2-4 無茶する社長

「ま、仕方ないか……」


 手鏡を覗きながら銭亀さんは溜め息をついた。


 黒蜜さんの黒豹に首筋を咥えられ有無を言わさず連れて来られた薬屋は、菜摘さんと黒蜜さんの交渉力によりクジビキダケの解毒剤を作成した。つまり、「事情が変わった、今すぐ元本まとめて返さないと身ぐるみ剥いで売りとばすぞ」という鞭と、「すぐに『クジビキダケ』の解毒剤を作り、そのことを秘密にすることを約束できるなら借金の元本五割を棒引きする」の飴を活用した話し合いだ。しかし――。


「真桜子さん、ひどい格好ですね」

「え~、うちは可愛いと思うけどなぁ」


 冷ややかな表情の黒蜜さんと、ふにゃりとした笑顔を浮かべる菜摘さんの視線の先には、全身の肌がショッキングピンクとブラックのストライプ柄になってしまった銭亀さんがいた。


「縊死先生のような完璧な特効薬はワタシには作れませんよぉ!」


 全身に草が生えた外見の薬屋が半泣きで言う。


 そもそも「クジビキダケ」の当たりを食べてしまうと、胃の中でクジビキダケが急激に成長・増殖し、そうなると当然、ここのトイレに駆け込んだ時の銭亀さんのように、増殖したそれを吐き出そうとするのが人の本能だという。その吐き気を堪えて、商工会議所からここまで歩いて帰るなんて正気の沙汰ではないらしい。


 ただし、縊死会長の特効薬を飲めば、副作用もなく一瞬で体内のクジビキダケを駆除できるのだとか。


 黒蜜さんの連れてきた薬屋の作った解毒剤は、効果についてはテキメンで銭亀さんの吐き気はすぐに収まったものの、副作用として肌の色が変わってしまったのだった。とはいえ、薬屋曰く、寝て起きた頃には肌の色も元に戻っているだろうとのこと。


 泣き顔の薬屋を黒蜜さんが無表情のまま、ねめつける。


「わかっています。わたし達もそこまでは期待していません。ただ、今回のことは、くれぐれも内密に願いますね。あなたが黙っている限りは、わたし達はあなたの借金の元本五割が返済されたものとして扱います。ですが、あなたがもし秘密を洩らすようなことがあれば――」

「元本プラス、現在から秘密を洩らした時点までの時間経過による利息、それと機密事項流出に伴う損害額をまとめて頂きにあがるので、よろしくお願いしますね」


 黒蜜さんの言葉を引き継いでそう言った銭亀さんは、牙のような八重歯を覗かせて朗らかに微笑んだ。薬屋は冷や汗を流しながらコクコクと頷き、こんなところに長居は無用と、そそくさと事務所を後にした。


 薬屋の後ろ姿を見送った後、黒蜜さんは無表情の顔でチラリと銭亀さんを見遣る。


「それで。一体、何がどうしてこうなったのか、説明してもらえませんか?」

「うわ~、瑠奈ちー、マジおこ~! 激レアだぁ。ねー、真桜子ちゃん?」

「うぅ。瑠奈ってば、そんなに怒らないでよ……。今回は、その……。えっと、ねえ……?」


 困ったように僕の顔を覗く銭亀さんに、僕は思い切って頭を下げた。


「ぼ、僕が悪いんだ……ごめんなさい……!」

「へ?」


 銭亀さんはなぜか呆けたようになっているのが、構わず僕は言葉を続ける。


「クロイさんの上級資格調査委員会の担当者を決めるのにくじ引きになって、本当は僕があのキノコを食べるように銭亀さんには言われたんだけど……僕が怖がったから……銭亀さんが……」


 僕の言葉を聞いた菜摘さんと黒蜜さんは顔を見合わせる。


「誠児さんを生贄にして、自分はくじ引きから逃げようとしたんですか?」

「真桜子ちゃん社長ってば、さすが外道ぉ!」


 慌てて銭亀さんが首を横に振る。


「ち、違うって! ほら、わたしってめちゃくちゃ運がない系女子でしょ? だから、わたしよりは誠児くんが食べた方が可能性があるかなって思って……。誠児くんが当たっちゃったら素直に諦めて、ちゃんと縊死先生の薬を飲んでもらうつもりだったよ! その代わり、委員会に対する妨害工作を考えないといけなくなるけど……それはまあ、後でじっくり考えようかなって……」


 珍しくしどろもどろに言い訳する銭亀さんに、黒蜜さんが冷たい視線を送る。


「当たり前ですけど、誠児さんが食べるのを嫌がったということですね。それで、自分で食べることにしたんですか?」

「うん……。思わず勢いで……。案の定、一発目で引き当てちゃったけど、自分の体の異常だったら我慢すればいいかなって……」


 銭亀さんの言葉に、菜摘さんは頬を膨らませ、黒蜜さんは呆れたように頭を左右に振る。


「もおぉぉぉ! 真桜子ちゃんはどうしてそう無茶するかなー!」

「本当です。社長というのは体を張る仕事ではないでしょう」

「だ、だって! 尨毛さんがいきなりクロイさんを上級会員に推薦するから、わたし、テンパっちゃって! 事前の議題審議を飛ばして今日、いきなりなんだもん。くそ、事前に議題テーマとして出したら、わたしが汚い手を使ってでも反対策を講じてくるってわかってたんだろうな……」


