2-3 痩せ我慢の思惑

 透明な箱の中の丸太に生えたキノコを見つめながら、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。


「大丈夫、大丈夫。『当たり』を食べても死にはしないから。でも、絶対『当たり』を引いたらダメだからね!」


 僕の横に立つ銭亀さんはニコニコしていたが、その背後にとてつもなく禍々しいオーラを纏いながら僕を言外に圧迫していた。さらに反対側に目を遣ると、クロイさんの上級資格調査委員に立候補した七人の皆さんが恐々と尨毛副会長の顔色を窺っている。


「そうよ、皆さん。ここは商売人の心意気でガブッと食べてしまいなさいな。是非とも、『当たり』以外を、ね」


 尨毛さんも陽気な笑顔を浮かべていたが、銭亀さんと同じように黒いオーラを背負って僕以外の立候補者を圧迫している。なるほど、クロイさんの上級会員承認をスムーズにするため、この七人に立候補するよう事前に圧力をかけていたということか……。


 二週間にわたり銭亀さんの仕事ぶりを観察していた僕は、なんとなく、社会の仕組みというものを理解し始めていた。しかし――。


「うぅ……」


 呻き声を洩らしたのは僕だけではなく、他の七人の候補者も同様だった。

 箱の中のキノコはいかにも「食用に向かない」色をしていた。丸太には夥しい数のキノコが生えているのだが、その傘はショッキングピンクとブラックのストライプ柄で、よく見ればそこからふわふわと薄紫色の胞子を振りまいているではないか。


「まったく、情けない男どもだねえ。死にゃあしないんだから、さっさと食べちまいな!」

「そうですよね。どうせ食べなきゃいけないんだから、さっさと済ませればいいのに」


 さっきまで喧々諤々の議論を交わしていたはずの女子二人が「ねー」と笑い合っている。恐ろしい……。

 というか、僕はこのキノコがどういうものかすら知らないのに、口にするなんて悍ましすぎる。


「あ、あの、このキノコはどういう……?」

「これは通称『クジビキダケ』といってな、商工会の会議でくじ引きとなった場合に昔から利用してきたものなのだよ。この一本の丸太に生えているキノコのうち、一個だけが『当たり』でな。『当たり』以外は生で食べてもなかなかの旨さで、珍味なのだがなあ……」


 縊死会長がキノコの説明してくれたが、大事なことがわからない。


「あ、『当たり』を食べたらどうなるんですか……?」

「ふふ。一発でわかる。何しろ、体に変化が現れるからのう」


 含み笑いをする会長が恐ろしかった。


「さあさあ、皆さん。いい加減、一個目のキノコを選んで頂戴」


 パンパンと手を叩く尨毛副会長に追い立てられ、僕達は震えながら透明な箱の中の丸太からキノコを一つ選んで手に取った。片手にすっぽり収まるサイズのこのキノコは、どこからどう見ても毒々しく、見ているだけで胃液が逆流しそうだった。しかし、僕達の背後に立つ銭亀さんと尨毛さんの黒いオーラは拒否を許さない。


「せーので皆で食べましょうね。せーの!」


 僕達候補者は視線を交わし合い、奇妙な一体感を感じながら、半ばヤケクソ気味にキノコを口の中に突っこんだ。


「よーく噛んで飲み込んで頂戴」


 涙目になりながら、僕はショッキングピンクとブラックのストライプ柄で淡い紫色の胞子を撒き散らすキノコを咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ。


「う……!」

「誠児くん……!」


 声が詰まる僕を、銭亀さんの赤い瞳が凝視する。


「う、う、うまい……!」

「よっしゃー!!」


 僕の感想に銭亀さんが大きくガッツポーズを作った。だが、他の七人の候補者も「うん、うまい」という感想を洩らし、銭亀さんは「チ」と舌打ちする。


「では、二巡目ですな」

「え!」

「当たり前でしょ。誰かが『当たり』を食べるまで終わらないわよ」


 冷静な縊死会長の言葉と、嘲るような尨毛さんの言葉に僕の瞳孔が死人のように開いていく。僕は「ひ~」と情けない悲鳴をあげながら、銭亀さんに泣きついた。


「む、無理……もう無理だよ~!」

「大丈夫だって、誠児くん。おいしかったんでしょ?」

「お、おいしいはおいしかったけど、もう無理、無理ぃ!」

「もうちょっと男らしい根性見せてよ!」

「男らしくないもん! 男らしくなくていいもん!」

「なんだよ、『もん』って! 女子かよ! あーもう、ケツの穴の小さい男だな、もういいよ!」


 銭亀さんは苛ついたように僕を押しのけると、前に出た。


「二巡目からはわたしが食べる」

「あら、いい覚悟じゃない。では皆さん、キノコを手に取って頂戴。はい、せ~の!」


 尨毛さんの掛け声に合わせ、銭亀さんは選んだキノコを迷いなく口に放り込んだ。モグモグとよく噛んで飲み込むと、OKのサインを出した。他の候補者にも『当たり』はなく、それから三巡目、四巡目と繰り返していくが――。


