうとしているときを除いてだが)。

 私は耳を澄ませ、その呼吸音を確かめてみた。

 人間ほどではないが、落ち着いた呼吸をしている。さてどこからであろうかと、怖いもの見たさで探してみたら、その呼吸の主は案外すぐ近くにいたのだ。というよりは、目の前の茂みの下のほうだった。

「ははは」

 私は気付けば笑っていた。

 それは犬だった。まだ子供なのだろうか。そこまで大きくは感じず、体を伏せてこちらを睨んでいた。

「これワン公。どうした、迷子か?」

 犬は瞳をこちらに向ける。犬のくせに猫のような金色の瞳を有しており、「話しかけるな」とその瞳を細くした。

「これワン公。そう不機嫌な目で見るものではない。私とて、無理して犬に関わろうなどと思ってはおらぬ」

 幼い頃から、よく犬には攻撃されていたのだ。できることなら、近づきたくはない生物である。

「おいワン公。お前、このあたりで花を見なかったか? 香りからして、気高く、美しく、そして麗しい花であるはずだ」

 犬に聞いてもどうせ答えぬとは思ったが、犬はその言葉を聞き、目を丸く見開き、何度か瞬きをした。その様が人間のようで、可笑しかった。

「ははは、ワン公よ。花だ、花。この辺りのはずなのだ」

 むしろ、この犬の近くからその香りがしている。

「知らぬか?」

 もう一度問いただすが、犬はこちらを見ながら瞬きをするだけで、答えなかった。やはり、犬ごときに言葉を投げかけても、答えは返っては来ないか。

「知らぬのなら、仕方あるまい。では、また機会があったら会おうか」

 私は犬に別れを告げ、羽田さんの奥様の手料理を持って、再度帰路を辿り始める。

 犬に話しかけるなんて、私も相当暇人だ。

 なぁに、どうせ誰も見ておらぬ。私のことなど、私のようなちっぽけな人間など、誰も興味の一片すら示さないのだから。


出会い/2


 翌日。私は、昨日の晩に嗅いだ花の匂いで目を覚ました。昨日は羽田さんの奥様からいただいたお土産を冷蔵庫に入れ、すぐに床に就いてしまった。

「さて、この匂いはどこからだ」

 起きたばかりで回らぬ頭で、匂いの元を辿る。六畳の寝室では探すのはそこまで難しくはないはずなのだが、如何せん、花ではなく余計なものを見つけてしまった。

「汚いな」

 寝室の襖のすぐ前に、昨日の犬がいた。どうやってここまで進入してきたかは、なんとなく予想がつく。おそらくではあるが私の後を付いて来たのだろう。しかし、起きるまで気付かぬとは、どれだけ昨日の私は浮かれていたと言うのだろう。酒も入っていなかったというのに。

 すぐに布団から出る気もしなかったので、私は少しの間、犬を観察した。

 薄汚れてはいるものの、毛色は全身銀であった。銀は銀でも、曇天のときの雲のようにくすんだ銀だが。顔はうろ覚えであるがシベリアンハスキーという犬種に近しい。だが体躯はそこまで大きくはなく、昨日の私の目算通り、子供である可能性が高い。しかし、犬らしくない。より狼に近いように思える。

「これ、ワン公」

 犬は耳だけをぴんと立たせた。

「勝手に人の家に侵入するものではない。入るときには、お邪魔します、と声をかけるものだ」

 犬に人間の礼儀など教えたところで得はないのだが、一応言ってみる。

 犬はこちらを振り向きその小さな体躯を起こした。よくよく見ると、体中傷だらけである。

「馬鹿者。怪我をしているのなら怪我をしていると昨日のうちに、さっさと言わぬか!」

 寝ぼけていた頭が急に覚醒し、私はその犬を跨いで羽田さんに連絡を入れた。どうせ私が起きる時間だ。羽田さんは起きているであろうし、羽田さんは犬や猫も飼っている。羽田さんの知り合いには牛を育てているところもある。きっと獣医のことも知っているだろう。

「もしもし、なんだい先生。電話なんて珍しいね」

 のんびりとした羽田さんの声。

「すまない羽田さん。今すぐ私の家に獣医を呼んではくれないか。実は犬が……」

「おや、先生。犬なんて飼ってたのかい?」

 ……そういえばそうだ。この犬とは、昨日初めて出会ったのだ。わざわざ私が世話をしてやる義理もないし、世話をできる余裕もあるわけではない。

「いや、その……」

 寝ぼけていましたと嘘をつけばいい。

 どうせ犬だ。放っておけば、傷も癒えるだろう。ぱっと見たところ、首輪をしているわけでもないし飼い犬でもない。もし傷が癒えずにこの犬が死んだところで、誰も悲しまない。