 原則的に、商工会の定例会で審議される内容は事前に会長と副会長に提出され、それを議題として扱うかどうか、会長・副会長・書記係で定例会前に審議するのだという。


「まったく……。真桜子さんは悪知恵がはたらく割に、無鉄砲なところがありますよね」

「そーそー。真桜子ちゃんは無茶苦茶なんだよねぇ」


 菜摘さんと黒蜜さんから冷たい目線を向けられ、銭亀さんが口を尖らせる。


「だって、だって……」

「だっても明後日もありません」

「そーそー!」


 言い訳もできずに背を丸めて小さくなる銭亀さんの姿に、僕は申し訳ない気持ちでいっぱになってしまう。


「ご、ごめんなさい。どちらにしろ、僕が意気地なしだったから……」

「誠児さんはいいんです」

「そーそー。真桜子ちゃんのおバカなところが出ちゃったって話だも~ん!」

「ううぅ……。バカとか言わないでよ」

「でも……僕が食べていれば……」


 その時、リンゴーン、リンゴーンと、事務所の壁面に立てかけられた大きな振り子時計が夜八時の到来を告げた。銭亀さんがふぅと息を吐き出す。


「もうこんな時間だね。とりあえず、芽衣と瑠奈の今日の回収額を帳簿に付けたら今日の業務は終わりにしようよ。今後は出来るだけ無茶はしない。約束するから」


 菜摘さんと黒蜜さんは顔を見合わせ、少し不満げに「出来るだけねぇ……」と零しながらも、しぶしぶ頷いた。


「わかりました」

「も~。約束だからね、真桜子ちゃん!」


 女子三人が本日の回収金を精査し始めたので、僕は帳簿を付けるために事務机に向かこうとして、銭亀さんに制止された。


「今日はもう帰りなよ、誠児くん。帳簿はわたしがやっておくから」

「え、でも……。それに、今日は迷惑かけちゃったし、少しでも仕事しないと……」


 銭亀さんが首を横に振る。


「そんなのもう気にしなくていいよ。それに、家で弟さんが待ってるんでしょ? えっと、何くんだっけ……」

「弟の名前? 龍児だよ。難しい方のドラゴンの『龍』に、僕と同じ『児』で」

「そうか、龍児くんか。九歳だっけ」

「うん」

「どんな子なの?」


 僕は一瞬どう説明すればいいのか迷ったけれど、他の人にそうするように、少しぼやかして言うことにした。


「……できないことも多いけど、絵を描くのが好きな子で、すごく上手なんだよ」

「そっか。そうなんだ」


 銭亀さんは赤い瞳を細めて優しく笑った。


「早く帰って晩御飯作ってあげなよ。これは社長命令だからね」



 梅雨の終わりのこの時期、日はかなり長いが、さすがに帰り道は真っ暗だった。最寄り駅で降りた途端にシトシトと振り出した雨が恨めしい。

 マンションのエントランスに入り、湿気と今日の自分の不甲斐なさに溜息をこぼしながら、僕は折り畳み傘を畳んで部屋に向かった。


「ただいま……」


 リビングに入ると、既に龍児くんがダイニングテーブルについていた。顔を俯かせて座っている。

 そして、驚いたことにテーブルの上には晩御飯が並んでいた。とはいっても、コンロや調理器具を使うようなメニューではなくて、皿に乗せただけの生の食パンとシリアルだけ。どちらもキッチンの見つけやすい場所にある食材で、シリアルは勢いよくぶちまけてしまったのか、テーブルに上にも飛び散っていた。


「これ、龍児くんが……?」


 龍児くんはまれに僕の料理する姿をぼんやりと覗いていることはあったが、お手伝いなんかはしたことも、させたこともなかった。僕がテーブルに置いておいたお弁当を留守番中に食べることはあっても、自分で何か食材を取り出して準備したことなんかなかったはずだ。


 お腹が空いて我慢ができなかったから自分で出したのだろうか。でも、それにしては、自分の近くに置いてある食材に手を付けた様子がなかった。


 龍児くんは俯かせていた顔を上げると、席を立ち、リビングの入り口で突っ立っていた僕に向かって走って来た。ガッと強い力で僕の腕を掴むと、戸惑う僕をダイニングテーブルまで引っ張っていく。そこにはスケッチブックが置いてあった。


「え……この絵、僕……?」


 僕がいつも座る席には龍児くんのスケッチブックが開いた状態で立てかけてあった。そのページに描いてあったのは、鉛筆で写実的にデッサンされた僕の姿だった。

 でも、龍児くんは彼にとって大切なはずのそのスケッチブックを投げ飛ばすと、僕をぐいぐいと押してその席に座らせた。


「誠児くん、ここ。誠児くん、ここ。誠児くん、ここ。誠児くん、ここ!」


 僕の腕に頭をぐりぐりと擦り付けるようにしながら、「誠児くん、ここ」をを繰り返す弟。その目は赤く充血していた。


 いつもならとっくに帰宅して晩御飯を作っているはずの僕がいなくて、混乱してしまったのだろうか。不安だったのだろうか。寂しかったのだろうか。

 胸の奥がツンと針で突かれたような気がした。


「ごめん、龍児くん。ご飯にしよう、ね?」


 龍児くんはなかなか興奮状態を収めることができなかったが、僕は龍児くんが自分の席に戻れるまで彼の柔らかい髪を撫で続けた。


「龍児くん、ご飯準備してくれて、ありがとね」


 ミルクも何もかけていないシリアルを一心不乱にスプーンで掬って口に運ぶ弟にそっと微笑みかけながら、僕も食パンを頬張る。トーストもせず、バターもジャムもつけていない食パンは、なぜだかいつもより美味しいような気がした。

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