「あら、『クジビキダケ』が終わっちゃったじゃない」

「驚きましたな。長く商工会を見てきたが、『当たり』がないとは初めてだ。こんなこともあるんですなあ……」


 非常事態に会長と副会長は相談し、近くの給湯室からコーヒー用のマドラーを八本持ってくると、うち一本にサインペンで印を付けた。


「申し訳ないが、今回のくじ引きはこれで決めさせてもらえますかな」


 会長の持つ八本のマドラーを引くらしい。と、銭亀さんが赤い瞳からどす黒いオーラを放ちながら僕を睨んだ。


「ひぃ……」


 思わず悲鳴を上げた僕に、無言で会長のマドラーくじを指差して見せた。どうやら銭亀さんはキノコくじで尻込みした僕に大変お怒りの様子で、「あのくじ引きくらいならできるでしょ、やりなさい!」と言いたいらしい。


「わ、わ、わかりました!」


 僕はひいこら言いながら会長の元に向かい、他の候補者と同時にマドラーを一本選んで引いた。


「や、や、やった……! やった……!」


 僕が掴んだマドラーは無印だった。僕は高く掲げて銭亀さんに見せたが、銭亀さんは険しい顔のままだった。


(や、やばい! 本当に本気で怒ってるんだ!)


 僕は肝が冷えた。怖かった。銭亀さんの怒った顔がではなくて、銭亀さんを失望させてしまったことが。今までも学校でクラスメイトの機嫌を損ねて肝が冷えることは何度もあったが、その時の何十倍も後悔の念が湧いてきて押し潰されそうだった。


「それでは、『当たり』を引かなかった皆さんがクロイくんの上級資格調査委員です。これより、次回の定例会までの間を調査期間とし、委員の皆さんは調査結果を次の定例で発表してください。調査でクロイくんに問題が発見されなければ、その場で上級会員の皆さんの多数決をとり、クロイくん上級会員承認が決まります。よろしいですな?」


 会長の言葉に異議を唱える者はいなかった。


「では、今回の定例会は以上をもって終了」


 縊死会長の閉会の言をもって出席者達は三々五々、会議室から散っていく。銭亀さんも足早に会議室を去った。僕を振り返りもせずに。


(やっぱり、怒ってるんだ……!)


 僕は泣きそうになりながら、その後ろ姿を追った。



 銭亀さんは「にこにこ銭亀ファイナンス」への帰途もずっと無言だった。「ごめんなさい」と言っても何も返事してくれない。


「ぜ、銭亀さん、本当にごめんなさ……え……?」


 しかし、「にこにこ銭亀ファイナンス」の事務所に到着し、扉を閉めるや否や、銭亀さんはトイレに駆けこんだ。当然トイレの扉は閉まっているが、扉越しに中で盛大にえずいている音が聞こえてくる。


「銭亀さん……? ど、ど、ど、どうしたの! だ、大丈夫……?」


 扉の向こうに問いかけるが返事がない。


(ど、ど、どどどうしよう……!)