 しかし命だ。軽重など有ってはならぬ。

「先生?」

 数瞬の間、私は悩んだ。そして、私は悩んだ自分をすぐに恥じた。

 袖振り合うも何かの縁。そうさ。私は確かに昨日、この犬と縁が出来たのだ。嘘をつく必要など一切ない。

「昨日出会ったのです。これも縁です。このワン公を助けたい」

 知らぬうちに私の声は強張っていた。その気持ちが羽田さんに伝わったかどうかはわからないが、羽田さんは「すぐに呼ぶよ。ただ二、三時間はかかるよ」と言った。

「かまいません。今すぐ死にそうなわけではありませんし」

 そう言って私は電話を切った。

 そして私はすぐに犬を見た。

 犬は不思議そうな表情で私を見つめていた。あの金色の瞳が「何事だ?」と語っているようで、私はため息をついた。

「お前のことなのだ。ついでに注射でも打ってもらえ。これですぐ山に帰るような恩知らずなら、私は金輪際二度と犬には関わらぬ」

 そんな私の想いを知ってか知らずか、犬は大きなあくびをした。


出会い/3


「ふむ。他の犬と喧嘩でもしたのでしょうね。大丈夫、命に関わるようなものではないでしょう」

 狐のような目をした玉城たまき獣医師は、丸い眼鏡を外しながらそう言った。

「そうですか、良かった」

 私は安堵のため息をつくと、玉城獣医師へと深々と頭を下げ、「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。

「なに、報酬さえいただければ、私は問題ありませんよ。ところで狂犬病の注射とワクチン注射、どうしますか? 野良犬ならば、しておいたほうがいいですよ。いつ牙を剥いてくるかわかりませんし」

 私は犬を見た。犬は居間の隅で身を丸め、不機嫌そうにこちらを見つめている。「これ以上触るようならば噛み殺すぞ」と言わんばかりだ。

「でも、医療中もおとなしかったですし、もしかしたら飼い犬かも……」

「いや、打ってやって下さい」

 私は玉城獣医師の言葉を遮るように口にした。野良犬であろうと飼い犬であろうと、私には最低限こやつを世話する義務がある。まぁ、ただの嫌がらせではあるが。

「衰弱しているわけでもないですし、何かあってから玉城さんを呼び出しては申し訳ないですしね」

 もっともらしい理由を付け加え、彼に笑顔を向けた。

「では、さっさと終わらせますか」

 彼は鞄から二本の注射を取り出し、犬に近づく。犬は吠えずにただ抗議の目を玉城獣医師へと向けていた。野良犬ならば、吠えて威嚇をするものだと思っていたが、やはりまだ子供なのだろう。そこまで頭が働かないのかもしれない。

 玉城獣医師は難なく犬への注射を終え、こちらへと診療明細を手渡した。

 ほほう。中々の金額である。

「十万円ですか」

 一応紙面に書かれている金額を玉城獣医師へと確認する。

「定期治療以外では、どうしてもね。まぁ、羽田さんのご紹介ですし、端数は切ってありますから」

 払えなくはないが、十万円か。

 ふむ。一、十、百、千、万……やはり何度見ても十万円である。これは零が一個多いとかいう、玉城獣医師の間違いではないのだろうか。もう一度確認をしてみる価値はあるだろう。

「書いているとおり、出張費二万円、注射代金合わせて二万円、診察代金五千円です」

 確認する前に、玉城獣医師が金額の確認をしてくれた。ふむ、やはり間違いである。

「玉城さん、それでは四万五千だ。残りの五万五千円はどこから来るのですかな?」

 得意気に私は彼に言うが、玉城獣医師は、至極冷静に答える。

「最後に書いてあるでしょう?」

 玉城獣医師に言われ、私は最後の欄をよくよく見てみる。『年間治療契約五万円也』。

「これは一体……?」

 初めて見る文言である。

「今日から半年間、私はあなたの犬を無料で検診するということです。健康チェックとか、その他簡単なものですけどね。本当は年に何度もお呼びいただける方にしか、それは適用させないんですがね」

 玉城獣医師は少々不機嫌そうな声で言った。

「では、何故?」

「あなたの家への道がわからなかったので、町の人々に訪ねたら、皆が揃いも揃ってあなたのことを気遣う発言ばかりでね。『先生のワンちゃんをよろしく頼むよ』、『良心的な値段にしてやってくんな、玉城さん』とか、色々ね。羽田さんに至っては、『先生がお金を払えないようなら、うちにツケといてください』とまで仰った。さすがにそこまで言われたのなら、無礼な態度は取れないでしょう。たった二年で、よくここまで町の人々を懐柔されましたね」