 僕が混乱の極致に達した時、事務所の扉が開いて菜摘さんと黒蜜さんが帰ってきた。


「あ、誠児っち、もう定例会は終わったのー?」

「誠児さん、真桜子さんはどこです?」

「菜摘さん! 黒蜜さん! た、た、たた、大変なんだよ!」


 僕の悲鳴にハッと二人が表情を硬くし、ものすごく苦しげにえずく声が漏れてくるトイレへと視線を移した。


「えー……? もしかして、トイレ入ってるのって、真桜子ちゃん社長……? どしたの? 何があったの! 誠児っち真桜子ちゃんに何したんだよー!」


 菜摘さんは僕に組みつくと、ヘッドロックをかましてくる。頭のあたりに感じる異様に柔らかな感覚と、首を締め上げる想像以上の怪力に僕は呼吸すらままならなくなる。


「痛い、痛い痛い! ぼ、僕が、な、何もするわけないよ……!」

「じゃあなんで真桜子ちゃん、あんなに吐いてるのー!」

「わかんない! わかんないよ、僕だって……」

「わかんないで済んだら警察はいらないんですー!」

「だ、だって、商工会の定例会から帰ってきたら銭亀さんが急に……」

「定例会で何かあったんですか?」


 黒蜜さんが冷静な声と表情で、菜摘さんに締められ中の僕に問いかけてきた。


「え、えっと……別に普通の話し合いで……あ、そういえば、最後にくじ引きで『クジビキダケ』を食べたけど……」

「まさか真桜子さんは『当たり』を食べたのでは?」

「いや、今回はなぜか『当たり』が出なかったんだよ」


 僕の言葉を聞いて、黒蜜さんはスッと切れ長の目を細めた。


「なるほど……」


 黒蜜さんは黒いドレスの裾を翻しながらトイレに近付くと、中に声を掛けた。


「真桜子さん、入りますよ。いいですね」


 トイレの中からは返事はなく、銭亀さんのえずく声しか聞こえてこない。黒蜜さんは構わずドアを開けた。


「うわ……!」


 僕は思わず口元を押さえた。


 それは異常な光景だった。便器の前に膝を付いた銭亀さんが胃の中のものを吐いているのだが、口から溢れているのはショッキングピンクとブラックのストライプ柄をしたキノコだった。銭亀さんがえずくたびに、夥しい数の『クジビキダケ』が胃液や唾液と共に口から吐き出されている。トイレの床には便器からこぼれた『クジビキダケ』がいくつも転がっていた。


「やっぱり……。『当たり』のキノコを引いていたんですね、真桜子さん」


 黒蜜さんは小さく嘆息を洩らすと、真桜子さんの隣にしゃがんで背中を摩った。


「すぐ縊死先生の診療所に行きましょう。お薬をもらって安静にしていれば治るのでしたよね?」

「だ、だめ! う、おええええええ!」


 再び毒々しいキノコを吐き出しながら、銭亀さんが言葉を続ける。


「い、縊死会長に、クジの不正が、ばれる……。う、うちで、金を借りてる薬屋を、引っ張ってきて……解毒剤を、作らせ、ないと……う……!」

「真桜子ちゃーん!」


 僕の隣の菜摘さんが悲痛な悲鳴を上げた。


「うちで借金してる薬屋なんて、ヤブばっかりなの知ってるでしょー! はやくお医者さん行った方がいいよぉ!」

「く、薬が効かない分は、気合で、直すから、大丈夫……」


 とても大丈夫とは思えない真桜子さんの声に、黒蜜さんが溜め息をついた。


「なんなんですかね、このやせ我慢は……。仕方ありません。今からまだマシな方の薬屋を連れてきますから、芽衣さん、真桜子さんを見ていてください」

「わ、わかった! 瑠奈ちー、なるべく早くね!」

「わたしを誰だと思っているんですか?」

「そうでした! 瑠奈ちーの【飛び出す黒影(マドモワゼル・パンテール)】は最凶最速!」


 菜摘さんの言葉に、無表情なはずの黒蜜さんの表情が微かにニヤリと笑ったように見えた。


「五分で戻ります」


 そう言うと、黒蜜さんは真桜子さんの傍らから立ち上がりながら左腕を振った。ゴシックロリータ風のドレスの、大きな飾りのついた袖の中から黒猫が飛び出し、それは瞬きの間に大きな黒豹に変化した。


 黒蜜さんがその背中にひらりと横座りに乗ると、黒豹は事務所の中を疾走し始める。床を蹴り、事務机の上のパソコンや文房具を蹴り飛ばし、窓に向かって美しい肢体を見せつけるように跳躍した。


「う、うわあ!」


 閉じられていたはずの窓は、直前に近くにいた菜摘さんが解放していた。


 ひらりと窓枠を飛び越え、黒蜜さんを背に乗せた黒豹が建物の三階から外へと飛び降りる。慌てて下を覗き込むと、黒豹はビルの壁面を垂直に駆け下り、無事地面に着地した。そのままあっという間に街の中へと消えていく。


 黒蜜さんが去ると、菜摘さんがすぐに真桜子さんに駆け寄って甲斐甲斐しく看護するのとは対照的に、度肝を抜かれた僕は床にへたり込む。


「ちょっと、誠児っち、タオル取るのに邪魔だからどいて!」

「ご、ご、ごめんなさい!」


 タオルほどの役にも立てない自分が情けなくて、僕は小さくなることしかできなかった。

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