 やれやれ、と玉城獣医師は頭を振った。その態度が充分に無礼だとは考えていないのだろうか。

「懐柔したつもりなど、私にはありません。しかし玉城さん、今の発言は彼らを侮辱しているように聞こえる。私にはそれが許せない」

 この町(村)の人々は全て良い人ばかりだ。それでいいではないか。何故この男は、わざわざ懐柔などと言うのか。

「なに、私がこの町の人々に信頼されるまで、あなたの四倍はかかったのでね。男の醜い嫉妬です、忘れてください。で、払うのですか、払えないのですか?」

 信頼されなかったのは、あなたの態度が悪かったのでは? という言葉は飲み込んでおくことにした。

「払いますよ。羽田さんに迷惑をかけるつもりなど、晩飯以外ない」

 玉城獣医師は深くため息をつく。

「では払ってください」

 玉城獣医師は荷物を片付け始めた。そこで、私はもう一度明細を見直した。

 やはり額面に変化はなかった。

「少しお待ちください」

「少しどころか、払ってくれるまでずっと待ちますよ」

「払うと言っているだろうが……」

 一言多いのだ、一言。

「それは失礼。まぁその、何て言いますかね、あまり持っていなさそうだったもので」

「ふん」

 うむ。この男。狐のような細い目をしたこの男。

 私は、嫌いだ。

 私は寝室へと向かい、襖の奥に隠してある封筒より、福沢諭吉を十人用意する。緊急で入用になったときに使用する予定であったのだが、いやはやなんとも、これも緊急と言えば緊急であろう。しかし、この福沢諭吉十人がいなくなることで、今まで彼らを隠していた封筒は、ただの紙切れとなってしまう。

 ……人生とは上手く行かぬものだ。

 私は福沢諭吉十人との別れも程々に居間へと戻る。すると、玉城獣医師は、何かの資料に筆を走らせていた。

「それは何ですかな、玉城さん」

 興味など持ちたくないが、少しでも福沢諭吉との別れを延ばしたい。

「カルテですよ。この犬の名前は?」

「名前、ですか」

 私は犬を見る。金色の瞳は「まだ何かする気か?」と不機嫌を通り越して、怒気を孕んでいた。

「名前、ですか……」

 いついなくなるかもわからぬ犬に名前を付けるのもどうかと思う。

「面倒でしたら、〝犬〟とでもシンプルに名付けますか。万里 犬、中々ユニークで面白いですよ」

 玉城獣医師は皮肉としか取れぬ笑みを私に向けた。

 やはり私はこの男を好くことは出来ぬだろう。

「おいワン公。お前の名前はなんだ?」

 犬の金色の瞳は「何言ってやがる」とこちらを馬鹿にしているように見えた。

「犬に聞いても答えないでしょう。もう犬という名前でいいでしょう?」

 玉城獣医師がカルテに名前を書こうとしたとき、「今名付けます」と彼の筆を制止する。

 名前。名前、か。ええい、小説の登場人物ならば自然と浮かんでくるのに、何故いざこうなると悩むのだろうか。これが責任とかというものだろうか。

「早くしてくれませんかね。わたしはこう見えても忙しいものでね。帰ってお茶を飲みたいのですよ」

 ……この男、いつか絶対に殴ってやる。

銀之助ぎんのすけ。こやつは銀之助です」

「……はい?」

 玉城獣医師はこちらを小馬鹿にするように聞きなおす。

「こやつの名前は、銀之助だ」

「はぁ……わかりました。漢字は?」

「銀色の〝銀〟、〝之〟は平仮名の〝え〟と似た形の漢字で、助けるの〝助〟だ」

 玉城獣医師は、カルテに〝万里 銀之助〟と記す。

「つくづくおかしな人だ。やれやれ、また何かあったら呼んでください。名刺に電話番号が書いてありますから。気が向いたら出ますよ」

「さようか。毎日モーニングコールをしてやろう」

「ははは、あなたではイブニングコールになるのでは? 私の朝は案外早いですよ」

 奴はまた皮肉を漏らして、立ち上がった。

「銀之助ちゃん、また会おう。喧嘩など金輪際ないようにね。君のご主人の生活が危ぶまれる」

 そう言い残し、玉城獣医師は、我が城を去って行った。

 彼が去った後、私は福沢諭吉との別れからか、はたまた、奴とのやり取りの気苦労からか、大きく、とても大きくため息をついた。

「なんという腹立たしい男だ」

 私は寝室より煙草を取りに行き、居間に戻り火を点けた。

「銀之助」

 犬……もとい銀之助は、耳をぴんと立てる。

「銀之助。お前は銀之助だ。いいか銀之助」

 金色の瞳をこちらに向ける。「誰だそれは?」と言っているようで、私は再度大きなため息をついた。

 あぁ、このような獣医師を紹介してくださった羽田さんの所に、トラクターの修理と感謝を言いに行かねばならぬ。

 犬に向けたため息とは違うものが、また漏れた。

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